【第6章:闇の余波】 第1話『死闘後の平穏──玲奈との距離が縮まり、日常を取り戻しつつある祐介』
「……おかえり」
「ああ──ただいま」
あの言葉を最後に、僕はあまり喋らなくなった。
肉体は無傷に近い。精神も、おそらく正気を保っている。
ただ、何かが足りない。
何かが、ぽっかりと欠けているような感覚だけが、胸の奥でひたひたと波を立てていた。
あれから二週間。
街は平穏を取り戻し、死者の気配は霧のように晴れ、空には再び澄んだ青が広がっていた。
でも──僕だけは、まだ“戻れていない”気がしていた。
◆
教室に戻った僕を、クラスメイトたちは意外にも普通に迎えてくれた。
「風邪? 長かったなー」
「文化祭の準備、やばいぜ」
「相沢と仲良くなったってマジ?」
そんな他愛もない会話の中で、僕は何も知られずに“戻された”。
玲奈はというと、僕の隣の席に自然に座り、笑いながら小声でこう言った。
「ね、また一緒に帰ろっか」
彼女の笑顔は変わっていなかった。
むしろ、少しだけ前より強くなったようにも見えた。
「……うん」
僕は頷いた。それだけで、少し心が軽くなった気がした。
◆
放課後、僕たちは静かな住宅街を並んで歩いた。
秋の空気は澄んでいて、少し乾いていて、風が吹くたびに金木犀の香りが揺れた。
「こうして歩くの、なんか新鮮だね」
玲奈が言った。
確かに、これまで一緒にいた時間のほとんどは、異常な場所や危険な場面だった。
今こうして、ただ日常の道を歩いていることが、逆に信じられないような気持ちだった。
「……俺、あの夜から、夢を見ないんだ」
「え?」
「何も。真っ暗な中に立ってるだけ。音も、声もない。……それが、すごく怖いんだ」
玲奈はしばらく黙ってから、僕の手をそっと握った。
「だったら、その暗い夢の中に、私も一緒に立つよ。……一人じゃなきゃ、怖くないでしょ?」
風が吹いて、二人の前髪が揺れた。
僕は、ただ小さく頷いた。
◆
帰宅すると、祖父・玄円の部屋にはもう誰もいなかった。
あの日、書き残された文とともに彼は姿を消し、それ以来、気配すら感じない。
祭壇のろうそくも消え、護符の香りも風に消えて久しい。
けれど──その背中は、今もどこかで僕を見ている気がする。
「“無”を見ろ、か……」
その言葉が意味するものを、僕はまだ知らない。
◆
夜。
僕は再び山道を歩いていた。
身体が自然と、霊の気配を追ってしまう。
山伏としての“癖”だ。
だが、今夜は霊はいなかった。結界がきちんと機能している証拠だった。
代わりに、月がやけに大きく見えた。
その光に照らされながら、僕はふと立ち止まり、目を閉じた。
──“声”はもう、聞こえなかった。
“狂気”も、“呪い”も、“叫び”も。
それは、きっと良いことなのだろう。
けれど、それが不安だった。
僕の中から、“祓うべきもの”がなくなったなら──僕は何者なのだろう?
◆
数日後。文化祭準備が本格化した。
玲奈は実行委員で忙しそうに走り回り、僕は雑務係として黒子に徹していた。
「祐介ー! のぼり、頼む! あと照明も!」
「はいはい……」
僕の返事に、玲奈がふっと笑う。
「……ちょっとだけ、祐介が普通の男子っぽくて、変な感じ」
「ひどいな」
「でも──今は、好きだよ。そっちの祐介も」
その言葉は、冗談に聞こえなかった。
僕は、思わず視線を逸らした。
「……俺、普通でいられるかな」
「うん。少なくとも私は、普通の祐介と、山伏の祐介、どっちも好きだから」
その瞬間、胸の奥にあった氷のような何かが、すっと溶けていった気がした。
◆
夜。
寝ようと布団に入ったとき、不意に“あれ”が見えた。
──鏡の中。
僕ではない“僕”が、こちらを見ていた。
でも、笑っていなかった。
ただ、何かを伝えようとしていた。
それが“助けて”なのか、“まだだ”なのか、わからなかった。
──また、来る。
本能が、そう告げていた。
でも、今はまだ、日常がある。
そして、隣には──
「……おやすみ」
玲奈から届いたメッセージが、スマホに灯っていた。
それが、今日という日を締めくくる唯一の光だった。
(第6章第1話 完)
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