【第6章:闇の余波】 第1話『死闘後の平穏──玲奈との距離が縮まり、日常を取り戻しつつある祐介』

「……おかえり」

「ああ──ただいま」


あの言葉を最後に、僕はあまり喋らなくなった。

肉体は無傷に近い。精神も、おそらく正気を保っている。

ただ、何かが足りない。

何かが、ぽっかりと欠けているような感覚だけが、胸の奥でひたひたと波を立てていた。


あれから二週間。

街は平穏を取り戻し、死者の気配は霧のように晴れ、空には再び澄んだ青が広がっていた。

でも──僕だけは、まだ“戻れていない”気がしていた。



教室に戻った僕を、クラスメイトたちは意外にも普通に迎えてくれた。

「風邪? 長かったなー」

「文化祭の準備、やばいぜ」

「相沢と仲良くなったってマジ?」


そんな他愛もない会話の中で、僕は何も知られずに“戻された”。

玲奈はというと、僕の隣の席に自然に座り、笑いながら小声でこう言った。


「ね、また一緒に帰ろっか」


彼女の笑顔は変わっていなかった。

むしろ、少しだけ前より強くなったようにも見えた。


「……うん」


僕は頷いた。それだけで、少し心が軽くなった気がした。



放課後、僕たちは静かな住宅街を並んで歩いた。

秋の空気は澄んでいて、少し乾いていて、風が吹くたびに金木犀の香りが揺れた。


「こうして歩くの、なんか新鮮だね」


玲奈が言った。

確かに、これまで一緒にいた時間のほとんどは、異常な場所や危険な場面だった。

今こうして、ただ日常の道を歩いていることが、逆に信じられないような気持ちだった。


「……俺、あの夜から、夢を見ないんだ」


「え?」


「何も。真っ暗な中に立ってるだけ。音も、声もない。……それが、すごく怖いんだ」


玲奈はしばらく黙ってから、僕の手をそっと握った。


「だったら、その暗い夢の中に、私も一緒に立つよ。……一人じゃなきゃ、怖くないでしょ?」


風が吹いて、二人の前髪が揺れた。

僕は、ただ小さく頷いた。



帰宅すると、祖父・玄円の部屋にはもう誰もいなかった。


あの日、書き残された文とともに彼は姿を消し、それ以来、気配すら感じない。


祭壇のろうそくも消え、護符の香りも風に消えて久しい。


けれど──その背中は、今もどこかで僕を見ている気がする。


「“無”を見ろ、か……」


その言葉が意味するものを、僕はまだ知らない。



夜。


僕は再び山道を歩いていた。


身体が自然と、霊の気配を追ってしまう。


山伏としての“癖”だ。


だが、今夜は霊はいなかった。結界がきちんと機能している証拠だった。


代わりに、月がやけに大きく見えた。


その光に照らされながら、僕はふと立ち止まり、目を閉じた。


──“声”はもう、聞こえなかった。


“狂気”も、“呪い”も、“叫び”も。


それは、きっと良いことなのだろう。


けれど、それが不安だった。


僕の中から、“祓うべきもの”がなくなったなら──僕は何者なのだろう?



数日後。文化祭準備が本格化した。


玲奈は実行委員で忙しそうに走り回り、僕は雑務係として黒子に徹していた。


「祐介ー! のぼり、頼む! あと照明も!」


「はいはい……」


僕の返事に、玲奈がふっと笑う。


「……ちょっとだけ、祐介が普通の男子っぽくて、変な感じ」


「ひどいな」


「でも──今は、好きだよ。そっちの祐介も」


その言葉は、冗談に聞こえなかった。


僕は、思わず視線を逸らした。


「……俺、普通でいられるかな」


「うん。少なくとも私は、普通の祐介と、山伏の祐介、どっちも好きだから」


その瞬間、胸の奥にあった氷のような何かが、すっと溶けていった気がした。



夜。

寝ようと布団に入ったとき、不意に“あれ”が見えた。


──鏡の中。

僕ではない“僕”が、こちらを見ていた。


でも、笑っていなかった。

ただ、何かを伝えようとしていた。

それが“助けて”なのか、“まだだ”なのか、わからなかった。


──また、来る。


本能が、そう告げていた。


でも、今はまだ、日常がある。


そして、隣には──


「……おやすみ」


玲奈から届いたメッセージが、スマホに灯っていた。


それが、今日という日を締めくくる唯一の光だった。


(第6章第1話 完)

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