清楚でお淑やかだけど馬券カスの美人同僚にだんだんと競馬沼に引き摺り込まれていく話

蒼唯まる

美人同僚が競馬ガチ勢だった件

 生まれて初めて訪れた競馬場とそこで繰り広げられたレースは、僕——菊月駿真はやまにとって色々と衝撃の連続だった。


 カーブから直線にかけて地鳴りと錯覚するような足音を立て、騎手を背に猛烈な勢いで駆けて来る馬の群れ。

 ゴールに近づくにつれて怒号にも似た歓声がボリュームを上げながら巻き起こる観客スタンド。

 別にお金を賭けているわけでもないのに、見ているだけで胸がはらはらして手に汗を握ってしまう。


 だけど、それらよりもずっと衝撃的だったのが——、


「行け、そこだ差せーっ! 差せ差せ差せ差せ! 全員まとめてぶっこ抜けー!」


 僕のすぐ隣で熱心に叫ぶ黒髪の綺麗な女性。

 見慣れない大きめな丸眼鏡をかけ、その上オリーブグリーンのバケットハットを深々と被っているから顔ははっきりと視認できない。

 けれど、叫んでいてもどこか甘く湿り気のある聞き覚えのある声と顔の大半が隠れてしまっても尚、ありありと分かる整った鼻梁は、紛れもなく同期の秋樫あきがし桜子さんその人だった。




   *     *     *




「おーい、菊月。今度の日曜、社内レクでビアガーデンやるんだけど来る?」


 まだまだ残暑が残る九月一週目木曜日の昼休み。

 自分のデスクで昼食を取っていると先輩に訊ねられた。


「日曜ですか? えーっと、日曜は……すみません、先約があるので行けそうにないです」


「あちゃー、マジかあ。ちなみに何する予定なんだ?」


「高校からの友達と競馬場に行ってきます」


 答えれば、先輩の顔が露骨に歪んだ。


「うっわ、競馬かよ。てか、菊月……お前、実はギャン中だったのか……!?」


「はは、まさか。競馬場で何やら声優のトークショーがあるみたいで、僕はその付き添いで行くだけですよ。なので、競馬のことはさっぱりです」


「ああ、なるほど。まあ、だよなあ。菊月が競馬とかやるイメージ全然ないしな」


 すまんすまん、と謝ってから先輩は、僕の背後の席に座る人物にも声をかける。


「秋樫はどうする。ビアガーデン来るか?」


「申し訳ありません。私もその日は所用があって……」


 返ってきたのは、柔らかで静謐な声音。

 ちらりと視線を傾ければ、同期の秋樫桜子さんが頭を下げていた。


 肩口で切り揃えた癖一つない濡羽色の髪がふわりと揺れる。

 何気ない動作一つから品の良さが伝わってくる。


「ありゃ、秋樫もか。なんだよ、22年組はノリ悪いなー」


「うっ……す、すみません……」


「申し訳ありません……」


「あっはっは! 冗談だよ、真に受けないでくれ。大丈夫、会社の行事なんて元ある予定を蹴ってまで参加するような大層もんじゃないから。おっけー、とりあえず不参加ってことで幹事には伝えとくわ。それじゃあ二人とも各々良い週末を送ってくれ」


 そう言い残して先輩は、ひらひらと手を振って昼食を取りに部屋の外へと出ていった。

 それから僕たちは特に会話を交わすこともなく自分のデスクに向き直った。


 僕と秋樫さんは、共に三年前に新卒として入社し、所属する部署も同じなのだが、業務に関すること以外での会話は殆どした覚えがない。

 僕自身、あまり積極的に話しかけに行くタイプじゃないし、秋樫さんもそういう印象がある。

 だから、秋樫さんが何が好きなのかとか、趣味はなんなのかといったプライベートなことは全然知らないのが現状だったりする。


(それにしても、秋樫さん日曜日に用事あるって言ってたけど、一体何するんだろう……?)


 実際に訊くつもりはないが、ふとそんな取り留めもない疑問が浮かんだ時だった。


「——あの、菊月さん」


「は、はいっ!? なんでしょう!?」


 びっくりした……まさか、秋樫さんから話しかけてくるなんて。

 振り向くと、秋樫さんがおずおずと訊ねてくる。


「先ほど日曜日に競馬場に行くと仰ってましたが、その……どちらの競馬場に行かれるんですか?」


「あ、ああ……えっと、確か中山競馬場って所だったはずです。中山競馬場がどこにあるかよく知らないですけど」


 小さく笑いながら言えば、


「……ふ、船橋法典駅の近くです。駅から少々離れてますが、臨時改札口から続く専用の地下道を使えば簡単にアクセスできますよ」


「へ?」


 意外にも秋樫さんから丁寧な答えが返ってきた。

 が、直後に秋樫さんは、ハッと目を見開くと、何故か若干早口になって続ける。


「あ、その、えっと……し、知り合いが少々競馬を嗜んでいましてですね……私はそれで偶然知っただけといいますか……! ですので、私自身は全然そういうのには興味ないといいますか……!」


「ですよね。確かに秋樫さんが競馬に熱中する姿はちょっと想像つかないですし」


「ですです……っ!」


 少し食い気味に念を押すようにしてこくこくと力強く頷く秋樫さん。

 別に疑っているわけでもないし、そこまで強く否定する必要はないと思うよ。

 

 でもまあ、もし馬券(?)とやらを握り締めて大声で叫んでたりでもしてたら、それはそれで物凄く面白い絵面になりそうなものだけど。

 ……いや、秋樫さんに限って流石にそれはないか。


 可能性を否定したところで、僕はぺこりと頭を下げ、改めて秋樫さんに礼を告げる。


「それはそうと、教えてくれてありがとうございます」


「そんな、お礼を言われることのことでは……。——その、菊月さん」


「ん、どうかしました?」


 訊き返すもなかなか反応が返ってこない。

 秋樫さんは逡巡し、何度も言いあぐねた末、


「……すみません、やっぱりなんでもないです」


 最終的に言うのを止めてしまった。


「は、はあ……そうですか」


 秋樫さんが一体どんな話題を振ろうとしていたのか気になるところではあるが、別に踏み込んでまで訊くような間柄でもない。

 結局、それ以上は特に会話が広がることもなく、各々のデスクに向かい合った。


 ——この時の僕は、まさか半ば冗談で想像していた通りの光景を本当に目の当たりにするとは微塵も考えていなかった。

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