第6話 信じるという痛み、答えのない手のひら

《足りない力》

夜の局内は、機械の呼吸のような音だけが残っていた。

明滅しない蛍光灯の下、無機質な空間は冷たく沈黙している。


外はもう日が暮れているはずだった。けれど窓も時計もないこの部屋には、時間の輪郭すら失われていた。


風間は椅子に腰掛け、端末に向かって黙々と作業を続けている。

指先は慣れた動きでキーボードを叩き、目は機械的に画面を追う。

報告書の文面に感情はない。まるで、自分の中のどこかを切り離して処理しているかのように。


その背中を、ひとつ離れた席からフィアが見ていた。


彼女は何も言わない。拳を握ったまま、じっと動かずにいる。

肩がわずかに上下し、机の脚の下で片足が不規則に揺れている。

何かを堪えている。だが、それが怒りなのか、無力感なのか、判別はつかない。


背後では、別の局員たちが軽口を交わしていた。


「また未確認異常? 今月もう三件目じゃないか?」

「俺らにまで飛び火しなきゃいいけどな」

「どっちかっつーと、報告書の処理の方が地獄だわ。なーんも特定できないパターン、ホント多い」


軽薄な笑い声が、空調音に紛れて流れていく。


フィアは眉ひとつ動かさない。だが、握った拳の節がわずかに白くなる。

指先には汗がにじみ、紙の角がしわになっている。


遥暎ハルは背後の声に反応しない。表情も変えない。

それでも、彼の目の奥は静かに濁っていた。

わかっている。怒鳴っても、食ってかかっても、事態は変わらない。

だからただ、呑み込む。無力さごと、自分の中に押し込んで。


「……ッ」


かすかな息が、フィアの唇から漏れた。

紙を握る手が、震えていた。


「どうして……」


ぽつりと、低く言葉が落ちる。


「私たちが、あれだけ戦って。……それなのに」


遥暎ハルが顔を上げる。


「フィア——」


呼びかけに、彼女は応えない。

その目はどこか遠くを見ていた。怒りとも、哀しみともつかない感情が、硬く沈んでいた。


「……それでも、俺は使う」


遥暎ハルの声は、ひどく静かだった。


フィアの視線が動く。まるで初めて、彼の顔を見るかのように。


「お前が託したあの時、俺は守れた。……あれで十分だって思った」


言葉を置くたび、間が落ちる。

フィアはすぐに何かを言い返すことができなかった。


風間は机から顔を背けることなく、拳を握り直す。

その動きには、たしかな意志が宿っていた。


「使えるもんは、全部使う。——それが俺のやり方だ」


沈黙。


フィアはわずかに肩を落とす。

次の瞬間、椅子を引く音がした。


「……じゃあ、これ」


彼女は立ち上がり、机の上に封の施された符の束を置いた。


「私が使ってる符の中から、アンタに合いそうなのを選んだ。……使いこなせるかは、知らないけど」


口調は淡々としていたが、声の温度はさっきよりわずかにやわらかかった。


「干渉遮断符・改、予知符、封鎖符、共鳴符・連結型。全部入ってる」


風間は無言でその束を見つめる。

触れることなく、目だけで確認するように。


「“”って言ったからには、くらいはしてよね」


その一言だけ残して、フィアは背を向けた。


扉の前で立ち止まり、振り返りはしない。

風間はその背中を見ながら、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


静かに歩き出す二人の足音が、廊下の方へ消えていく。


符の束だけが、机の上に残されたまま、かすかな光を滲ませていた。

風間は、机に残された符を見つめる。

その光は穏やかだったが——フィアの背中に、ほんのわずかに「言い残したもの」が漂っていた。


訓練場の空気は、冷めていた。

外はとっくに夜。白い蛍光灯が沈んだ空間を照らすだけ。

時間だけが、淡々と流れていく。




《連携のほころび》

遥暎ハルは符を構える。

干渉遮断、予知、封鎖、共鳴──。

初めて託された力を、自分のものにしようと動いていた。


だが、噛み合わない。

タイミングがずれる。意識が符と重ならない。


遥暎ハルの手元で、共鳴符がかすかに光り、宙に揺れた。

その刹那、空間が歪む──本来ならそうなるはずが、光は微かにしぼみ、力の輪郭は霧散した。


フィアの足音が、響く。

彼女は、歩み寄っていた。


「そこ、ちがう。符の読みが遅い。……次、予知」


指示は短く、冷たい。

遥暎ハルは応じて手元を動かすが、起動の“間”が遅れた。


その瞬間だった。


「……そんなわけ、ないって思ってたのに——」


「……ふざけないでッ!」


怒気が、裂くように響いた。


フィアの声が、初めて震えていた。

空間が一瞬、凍りついたような気がした。


「何度やっても遅い。……それ、本当に使う気あるの!?」


言葉が止まらない。


「私が、どんな気持ちで“渡した”と思ってるの……! 信じるって、そんなに軽い言葉だった!?」


遥暎ハルが言葉を探す前に、彼女は一歩、詰め寄っていた。


「現場で、“一緒に”戦ったはずでしょ。あれを“なかったこと”にされて、あたしは、ずっと……っ」


言葉が詰まる。呼吸が乱れる。


「だから……せめて、“”信じたかったッ!」


その目には怒りと、悔しさと、それから…ひどく深い、悲しみが滲んでいた。


……どれだけ託されていたのか、今さら気づいた。

何かを返さなければと喉まで言葉が上がった。けれど、それを口に出せば

どこか壊れてしまいそうで——声にならなかった。


遥暎ハルは、なにも言えなかった。


沈黙。

空調の音が遠く響くなか、フィアは背を向ける。


「……もういい。今日は、終わり」


そう言って歩き出す。


だが、その手元にあった符の束は、彼に向けて置かれていた。

封の施された四枚の符。わずかに揺れた紙片が、光を吸って静かに横たわる。


「使いこなせるかは、知らない。……でも、試してみて」


それだけを残し、フィアは背中を向けたまま、訓練場を後にした。




《問いの刃》


部屋の空気が、重い。


外はすでに夜。

ハルの部屋の照明はついているが、どこか温度が足りなかった。

人工光の下で、フィアは黙ったまま、ソファーに膝を抱え座りこんでいた。

上着も脱がず、玄関には乱雑に脱ぎ散らかしたブーツ。


遥暎ハルは居間へ向かう途中で立ち止まった。

視線の端で、何かが張り詰めているのを感じ取っていた。


「……ねえ、ハル」


不意に名前を呼ばれる。


語気は抑えられている。けれどその下に、明らかな熱があった。

怒りというより、怒りになりきれなかったもの。

動かず、まっすぐに問いかけた。


「なんで……アンタは、そこまで“守ること”にこだわるの?」


遥暎ハルは返事をしない。

フィアもまた、一歩も譲らない声で続ける。


「誰かのために動くのは、わかる。けど……アンタ、全部を一人で背負おうとする。どんな時でも、そうやって前に出る。あれが来たときも、私の前に立って……!」


「——」


、それでいいって思ってるの? って、本気で信じてるの?」


スリッパの先が床を蹴った。音は小さいが、その気持ちははっきりしていた。


「……あのときの現場だって、そう。あたしの符より先に、アンタの身体が動いた。命令でもなんでもなく、自分の判断で」


遥暎ハルはすぐには返さない。

フィアの視線を受けながら、ゆっくりと靴を脱いでスリッパを履く。

その仕草は普段通りに見えたが、僅かに揺れた手元が、心の動揺を語っていた。



その無言の視線は「何か答えてよ」と訴えていた。


やがて、小さな溜息のあとで、背を壁にもたれさせた。


「……昔、好きだった子がいてなぁ」


フィアの眉が、わずかに動いた。


「中学の頃。そいつ、いじめられてた。クラスで、無視されててさ。机も、靴も、よく隠されたりしてた」


「……」


「俺は、その全部を知ってた。でも……何もできなかった。見てるだけだった」


光の届かない隅で、遥暎ハルの視線が床を彷徨っていた。

その声には、笑いにも怒りにもならなかった“にごり”があった。


「やめろって言えば、次は俺がやられるかもって。……そんなくだらないことを、ずっと考えてた。動けなかった」


「……それで?」


「ある日、そいつが、学校に来なくなった」


「……」


「結局……俺は何もしてない。誰かを守れたことなんて、一度もなかった」


壁にもたれたまま、目を閉じる。


「だからたぶん、俺は——“”んだと思う」


沈黙。


フィアは、ようやくゆっくりとブーツを脱いだ。

それを揃える手つきは、いつもより少しだけ、静かだった。


「……自分を許すために、私を守ってるってわけ?」


「……違う。今はもう……そうじゃない」


遥暎ハルは視線を向けた。そこには嘘がなかった。


「“守りたい”って思う相手がいるから、守ってる。それだけだ」


ほんのわずか、フィアの睫毛が揺れた。

その感情は読み取れない。けれど、怒りの温度は少しだけ静まったように見えた。


「……ふーん」


短く吐いた声には、もう怒りはなかった。


そのまま、何も言わず、フィアは部屋の奥へ向かって歩いていった。

足音は静かで、どこか考え込むような気配を含んでいた。




《不器用な贈り物》


湯が、音を立てて沸いていた。

キッチンの片隅、ハルがカップに粉を入れている。手つきは静かで、習慣のように無言だった。

少し濃いめに溶いたコーヒーの香りが、ゆっくりと室内に広がっていく。


そのとき——


「……ハル」


名前を呼ばれて、彼は振り向いた。


フィアが、部屋の奥から戻ってきていた。

左手に、黒い布で包まれた何かを抱えている。目線はまっすぐ、ただ表情には、強い感情が押し込められていた。


彼女は数歩でハルの目の前まで来ると、その布を無造作に机の上へ置いた。


包みの中から現れたのは、前腕から手の甲までを覆う大ぶりな籠手——符術起動用に調整された特製の防具。

そして、腰に固定できる細身のホルスター。その内部には、数枚の符がすでに装填されていた。


「……これ」


短い声とともに、彼女の瞳が揺れた。怒りが、表面をかすめていた。


「“信じる”って言うなら——ちゃんと証明して」


声は強い。けれど、それ以上に感情の振幅が大きかった。

遥暎ハルが何か言おうとする前に、フィアは言葉を重ねる。


「私は……あんたに守られてばっかりで、ずっと何もできてない」


握った拳が、かすかに震えていた。


「ただ“守られる”だけの存在なの? ——それが、私?」


怒りの刃が立つ。けれどそれは、誰かを傷つけるためではない。

自分のなかの弱さに向かって、突きつけたものだった。


「……にされてるだけなんじゃないかって、ずっと思ってた」


ハルは、ただ静かに彼女を見ていた。


「私は、力になれてると思ってた。もう誰かの背中に隠れないって……あの戦場で決めたのに」


声が細くなる。怒りの熱が、じわじわと悲しみに溶けていく。


「でも、あの訓練で——上手く出来なかった。符が、あんたにうまく届かなかった……」


言葉の端がかすれる。目をそらすように、フィアは後ろを向いた。

けれど、背中で語るように、最後の一言だけが残された。


「……悔しいよ」


その言葉は、泣いていなかったけれど、泣き出しそうに響いていた。


ハルは、しばらく口を開かなかった。

机の上の籠手とホルスターに視線を落とす。どちらも、彼のために寸法まで計ってある。


静かに手を伸ばすと、そのうちのひとつ——籠手を持ち上げた。

彼女が“託してくれた”その証が、思った以上に冷たく、鋭く感じられた。

——今の自分には、受け取る資格があるのか。そんな問いが、胸のどこかを静かに刺していた。


「……俺は」


フィアが動く気配はない。けれど、彼の声には耳を澄ませていた。


「守らなきゃ、って思ってたのは……フィアが弱いからじゃない」


彼の言葉はまっすぐだった。言いよどみも、迷いもない。


「お前が、何かを信じて立ってるから……その背中を、守りたくなるんだ」


ようやく、フィアが振り返った。表情は見えない。けれど、その動きには、わずかな戸惑いがあった。


「……別に、お前が強くならなくてもいいと思ってるわけじゃない。むしろ、強いって知ってる。でも……」


「俺は、ただ……お前が、戦いの中で傷つかないようにしたい。それだけだ」


短い沈黙。


フィアは目を伏せ、再び背を向ける。けれど先ほどより、その肩は静かだった。


「……だったら。私が傷つかない方法を、もっとちゃんと使いこなしてよ」


それだけ言って、彼女は何も言わずに部屋を出ていった。

足音は、床に静かに吸い込まれていった。


残された遥暎ハルは、籠手を掌で触れたまま、それを見つめていた。

その掌には、まだぬくもりが残っている気がして——彼は、ようやくゆっくりと息を吐いた。




震えた空気 《手のひらに宿るもの》


室内の光は落ち着いていた。

明るすぎず、暗すぎず。

テーブルの上に置かれた黒革のホルスターと、その脇に置かれた左手用の符術起動用籠手が、ほんのわずかに光を反射している。


遥暎ハルは、無言のまま籠手を手に取った。


革の質感は、思っていたよりもやわらかい。

内側には細やかな仕切りがあり、符の束を挿し込めるようになっている。

左手甲の部分には、共鳴用の符を嵌め込むための窪み。動かすたびに、そこに僅かな力が集まるよう設計されていた。


「……これ、俺のために?」


問いかけではない。けれどフィアは壁に寄りかかりながら、それに応えるように口を開いた。


「アンタに合わせて調整した。……符の起動タイミング、手首の返しに連動させてある」


簡潔な説明。しかしその言葉の奥に、明らかに“気遣い”があった。


遥暎ハルは左手に籠手を装着し、ベルトを締める。

ぴたりと吸い付くような装着感。手首を軽くひねると、内側に仕込まれた符がほんのりと熱を帯びた。


「こうか?」


「もう少し、角度をつけて。……そう。あとは力の流れに任せれば、自然に発動する」


フィアは距離を詰め、風間の左手を軽く指で支える。

その指先が微かに震えていた。


(……泣いたのか?)


遥暎ハルの目が、ごく僅かにフィアの顔に向く。

目元が、わずかに赤い。泣き腫らしたような、そんな色だった。


けれど彼は、何も言わなかった。

ただ、もう一度手首をひねり、籠手に馴染む感覚を確かめる。


ふいに、部屋の奥でカップが揺れた。

わずかな音。けれど風間とフィアの身体が同時にぴくりと反応する。


「……今、揺れた?」


「……いや、震えた」


遥暎ハルは即座に窓に駆け寄り、フィアもその後を追う。

二人は同時にベランダの引き戸を開けた。


外気が流れ込む。

夏の夜にしては冷たい空気。街の灯りの下、かすかに、空気そのものがざわめいている。


「……異界の圧力。反応は弱いけど、また……」


フィアの声はかすれていた。だが、確信を含んでいる。


遥暎ハルは街を見下ろすように立ち、遠くの空を睨んだ。

何も見えない。けれど、確かに“何かが”こちらに顔を向けていた。


遥暎ハルが振り返る。フィアもまた、遥暎ハルの視線を受け止めた。


無言。けれど、言葉は要らなかった。


ふたりの目が、ひとつの決意に重なった。

次に起きることを、彼らはもう知っていた。


──夜が、再び動き出す。

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