露天風呂に溶ける
奈良ひさぎ
露天風呂に溶ける
この歳になって、露天風呂で一息つくことのよさに気づいた。ようやく、と言うべきか。暑いのは苦手なので、サウナや温度の高いお湯は辛いが、ちょうどよい湯加減であればつい物思いに耽ってしまう。
何を考えているかといえば、次の小説の構想である。旅先であれば特に、長編小説の続きよりもコンパクトで、執筆にそれほど時間を取らない短編のことを考えるのが多い。もちろん長編の続きも考えはするが、長編の次話の構想が固まったところでその物語が完結するわけではないので、湯に浸かる限られた時間の中では優先度が下がることがほとんどだ。
これまで生きてきて、瞑想する機会は少ないながらあった。今こうして自宅のパソコンに向き合って小説を書いている時にも、目をつぶって考えている時間がある。また古来の文化体験の一環として、座禅を組んで精神を集中させたこともある。が、このようなシチュエーションのほとんどで、私は寝ている。これほど大人になっても七時間半、あわよくば八時間以上は睡眠時間を確保したい私だから、無駄に早起きして組む座禅のさなかほど睡眠に適した時間はない。それで寝ているのがバレたら背中をしばかれるのだから、こんなに理不尽なことはない。全国各地の寺社仏閣によくお参りする日本文化好きではあるが、この座禅ほど相容れずできれば今後もお近づきになりたくない文化はそうそうない。
対して、露天風呂での瞑想はうたた寝からほぼ完全に切り離されている。入浴中にうたた寝などしようものなら溺れて死ぬというリアルな事情もあるにはあるが、常に体が温められることで、小説のことでも考えようというふうに脳が活性化されているのかもしれない。
この時、頭の中で書く文章を一字一句思い浮かべているわけではない。あいにく記憶力にはそれほど自信がなくすぐに忘れてしまうし、風呂の中で思い浮かべた文章がベストであるとは思っていない。私は文章を書きながら誤字脱字のチェックをし、書き上げた後の修正をほとんどしないスタイルなのだが、露天風呂に溶かされながら紡いだ文章がそのまま画面に反映するには心もとないクオリティであることは言うまでもない。あくまで構想を練るにとどめる、というわけである。
構想を練る、と一言に言ってもいろいろだが、私の場合はふと頭に浮かんだアイデアが、数千字の形になるかどうかの吟味、判断になる。いくら題材の時点では面白くても、多少なりとも伝えたいこと、言いたいことがなければ書き続けられないし、難しすぎるテーマでも筆が乗らない。書くと決めた時の熱量にもよるが、すぐに書き上げられるかというのも重要な指標の一つだ。いつまでもTo doリストに残っていては、どうしてももやもやしてしまう。
この入浴中の脳内会議で執筆する決議がとられたアイデアについては、忘れないうちに概要をどこかにメモしておく。そしていくつかあるメモの中から、その時書きたいもの、書けそうなものを無作為にピックアップして書き始める、というのを繰り返している。旅先では当然、パソコンの前に座れないので執筆速度は落ちてしまうが、アイデアを蓄えるという点においては旅先の方が高効率になっていると感じる。
ではよりたくさんアイデアを蓄えられる露天風呂、温泉の条件はなんだろうか。そう考えた時に、私は道後温泉よりも郊外のホテルの大浴場を思い浮かべた。無論道後温泉が悪いわけではない。道後温泉はそれ自体が一大観光地と化しており、多くの人が入浴する夜の時間帯に訪れると当然浴槽にそれなりに人がいて、少なくとも心理的にはのんびりと湯に浸かって物思いにふけることができない。対して郊外のホテルの大浴場においてはそのような心配がなく、運が良ければ大浴場に自分一人だけというシチュエーションもあり得る。他人の邪魔が入らないし、他人を邪魔する可能性も非常に低いので、安心して考え事ができる。
ゆえに、出張や一人旅の途中に泊まるホテルで大浴場を見つけると、それだけで一つ大きな楽しみが増えるのだ。
露天風呂に溶ける 奈良ひさぎ @RyotoNara
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