好きなものと桜の由来
終業後、定時で会社を出て駅の近くで時間を潰していれば、人目を惹くグレーのスーツがこちらに向かって歩いてきた。
「すみません、お待たせしました……!」
「大丈夫ですよ、僕もちょうど着いたところですから」
「なら良かったです。それでは、行きましょうか。お店はもう予約してありますので」
言って、秋樫さんは駅の方へ歩き始める。
僕は隣に立って着いていきながら彼女に訊ねる。
「そういえば、店はどちらに?」
「一つ隣にある駅の近くです。電車に乗ることにはなりますが、ここの近くのお店に入るよりは会社の方々に目撃されにくいかな、と」
「確かに」
この辺は人が多いからそうそう見られることはないとは思うが、万が一があっては釈明が面倒だ。
そうなった場合のリスクを考えれば、彼女の判断に間違いはないだろう。
「それと菊月さんの好みを存じ上げないので、お店はチェーンの居酒屋にしましたがよろしかったですか?」
「ええ、構いませんよ。予算的にそういう店の方が気兼ねなく入れていいですしね」
あと雰囲気のある店よりもそういった大衆向けの居酒屋の方が余計な緊張をせずに済みそうでもある。
祝勝会という名目とはいえ、二人きりで入店するわけだし。
——まあ、僕と秋樫さんがどうこうなるなんて、とてもじゃないけどあまり考えられないんだけど。
内心、苦笑しつつ改札を潜ったところで、秋樫さんがふと僕に質問を投げかけてきた。
「そういえば、菊月さんはどういった料理がお好きなんですか?」
「僕の好物ですか。うーん……なんだろうなあ」
暫し考えてみるものも、パッとこれだと言えるものがない。
カレーにラーメンに牛丼と、あれも良いな、これも良いな、とはなるものの、いまいち絞りきれない。
ホームに到着しても尚、決めあぐねた末、
「味が濃いものなら大抵好きですよ。それと辛いものも全般的に」
自分でも曖昧だなとつっこみたくなるような回答をすれば、案の定、秋樫さんが困ったように笑みを引き攣らせた。
「えっと……菊月さん。その、あまりにざっくばらん過ぎませんか……?」
「あはは、なんか特にこれって決められるものがなくて……。そう言う秋樫さんの好きな食べ物は?」
「私は……ふむ、そうですね。……悩ましいところではありますが、やはりモツ煮が一番ですかね。競馬場に行くとそればかり食べてますし、家でもよく作ってますから」
「おお、なかなか渋いチョイスですね……!」
——いや、本当に渋いな。
男性でもモツ煮を一番の好物に挙げる人はそう多くないだろう。
もしかしたら、中年くらいの年頃になればモツ煮って言う人は出てくるかもしれないけど、それでも少数のはずだ。
でも、何故か物凄く秋樫さんっぽい答えだな、なんて妙な納得感を抱いていると秋樫さんから胡乱な眼差しを向けられた。
「……あの、もしかして今、親父臭いとか思ったりしていませんか?」
「いやいや、思ってませんよ」
似たようなことは考えていたので、少しどきりとしながらも否定すれば、秋樫さんはじっと僕を見つめてから小さく息を吐いた。
「それなら良いのですけど。……それと疑ってしまってすみません。よく両親に親父臭いと言われていたもので、つい……」
「えっ、両親から言われてたんですか」
「そうなんです。全く、酷いですよね。私がモツ煮を好きになったのは、両親がいつもモツ煮を買って食べていたのがきっかけなのに」
(いつも買って食べていた……?)
そこに小さな引っ掛かりを覚える。
恐らく、さっき競馬場でそればかり食べていた、と言っていたからかもしれない。
もしかして、秋樫さんが競馬を好きになったのって——。
「あの、秋樫さん」
「はい、なんでしょうか?」
「つかぬ事を聞きますけど……秋樫さんが競馬を好きになったのって、ご家族の影響だったり?」
すると、秋樫さんはこくりと頷いてみせた。
「ええ、その通りです。父も母も昔から競馬が好きで、小さい頃からよく競馬場に連れて行ってもらってました。実を言うと、私の名前も競馬が由来なんですよ」
「え、そうだったんですか!?」
ついびっくりすれば、秋樫さんは再び首肯する。
「毎年四月になると桜花賞というレースが開催されるのですけど、私、その日がちょうど誕生日でして。テレビ中継で映っていた満開の桜が本当に綺麗だったこともあって桜子って名前にしたみたいです。なので、自分で言うことじゃないのかもしれないのですが、自分の名前を結構気に入っているんですよ」
言って秋樫さんは、ふふっ、と嬉しそうに笑みを溢した。
——本当に気に入っているんだな。
僕はそういうの特に気にしたことないから、余計にそう思う。
それと競馬関連のことを話す秋樫さんは、やっぱり見ていて微笑ましくなる。
改めて認識したところで電車がホームにやって来たので、僕らはそれに乗って予約した居酒屋に向かうことにした。
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本当にありがとうございます……!
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