初めてのレース観戦〜芝2000m〜

 しばらくすると、スタンド左側にある通路から馬たちが順々にコースの中に入ってきた。

 式典とかで流れそうな盛大な音楽が場内に流れ、合わせて馬たちの紹介アナウンスが入る。


 それらを聞き流しながら目の前を駆け抜けていく馬たちを眺めていると、真横から物凄い数のシャッター音が聞こえてきた。


(え、何……!?)


 横目で一瞥すれば、さっきの女性がタブレットから結構ゴツめの一眼レフカメラに持ち替えて熱心に馬たちを連写モードで撮影していた。


 何か言葉を発するわけでもなく、ただ淡々とスタート位置に向かう馬たちを写真に収めていく。

 けれど、時折「ふふっ」と恍惚そうに微笑む声や「えへへ」とどこか気の抜けた笑い声が漏れ出ていた。


 ——うん、あまりこういうことは言いたくないけど、ちょっと怖いです……。

 ………………でも、ちょっと羨ましいな。


 有田くんもそうだけど、これだけ何か熱中できるってそうそう出来るようなことじゃないから。

 僕自身にこれといった趣味とか夢中になれるものがないからこそ余計にそう思う。


 馬たちが入場を終えると、彼女はカメラをバッグにしまい、再びタブレットを取り出していた。

 何やら画面と睨めっこして、むむむと唸っている。


「今回はどうしましょうか……少し広めの三連複にするか、点数を絞った馬単か馬連にしてその分一点を厚く振るか。それと保険用の馬券も単複で組むか、本命軸のワイド二点にするか……ふむ、とても悩ましいところです……」


 おお……何を言っているのか全然分からない。

 というか、馬券って一番になる馬を当てるだけじゃないんだ。

 何がどういう馬券なのか知らないけど、三連なんちゃらっていうのは、三って言葉がついてるからして、三頭選ぶものっぽそうだし。


「……いえ、今回は思い切って三連単にしましょう。さっきのレースでは負けちゃったけど、逆に考えれば今、運が向正面で脚を溜めている真っ最中ということ。となれば……うん、一点五百円の本命八番軸の一-三-八のフォーメーションと保険で単複五千円ずつ——よし、これで勝負です……!」


 小さく頷いて彼女は、タブレットをバッグに収納し、ストラップで首に下げていたスマホを操作すると、右側のカーブ出口付近に設置されたスタート用の機械の奥で待機している馬たちを見つめた。


 程なくして、スタート用の機械の近くにある用意してあった囲い付きの昇降台が上がる。

 台の上には白いスーツを着た男性が立っていて、手にしていた赤旗を振り上げると、管楽器による軽快な演奏が場内に流れる。

 同時にスタンド全体のボルテージが高まるのを感じ、振り返れば、いつの間にか最前列はかなりの人で埋め尽くされていた。


 うわ、人混み凄いな……!


 さっきの下見場みたいな所からこっちに戻ってきた人たちだろうか。

 レースになると、こんな人だかりができるんだ。

 何にせよ予めこっちに来ていて正解だった。


 けれど、演奏が終わって程なくして馬たちがスタート用の機械に入っていくと、瞬く間に場がしんと静まり返る。

 まるで嵐の前の静けさ……なんだか僕まで緊張してきた。


 固唾を飲み込み、スタートするのを見守る。

 そして、最後の一頭の準備が整ったところで機械の扉が開き、十三頭の馬たちが一斉に飛び出した。


 瞬間——スタンドから大歓声が上がり、地鳴りのような足音を轟かせてスタンドの前を駆け抜ける馬と騎手たちに声援が送られる。

 勿論、彼女もそのうちの一人であり、ようやくはっきりと声を聞くことができた。


「行けー、冨樫ぃ! ベストヒム頑張れー!」


(……えっ!?)


 直後、僕は自身の耳を疑った。

 そこで初めて僕は、恐る恐る彼女の顔をちゃんと確認し、すぐに確信に至る。


 ええと……ああ、うん……。

 間違いない——秋樫さんだ。


 見慣れない大きな丸眼鏡をかけているから一瞬人違いかと思ったが、深く被った帽子からちらりと覗かせる肩口で切り揃えた濡羽色の髪とどこか甘く湿り気を含んだ声音、それから——一部が隠れていても容易に見て取れる整った顔立ちは、間違いなく秋樫さんの特徴と一致していた。


 まさかの遭遇に僕は大いに当惑し、唐突にぶつけられる濃密な情報に思考が固まりそうになる。

 けれど、突如巻き起こる割れんばかりの拍手ではっと我に返る。

 前方に視線を戻せば、馬たちが怒涛の勢いで僕の目の前を通り過ぎていた。


「うわ、すご……!」


 思わず声が漏れ出る。

 今までテレビでちらっとしか見たことがなかったけど、こうして生で見るとこんなにも迫力があるんだ。


 ついつい食い入るようにして半時計回りで一つ目のカーブへ消えていく馬と騎手たちの背中を見送る。

 それから巨大スクリーンにでかでかと映し出されていた中継映像でレースの行方を追う。


 集団は、二つ目のカーブを抜け、やや縦長の列になって奥の直線を駆けていく。

 今のところは順位に大きな変動はない。


 このまま行くと先頭に立っている馬が一番になりそうなものだけど、どうなるんだろう……?


 なんて考えているうちに集団は、三つ目のカーブへと突入する。

 そして、カーブの半分を通り過ぎ、出口に差し掛かろうとしたその時、ようやく勝負が動き出す。

 後ろから二、三番目にいた馬が猛烈な追い上げを見せた。


「おおっ……!」


 そこから巻き返しを狙うんだ。

 え、というかここから前にいる全員追い抜けるものなの……!?


 驚愕していると、後ろの方にいた馬がスパートをかけたのに呼応するようにして、他の馬たちの一斉にスピードを上げていく。

 後ろの馬たちが前にいた馬を追い抜こうとし、前にいた馬たちはどうにか突き放そうとする。

 白熱する攻防に合わせて、スタンドの歓声もより一層大きなものとなった。


 僕も驚きと興奮が入り混じり、胸の鼓動が早くなる。

 別にお金を入れているわけでもないのに、気づけば誰が一位になるのか結果が気になってしまってしかたなくなっていた。


 もしこれを完全に一人で見ていたのであれば、完全にレース観戦に集中できていただろう。

 けれど、何の因果か僕のすぐ隣には、全く想像すらしていなかった姿の秋樫さんがいる。

 しかも——、


「行け、そこだ差せーっ! 差せ差せ差せ差せ! 全員まとめてぶっこ抜けー!」


 会社では一度も発したことのない荒々しい大声で叫んで。

 おかげで何とも言い難い感情に脳の情報処理能力の大半を奪われてしまっていた。


 結局どうするべきなのが正解なのか答えを出せずにいると、その間に遂に馬たちが雪崩れ込むようにしてゴールを通り抜ける。

 それとほぼ同時にそこかしこから歓喜と絶望の雄叫びが上がった。

 無論、秋樫さんもその一人であり、結果はというと……どうやら後者の方だ。


「いやあああああ! 本命飛んだあああああっ! 対抗に入れたハチノスズメも三着もばっちり当たってたのに、まさかベストヒムだけ前壁でどん詰まりしたせいで掲示板にも入れてないなんて……! うう、勝負の三連単が……二万円が……!! ぐぐぐ、どうしちゃったんですか冨樫ぃ……!!」


 頭を抱えて項垂れる秋樫さんだったが、急にぴしりと固まった。

 それから若干ぎこちない動きでゆっくりとこちらに顔を向ける。


 ——完全に目が合った。


 途端、秋樫さんの表情からみるみる血の気が引いていく。


「え、あ……き、菊月さん……?」


「えっと、どうも……」


 わなわなと声を震わせる秋樫さんに苦笑しながら会釈を返せば、


「……い、いやああああああっ!!」


 再び秋樫さんの断末魔がスタンドに響き渡った。

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