第4話 拒む制度、誰かを信じる温度

音の消えた路地 《血も声もない死》


通報は午前六時二十四分。

「人が倒れている」「反応がない」「でも、血が出ていない」

そんな曖昧な通報が、遥暎ハルアキのもとに無線で届いた。


白バイのエンジンを切った瞬間、音が消える。

音が吸い込まれるように消えていた。空気が、音を沈めているようだった。


——音の死んだ空間だ。


現場は古びたアパートの裏手、舗装の割れた細道。

夏の朝だというのに、空気は冷えていた。

風もないのに、植え込みの葉だけがゆっくり揺れている。


《風ではない“何か”》がそこを撫でていったのだ。


死体は道の真ん中にうつ伏せに倒れていた。

老年の男性。服装は散歩中といった具合だが、あまりに整いすぎている。

顔は伏せ、皮膚は異常なほどに青白い。

そして何より――


傷も打撲も、見た限りでは何もない。

だが、命の気配は完全に途絶えていた。


その異様さは、外見だけの話ではなかった。


「感じる?」


後ろからかけられたフィアの声。

彼女は死体ではなく、空間全体を見ていた。警戒の色を浮かべながら。


「……わからない。でも、空気が重い。何かで密閉されてるみたいだ」


「結界でも封印でもない。もっと……根が深い。空間の脈がずれてる」


フィアの眉が寄る。

視線の先、アパートの壁沿いに、まるで裂け目のような違和感が浮かんでいる。


――また揺らいでいる。境界が、軋んでいる。


遥暎ハルアキは手袋越しに死体に触れる。

冷たい。だがそれは単なる“死の冷たさ”ではなかった。

表面の皮膚ではなく、内側から凍りついたような温度。

何かが体内に滞っているような、妙な質感があった。


「……フィア。これは、魔力か?」


「……違う。“魔術”でもない」


即答だった。

フィアは首を振り、低く続けた。


「血の気配がない。ただ抜かれたんじゃない。最初から“なかった”みたい」


「最初から……?」


「感覚で言えば、“”死に方」


その言葉に、風間の喉が音を立てた。

冷や汗が背中を流れる。


背後から足音。通報者の住民と、後続の巡査が現場に到着する。


彼らは言葉を失った。

言わなくても、場の空気が“異常”であることを察していた。


フィアの目が細められる。


「……。ここじゃない場所から流れ込んだ“何か”の残滓が、まだ残ってる」


遥暎ハルアキは無線に手を伸ばす。


「現場到着。状況異常。異常死体確認。警戒レベル引き上げを要請」


声は抑えたつもりだった。だが、手のひらの汗が止まらない。


人が死んでいる。

それなのに、血も、痛みも、《現実感》すら、そこにはなかった。


この死体は、何かの始まりだ――

そう確信せざるを得なかった。




形骸化する正義 《会議室に響く排除の声》


 会議室の空気は、冷房の冷たさとは別種の「冷え」に満ちていた。

 書類の束、資料の山、灰色の机。

 そのどれもが、“誰かの死”を他人事として扱うには充分な道具だった。


「——正直、これはもう偶発的な“融合現象”では済まされないだろう」


「無傷で死ぬなんて“人間のやり口”じゃない。どう考えても、異世界人の関与を疑うべきだ」


「境界揺らぎとの関係も不明瞭。ならばせめて、異世界人の“行動制限”くらいは……」

 

 誰かの死を前にして、語られるのは「リスク」「手続き」「管理対象」。

 まるで、血の通った死体より、数字と記号の方が重いとでもいうように。


 遥暎ハルアキは会議室の隅で、黙って立っていた。

 反論の場ではないと理解しつつ、拳を握り続けるしかなかった。


「登録制度を形骸化させるな。未登録者への追跡体制を強化するべきだ」


「登録済みの連中だって信用できるとは限らん」


「このまま共存なんて夢物語を掲げていたら、犠牲者は増える一方だ」


 共存は“非現実”。排除は“現実的”。

 議論の名を借りて、誰かを切り離す言葉だけが並んでいく。


 (

 誰のための「登録」だった?

 今ここにいる全員、本気でそれを忘れたのか?)


 そのとき。

 隣にいた若手の巡査が、誰にともなくぽつりと漏らす。


「フィアってエルフ娘、登録されてるよな……一応。でもあれ、何者なんだか」


「わかんねえけど、符とか使えるなら、あれが暴れたら制御できるのか?」


 遥暎ハルアキの中で、何かが切れた。


 バン、と机に書類が叩きつけられる音が響く。

 場が一瞬静まる。誰もが驚いた顔で、風間の方を向いた。


 「“”って言うな」


 低い声だった。けれど、明確な怒気を含んでいた。


 「フィアは“誰か”だ。俺の隣で、命張って戦ってる“人間”だ。

 登録がどうとか、制御できるかどうかなんて、

 お前らは最初から“信用する気がない”だけだろ」


 空気が凍る。

 誰も返さない。

 その静けさこそが、すでに答えだった。


 ハルは、深く息を吐いた。

 肩の力を抜きながら、絞り出すように言う。


 「……怖いのはわかる。異世界とか、揺らぎとか、理解できないことが増えてる。

 でもな、それを“見たこともない誰か”に全部押しつけて、

 それで本当に、って言えるのかよ」


 誰の声も返ってこなかった。

 資料の上、無傷の死体の写真だけが無言でそこにある。


 それは、何も語らない。

 だからこそ、人間の“勝手な物語”を押しつけやすい。


 ——それでも、俺は見た。

 目の前で誰かを助けた彼女の姿を。

 恐れながら、それでも立ち向かった目を。


 ハルは視線を落としたまま、小さく呟いた。


 「……お前らの正義に、俺はついていけそうにない」


 その声は、届かなくてもよかった。

 でも、言わずにはいられなかった。




境界の上を歩く《“敵じゃない”の重み》


 夕暮れの路地。

 街灯がぽつり、ぽつりと灯り始め、夏の空気がじわりと冷えていく。

 

遥暎ハルアキは、制服の袖を少しめくりながら歩いていた。

 隣では、フィアが無言のまま歩く。街のざわめきから一歩距離を置くように、歩道の端を選んでいた。


「……さっきの会議、聞こえてた?」


 沈黙を破ったのは遥暎ハルアキだった。

 フィアは答えずに数歩進み、それからぼそりと。


「……まあ、だいたいは」


「悪かった。名前を出されて、お前が……“”こと、止められなかった」


 フィアは横目でちらりと遥暎ハルアキを見る。

 その視線に咎めはなかった。ただ、少しだけ疲れたような空気があった。

 

「言われ慣れてる。……それに、止めようとしたでしょ。声、聞こえてた」


 その言葉に、遥暎ハルアキは苦笑する。


「……あんまりうまくはなかったけどな」


 フィアはふっと息を吐いた。それは小さな、だが確かに安堵の気配を含んだため息だった。


「……あいつら、“異世界人”って言葉、簡単に使いすぎだよ」


 遥暎ハルアキの声には、言いようのない疲れが滲んでいた。


「括って、隔離して、ラベル貼って、それで“理解したつもり”になってる」


 フィアの横顔が、街灯に照らされる。


「人間もそうでしょ。“人間”って括りの中に、どれだけバラバラな奴がいるか」


「……だから、余計に怖いんだろうな。

 “似てる”はずなのに、どうしても同じには見えない相手がいるって」


 しばしの沈黙。

 その間に、ふたりの歩調が少しだけ揃っていく。


 やがて、フィアがぽつりと。


「——でも、あんたは、“


 その言葉に、遥暎ハルアキは歩みを止める。

 思わず、フィアのほうを見る。


「最初に会ったとき、あんたの目は……引き金を引く覚悟をしてる目だった」

「でも、撃つ気はなかった。……たぶん、それだけで、十分だった」


 夕暮れの風が通り抜ける。

 街のざわめきは遠く、ここだけが静かだった。

 

「……ねえ、


 不意に、その声が届いた。

 彼女が名前を呼ぶのは、初めてだった。


「……いま、“ハル”って」


「“あんた”って呼ぶの、飽きた。……それだけ」


 そう言って、フィアは前を向いたまま、小さく口元をゆるめる。


「呼びたきゃ、呼べばいい」


 その肩越しに、遥暎ハルは静かに笑った。

 信号が青に変わり、ふたりの影が横断歩道を渡る。


 ——すぐには埋まらない距離。

 けれど、少しずつ歩幅は、近づいていた。 




似て非なる力 《孤独が生んだ符術》


 窓の外は静まり返り、夜の闇が部屋を包んでいた。

 照明は落とされ、テーブルの上にだけ、柔らかな灯りが残っている。


 遥暎ハルはカップを手に、ソファにもたれていた。

 フィアは向かいの椅子に腰掛けて、足元に置いた符の束に目を落としていた。


「……なあ」


 その声は、ささやくようだった。


「なんで、符術なんだ? あんな精度で使えるなら……、やろうと思えば」


 その問いに、フィアの指が止まる。


「——使の。子どものころから」


 静かに、けれど明確に返ってくる言葉。

 それは、封じてきた過去に触れるような声だった。


「詠唱は乱れる。術式は発動しない。“才能がない”って言われて……それで終わり」


 その語りは、どこか乾いていた。

 感情を乗せれば壊れてしまうのを知っている語り手の声音だった。


「魔術が使えない子は、存在しないのと同じだった。

 居場所もない。役割もない。期待もされない。……それが“普通”だった」


 遥暎ハルは、黙って聞いていた。


「それでも、“魔術”そのものが嫌いにはなれなかった。

 守ること。癒すこと。あたためること。

 そういう力だと、思ってたから」


 その言葉には、わずかな熱がこもっていた。

 静かに燃える火のような、小さな意志のかたまり。


「だから私は、“”ものを作った。

 模倣から入って、解析して、再構築して……ゼロから、ひとりで」


 遥暎ハルは言葉を失っていた。

 目の前にある強さが、ただの“力”じゃないことを思い知らされる。


「……魔術じゃない。でも、“魔術に似てるから”って、それだけで否定される」


 フィアはようやく顔を上げた。

 その目には、痛みと並んで、確かな誇りが宿っていた。


 遥暎ハルはそのまま、しばらく彼女から目をそらさなかった。

 言葉を返すことはできない。ただ、聞き、受け止めることしか。


「……すげえよ、お前」


 ぽつりとこぼれたその一言に、フィアは視線をそらす。

 でも、その口元がかすかに緩んだのを、遥暎ハルは見逃さなかった。


 夜は静かだった。

 その静けさは、どこかあたたかく、ふたりの間にだけ残っていた。




眠れぬ夜 《誰の言葉が正しいのか》


 壁の時計は、深夜二時を指していた。

 外は雨。街の喧騒とは対照的に、世界が静かに沈んでいる。

 だが、風間遥暎の思考だけは、どこにも着地しないままだった。


 ソファの上で仰向けになりながら、彼はただ天井を見つめる。

 隅のテーブルでは、フィアが小さな灯りの下で符の下書きをしている。


(……あの会議で、本当に間違ってたのは、誰だったんだ?)


 昼のやり取りが、繰り返し頭の中を巡る。

 「異世界人の監視強化」「登録制度の厳格化」「関与の疑い」——


 すべて“守るため”という言葉で飾られながら、

 その実、誰ひとり“理解しよう”とはしていなかった。


 言葉にするのは、簡単だ。

 「正しい対応」「未然の防止」「管理すべき存在」——


 けれど、隣にいた少女の手からこぼれる“あたたかさ”を見てしまったあとでは、

 その言葉のどれもが、ただの薄っぺらい言い訳に聞こえた。


「……正しいって、なんだよ……」


 小さくこぼした声は、自分にすら届かなかった。

 けれど、それでもフィアの手が一瞬だけ止まり、静かな沈黙が室内を包んだ。


 正しさなんて、いつも後付けだ。

 現場にいるときは、ただ「助けるか」「見捨てるか」しかない。


 制度でも理屈でもなく、“誰かを信じる”ことができるかどうか——

 それだけだ。



 ふと、フィアの背中に目が向く。

 彼女は無言で符を練っていたが、その筆遣いは、いつもの攻撃術式とは異なっていた。


 魔力を抑え、紙に淡い術式を刻む。

 防御でもなく、攻撃でもなく……ただ、空間の温度を整えるための、

 それだけの符だった。


(……


 遥暎ハルは、吐息をひとつこぼす。

 誰にも頼らず、誰にも求めず生きてきたはずの彼女が、

 ほんの少しだけ“誰かのために”環境を変えようとしている。


 それを知ってしまったとき、彼はもう、何も言えなくなった。


「……ずるいよな、そういうの」


 聞こえたのかどうかもわからない。

 フィアは振り向かず、書き終えた符を一枚、ハルの近くにそっと置く。


 そして、灯りを落とした。


 部屋の空気が、わずかに柔らかくなる。

 言葉ではなく、力でもなく、それ以外の何かが、ここにはあった。


 雨音だけが、静かに響く中で——

 ようやく、遥暎ハルの瞳がゆっくりと閉じていった。


 たとえ夢でもいい。

 誰かを見捨てずにすむ場所が、

 どこかにあると信じたくて、目を閉じた。




境界の軋み 《血の匂いを孕んだ夜》


 夜の帳は深く落ち、雨音だけが、遠くで途切れず続いていた。

 街は眠りにつき、誰もが“明日”を信じて横になっている。

 だがその静けさの裏で、何かが、ゆっくりと這い寄っていた。


 ハルの部屋には照明がない。

 ソファの上、彼は毛布にくるまれ、まどろむふりをしていた。

 

 そのとき——

 空気が、一瞬だけ“”。


 遠くの空に、ごく微細な揺れ。

 目には見えない。だが、空間の密度が“変わった”と、皮膚が告げてくる。


 ——異界の気配。

 

 フィアが紙に触れていた手を止めた。


「……違う。これは……昨日のやつとは別の“波”」


 その声には、鋭い感知の確信があった。

 音もなく、影もない。

 それでも、この部屋に“近づいている何か”がある。


 警報はまだ上がらない。無線も静かだ。

 けれどフィアは、迷いなく結界紙の束に手をかけていた。


(これは……ただの“揺らぎ”じゃない)


 目に見えない何かが、壁をなぞるようにすり抜けていく。

 息を潜める気配。鋭く、そして冷たい“意志”。


 ソファの上。


 寝息を立てていた遥暎ハルが、そっと目を開けた。

 体はまだ動かさない。だが、意識は完全に覚醒していた。


 彼は呼吸を整えながら、フィアに視線を向ける。

 彼女もまた、何かを感じ取っている。

 だがすぐには動かない。ただ、結界の準備を、静かに整えている。


 ——これは、昨日の続きじゃない。

 別のものだ。もっと“異質”な何か。


 その時、フィアの瞳が細くなる。


「……来る。今度のは、“”がする」


 遥暎ハルは、そっと毛布を払い、身を起こす。


 まだ、敵の正体も姿もわからない。

 それでも、心のどこかで“現場”がもう始まっていることを、知っていた。


 静けさは、嘘のように張り詰めていた。


 ——この夜、再び境界は揺れる。

 そしてその裂け目から、何かが、確かにこちらを見ていた。

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