滑って転んで何回目?

衣ノ揚

滑って転んで何回目?

「あ、なんかこれ夢で見たことあるかも」

 誰もが経験するこれは、俗にデジャヴと呼ばれるものだそうだ。しかし、私がその言葉を知る頃には、その疑念は確信へと変わっていた。

 前世の記憶……という言い方はあまりしっくりこない。私がロードしたのは、このままの私をこの時間にこの場所で生きたセーブデータなのだから。


 私が幼稚園の年長だった時のこと。父に連れられて病院に向かった。母が出産のため入院していたからだ。ガラス越しに、生まれたてのシワシワを初めて見たとき、ああ、この名前は"千佳子"だったなと唐突に悟った。私がじっと赤ちゃんを見ていると、父が私の前でしゃがむ。

「この子の名前は千佳子。美衣みいは今日からお姉ちゃんだ。優しくしてあげてね」

 私はパパのことなんてそっちのけで、母のふくよかな腕に抱かれる赤ちゃんだけを見ていた。まだ開ききらない赤子の黒い瞳は、ついに私を見つけた。その瞬間まるで目が覚めたように脳が覚醒して、私の心に記憶が点火して全てが蘇ったのだ。


 それから、生まれた年月日も、土地も家族も同じ人生を歩むことになった。ただ、この人生が2週目だと知ったからといって、それを知る以前と何かが変わるわけでも、変えるわけでもない。私は1周目の人生をなぞるように生きることにした。それは半分倦怠で、もう半分は惰性から来ていた。

 1周目の人生は、私にとって決して悪いものじゃなかった。それどころか最高と言っても遜色がない。稼ぎもよく、真面目で優しい旦那を持ち、3人の子供に恵まれた。私は両親の享年を超え、大往生。それはそれは可愛い孫に慕われてこの世を去った。

 何故なにゆえか、こうしてまたピンピンしているのは流石に想定外であったが。

 だから、もう一度、全く同じ幸せな人生を送ることを切望した。これは、私にとって長い長い走馬灯のようなもの、エンドロールになるはずだと考えたのだ。


 社会人一年目、私は屋台でチャコとおでんをつついていた。一応言っておくが、断じておでんツンツンではなく、お金を支払った上で食していた、ということである。

 チャコ。千佳子のあだ名であり、つまりは私の自慢の妹だ。

「高校はどう?」

「うん、まあ悪くないよ。ミーちゃんは?」

「私もまあ、ご存知の通りかな」

 チャコは優秀な子だ。成績が良く、運動にも長け、人に好かれるカリスマ性もある。特に英語は昔から、超がつくほど得意だった。

 アツアツのこんにゃくをプラスチックのカップから取り出して、最短距離で口に運んだチャコは、その熱さに慌てて口をハフハフさせた。私も大根を箸で4等分に割り、1口サイズにして頬張る。

 チャコはこちらを見もせず、おでんに向かっておもむろに話し始めた。

「ミーちゃんに聞いて欲しいことがあって。……うち、宇宙飛行士になろうと思うんだよね」

 予想だにしない発言に、口の中の大根を吹き散らしそうになって、咄嗟に口元を抑えた。そんな私にお構いなく、チャコは続ける。

「とりあえず、大学は宇宙工学と航空工学の勉強できるとこに行こうと思ってて」

 私も大根を飲み込んで話し始める。だんだんと落ち着きを取り戻していた。

「う〜ん、なるほどねぇ……いやぁ、ずっともしかしたらって思ってたんだけどさぁ。ぶっちゃけ、チャコってさ……」

 チャコは進路を反対されると思ったのか、少し強ばった顔をして身構えた。

「2週目でしょ?」

 私の言葉を聞いて、チャコは一瞬「は?」という顔をしてフリーズした。そうかと思えば、ポカンと開けていた口をわなわなと震わせて咆哮した。

「もしかして、ミーちゃんも?!」


 薄々勘づいてはいたのだ。

 たとえどうろうと、チャコが私の自慢の妹であることに変わりないことを前提に聞いて欲しいのだが、彼女はもともとこんなに出来の良い子ではなかった。チャコは勉強よりも自分のやりたいことを優先するタイプで……悪く言えば、好き放題のお転婆娘だったのだ。しかし、一度波に乗るとそのまま舵を自由自在に操れる人でもあり、いつ会っても誰よりも楽しそうな顔をする人であった。

 前世、チャコがフリーのライターとして海を渡ってから、私たちが再び会うことはなかった。結局、彼女が私の葬式に参加したかすら定かではない。

「いやー、いつから気づいてた?」

「まあ、今まではなんとなく『そうなんじゃないかな』……って気がしてたくらいだったよ。私の行動の影響で、前回と微小なズレが発生することもあるかなと。でも、宇宙飛行士目指すのはさすがに前回と違いすぎて……」

 チャコは、おでんのちくわをかじりながら頷く。

「それもそうかぁ。うち、全然気づかなかった」

 そりゃ、私は前回の筋書きをそのままなぞっているから当たり前だ。

 カシュッ

 私が得意げに冷え冷えの缶ビールを開けると、チャコは「あ! ずるい!」と言った。


 それからいつ記憶が戻っただの、前世別れてからどう生きてただの、お互い積もらせていた話を消化。秘密を共有したことで、私たちは前よりずっと親しくなった。月日が流れても、時折時間を作っては一緒に食事をし、チャコが成人してからは、共に杯も交わすこともある。

 チャコの行動は私の元の記憶から確かに移り変わっていったが、チャコの根っこのところは全く変わらない。生粋の享楽主義者きょうらくしゅぎしゃで、楽しいことが大好きなのだ。


 それに比べて、私は後ろ向きだ。悲観的で、割とちょっとしたことでメンタルを病む。

 ただ、今回はちょっとしたことでは無かった。苦しくて苦しくて我慢ができなかった。深い絶望に溺れていた私は、深夜にもかかわらず、「今から会えない?」とチャコに連絡してしまった。

 起きていたのか、起こしてしまったのか。チャコは二つ返事で私の狭いアパートにやってきた。インターホンに映る彼女を見たとき、優しさが染みて、思わず目が潤んだ。

「飲も飲も! 今日は泥酔コースだ〜ホレホレ」

 チャコはコンビニのビニール袋から缶ビール、チータラとポテチを出して卓上に置く。

「「乾杯!」」

 アルミ缶とアルミ缶がぶつかって、「カチンッ」と簡素な音がした。

「それで、今日はどうしちゃったの」

 チャコは苦笑いでそう尋ねる。私は鼻をズビズビ鳴らしながらポツリポツリ話し始めた。

「彼氏と、別れた。私、これからどうしたらいいかわからない」

 言い切る前にダムが決壊。堪えていた涙が溢れ出し、嗚咽がこぼれた。

「えええっ!」

 彼は以前、私の旦那だった人だ。当たり前に今回も彼と家庭を築くとばかり思っていた私は、すっかり出鼻をくじかれて心が激しくザワついていた。

「私が、淡白すぎるって。何をしてても楽しそうに見えないんだってさ」

「うわ〜! 見る目ないねぇ、そいつ」

 チャコはビールを1口煽る。私は単に振られてショックな訳では無い。人生の指針を失ってしまったのだ。

 チャコは、まるでそれがわかっていないみたい。でも、彼女に文句を言ってどうにかなるものじゃないのは分かってる。チャコは、私を慰めにわざわざ電車でやって来てくれた。そんな善人に八つ当たりするなんて、到底許されることじゃない。

「今日は飲もうよ!」

 チャコはそう言って私の肩をバシバシ叩く。少し痛い。

「……そうだね」

 私は卓上のティッシュで鼻を噛んでから、ビールの缶を高らかに持ち上げ口内に注ぎ入れた。チャコは「わ〜!」と騒いで笑って、チビチビと酒を飲んでいた。


 それから私は、結婚相談所やらマッチングアプリやらを活用しつつ、新しい恋人を探し始めた。元彼は私の婚約者だった。しかし、今世の私のデスティニーではない。それだけの事だと自分に言い聞かせ、前を向こうと心に決めた。

 そうは言いつつ、結局私は未練タラタラ。彼と同じように、姉がいて、ロックが好きで、映画とお酒が大好きで、黒縁メガネの義理堅い男と交際の末、結婚した。

 チャコはというと、私の愚痴に寄り添い、私と飲み明かした次の日、NASAの学生プログラムに参加するのだと言って、あっさり国際線でどこかに行ってしまった。帰国してから大学院を卒業し、いつのまにかJAXAの宇宙飛行士の選抜に合格していた。その後、30代という若さで初飛行を迎えるという偉業を成し遂げたらしい。

 あまりにも煌びやかすぎて笑ってしまう。彼女にはスポットライトのド真ん中が似合う、なんて思っていたら、ある日暴走した老人のハイブリッド車に撥ねられて死んだ。なんとも慌ただしい人生だこと。

 行われた葬式はそれはそれは豪華なもので、たくさんの人が列席した。

 彼女の意見なんて反映されてないのが丸わかりの、平凡でつまらない式だった。彼女のことだから、葬式用の映像なんか残していそうだと思っていたが、最後まで、本当に何も無かった。

 私は前回と同じくらい長生きして、これまた可愛い孫に囲まれて病院のベッドで眠りについた。


「そろそろ記憶戻ってきた?」

「きたきた。おひさ!……で合ってるのかな」

 2人で砂場で遊びながら、そんな会話をする。私は6歳、チャコは10歳だ。

 前世ではチャコの方が先に人生の幕を閉じたからか、今度のアンコールはチャコの方が始まるのが早かった。ただ、年齢差には法則性が見いだせない。

「まさかだよねぇ」

「ほんと、まさか3週目があったとは」

 1回目や2回目の人生を合わせると2人ともだいぶ長いこと生きている。しかしながら、精神は身体に多少ひっぱられるのか、砂山にトンネルを掘るのは未だにありえないくらい楽しい。開通した瞬間の盛り上がりはえげつないし、トンネルの中で握手する感覚はずっと不思議だ。

「今度はどうするの?」

 私はチャコに聞いた。

「ん〜、周りに川でも作る?」

 チャコは砂をいじりながら答える。

「そうじゃなくて、これからの人生の話」

「あ〜ね……旅人になるかも」

「ふ〜ん」

 私はポケットからイケてる枝を取り出し、砂山の上にそっと刺した。


 私は、今度こそ!と思って彼と結ばれるために努力した。まずは、共通の友人との、結婚式での出会い方。挨拶。誕生日のプレゼントも全て忠実に1周目を再現した。2週目以上に正確に、間違えないように行動したつもりだった。

 でも、ダメだった。どんなに頑張っても、彼は私に飽きてしまう。やっぱり私も人間、完全に同じ行動をするのは不可能だったということだろうか。

 またもやひどく落ち込んだが、もうチャコを呼び出すことはしなかった。というか、できなかった。なぜなら彼女は今、世界一周旅行に出かけているからだ。

 送られてくるポストカード。どこのか分からない海や、鳥取かエジプトかも分からない砂漠、ピサの斜塔、モナリザ、その他よく分からない壁画など沢山の写真が送られてくる。

 各地を転々とし、住所が定まらない彼女。なんの返信もできないのは、こちらとしては少し寂しい。

 2週目と同じように新しい人を探すのにも、なんだかウンザリしてしまった。私は心の穴を埋めるように、保健所の中型犬を引き取り、彼の名前を付けた。


 二度あることは三度ある。三度あることは四度あるし、五度もある。ループは幾度も繰り返された。

 チャコはループの度、違うことをしている。色んな分野に飛び込み、賢さに磨きがかかっているみたいだ。色んなところで彼女の名前を目にする。

 それに比べて私と言ったら、未だに1周目の人生を追いかけては、つまづいて転ぶ。彼に振られては、犬と暮らし始める。輪廻の狭間に落としてしまったのか、1周目の彼と過ごした思い出もだんだん曖昧になっていった。

 さらには、ループを繰り返すことで、私に弊害が現れ始めた。可愛い愛犬が天に登っても、何も思わなくなってしまったのだ。

 ああ、そろそろ死ぬかも。ああ、死んでしまった。

 死んだ動物の体を撫でる時、思ったよりずっと固くて冷たかった時。それでも涙が出なかった。

 まるでたまごっちで遊んでいるみたいな感覚で、現実を生きる犬と暮らしていた。生活の全てが作業のように感じられるようになって、さらには死にさえ胸が痛まなくなってしまった。

 私は、そんな自分にゾッとすることしかできない。自己中だ。最低の人間としか言いようがない。人として終わってしまったのだ。

 だから、大好きな彼は、私を好いてくれないのだろうと、なんとなく理解した。


 6回目の人生で彼と別れた後、犬を引き取るのはもうやめにした。私にはその資格がないと思ったからだ。

 ファミレスで振られたその足で、ホームセンターに向かってロープを買う。私がロープだけをレジに出すと、店員は薄々勘づいた顔をしたが、面倒事は嫌いなのだろう、始終「ウッス」としか言わなかった。好都合だ。

 他人に迷惑を掛けたくなかった。本当は自室で行いたかったが、我が家は賃貸なので諦めて樹海へと車を走らせる。事故物件になったら、大家さんが可哀想だからな。

 適当な木にロープを括りつけた。椅子を蹴飛ばすと、一気に首が締まり苦しくなる。意識が遠のいていく。次はもう、目が覚めないといいな。


 何もかも上手くいかない。気づけば6歳児。私は記憶が蘇ってすぐ住んでいたマンションから飛び降りた。

 でもまた目が覚める。ダメなんだ。どう足掻あがいても、このループからは抜け出せない。 それでも、他にどうすることもできなくて、何度も、何度も、何度も同じことを繰り返した。終われ、終われ、頼む、頼むと反芻した。そもそもなんで、ループしなきゃいけないのだろう。


 今度はチャコと双子に生まれた。それから、ふたりとも全く同じタイミングでふとまた記憶が戻った。

 それは、寝る前のこと。私が蘇る記憶に頭をかかえてうずくまっていると、隣のチャコは、その短い腕で毛布ごと私をそっと抱きしめた。


 それから、私たちは布団の中で話し合った。母親は台所で洗い物をしてる。

「私は、ループが続いても構わない。人生は楽しい。ミーちゃんがいるなら、もっと楽しい。ミーちゃんがいないと、余生寂しいから、もうやめてよ」

 チャコは困ったように眉尻を下げてそう言った。そう言う割に、チャコは私を後追いしたりしないんだ。長生きして、少しでも新しい時代を見るのを喜びとしているからだ。私だって別に、一緒に死んで欲しい訳じゃない。

 でも、同じ境遇の人間なのに、この虫酸の走るような、反吐が出そうな苦しみを共有できないというのは、間違いなく寂しい事だった。

 チャコが私に懐いてくれているのは知っている。残される人間が感じる悲しみもきっとあると分かっている。しかし、もうそろそろ、彼女も慣れてきていい頃だ。

「……前周、友達にループしてること話してみたの」

「……」

 私は押し黙って、静かにチャコの話を聞いていた。

「バカバカしいって思ってるでしょ」

 暗闇で顔も見れないはずなのに、彼女は私がどう思っているのか見事に当ててみせた。

「でもね、信じてもらえたんだよ。まあ、私がベイスターズが優勝するって予言してみせなきゃ、信じてくれなかっただろうけど」

 私も、声色で彼女の表情が曇っていくのが分かった。彼女は常時明るいが、夜だからか、こういう状況だからなのか、いつもよりセンチメンタルになっている。

「でも、ループの度に説明しても、結局忘れてしまうなら意味が無い……うちには、ミーちゃんが居れば十分なんだよ」

 痛いほどよく分かった。きっと、世界で私だけが分かる感情だった。虚しいのだろうね。私は、彼女の言葉を信じてるし、力になりたい。それでも、それでも、

「私もう無理、もう無理なの、ごめんね」

 彼女がたとえ、私のことを必要としてくれても、優しくしてくれたとしても、限界が来ていることに嘘や偽りはなかった。

「ミーちゃん……」

「これ以上、生きたくない。疲れたの」

 目から涙がボロボロと流れ、暗闇にやっと慣れてきた視界が歪む。

 初めて自分の気持ちを言葉にしたような気がする。明らかに崩壊しているのに、少しずつ自分自身の感情が整理されてきているのを感じた。ここにいるのが、ちゃこで良かった。

「…………うちに任せて。ミーちゃんを、もう二度と退屈させないから」

 こうやって、いつも彼女の力強い言葉に酔わされてしまう。チャコと一緒にいれるなら、この苦しみも少しは穏やかになるかもしれない。彼女になら、肩を預けてもいいかもしれない。そう思ってしまう。そして今回も、それは例外じゃなかった。私はチャコが差し出した小指に、優しく自分の小指を絡ませた。


「ミーちゃんは保守的すぎたんだよ!」

 チャコは言う。

「もっと遊ばなきゃ、ねっ!」

 翌朝、私たちは家出した。ただの小学一年生の少女たちに何ができるのかって言ったら、多分何もできない。でも、私たちは"ただの"小学一年生ではなかった。

 飽和寸前の真夏、私はチャコに手を引かれ、なけなしのお小遣いと盗んだ家のお金をいくらか持って走り出した。

 携帯電話は駅のゴミ箱に突っ込んだ。コンビニで買ったアイス食べて、大金はたいて新幹線に乗る。中は涼しく快適だ。私はカバンからトランプを取り出した。

 これからどうしたらいいものか。二人で生きていくなんて非現実的。それでもチャコがいるならどうにかなるか、とも思ってしまう。ババ抜きのカードたちが手のひらの中でてんこ盛りだ。ペアを見落とさないように気をつけなければならない。


 どんどん家から離れていく。

 両親には申し訳ないことをした。今は記憶にないだろうけど、今までの長い長い人生の中で、自分なりにいっぱい親孝行してきたつもりだから、どうか許してほしい。

 新幹線を降りた後、変装のためにスーパーでブリーチ剤を買った。それを持ち込んで公衆トイレで髪を金髪にし、しまむらに行って服装を変えた。

 その後、過疎っているのか廃墟になったのか分からないキャンプ場で眠り、しばらく潜伏した。毎日、ストックされたまきを勝手に使って、拾ったライターで火をつける。キャンプファイヤーの火を囲って懐かしいのか新しいのか分からない歌を歌う。

 マシュマロを焼いたら美味しかった。銛で突いた魚を食べていたら、歯が抜けた。


 その冬、寒さを逃れるように私たちは南へ向かった。お金も底が見えてきた。南下しながら、泊めてくれる人の家をハシゴし、タダ飯をご馳走になる。警察や児相を呼ばれそうになると、ダッシュで逃げた。

「お母さんに追い出された」

 と言うと、最大1週間くらい泊めてくれる人もいた。お母さんごめんなさい。来世はもっと親孝行するからね。

 冬は、沖縄でちょっとボケた優しいおばあさんの家に居候しながら、近所の音楽家のおじさんに、チャコはバイオリン、私はピアノを教えてもらった。タダで?と思うかもしれないが、私たちは人生経験から料理がとてつもなく上手いし、チャコは特に口が達者なのだ。騙している実感はあったし、心が痛まないわけではない。でも、来世では皆、全部忘れてしまうのだ。家事を手伝いつつ、渡したちは有難くスネを齧らせてもらった。

 おばあさんにまた来年遊びに来ると約束し、春にはまた本州に戻ってキャンプ場で生活を始める。日中はストリートで演奏をし、おひねりで生活費を稼いだ。顔を動画に撮られると大変ので、紙袋を被るようにしていた。雨の日は少し困る。体調不良と隣り合わせだし、紙袋はびしょびしょ。観光客は無関心で、私たちの生活はすぐに揺らいでしまった。


 そんなことを繰り返しているうちに、6年の月日が過ぎた。私たちは、中学生くらいの歳になった。生活は忙しい。言い換えれば、とても充実している。

 稼いだお金は山分けにし、私は食事を用意した。チャコはその資金で、作ったのか買ったのか、偽の学生証や身分証明書を持ってくる。「友達にもらった」とチャコは言ったが、どこの誰なのか聞いても教えてはくれなかった。

 それを使って、小学生の家庭教師や、観光地で外国から来た観光客を案内するバイトを始めた。この頃私たちはネットカフェで寝泊まりできるようになっていた。


 いつかの夏に、2人で海の家の手伝いをしたこともあった。

 日が落ちたばかりの生暖かい砂浜を素足で歩いた。汗ばんだ足に、砂が引っ付き海水で落とす。

 チャコの爪は意外にも綺麗に切りそろえられていた。

 そういえば、「青春!」だなんて言って2人で夕日に向かって走ってみたりもした。

 チャコの前髪がフワッと浮いたのを、ずっと覚えている。


 30を過ぎたある日。今までの旅を振り返りながら、クリーニング屋で服が乾くのを待っていた。乾燥機が回る回る。それをベンチに座ってじっと見ている。頭の中で、一生踊り続ける服の姿を想像する。いつか極わずかな確率のもと、全部綺麗に畳まれたりしないだろうか。確率以前に不可能かな。そもそも服は何万年もその形を保たない。

 いつ終わるか分かったもんじゃないのに、それでも乾燥機はただぐるぐる回っている。


「楽しい?」

 チャコは毎晩私に聞いたものだ。私はいつでも頷いた。それは彼女を安心させる為のものじゃなくて、私の正直な気持ちで、張り切る彼女を称えるためのものだった。


 それからずっと日本中旅して、決して裕福とは言えないけど、退屈しない日々を生きた。60歳、旅の終わりが見え始めた頃、北海道で持ち家を持つことに成功。不自然なくらいに、全てが上手くいった。

 私が思うには、チャコは毎日楽しそうだけど、その根底には、暇に耐えられない彼女の恐怖心がある。

 そして、私たちの日本一周の逃避行も、いつしか幕を閉じる。チャコが最後に眠りにつくとき、私が彼女の手を握って、「楽しかった」と伝えると、彼女は満足そうに微笑んだ。チャコの手から、すっと温もりが抜けていった。


 さて、休んでいる暇はない。また、新しい人生が幕を開けた。

「今度は海外だ!」

 夜、お母さんが来るまでのインサイド布団会議。毎晩ら私たちは計画を練りに練った。これならきっと上手くいく。

 まず、私たちは親に頼み込んで楽器を買ってもらった。私たちは前回のループでの経験を生かし、周囲からかなりの好評価を得た。ほとんど天才扱いだ。高校を卒業すると海を渡った。作戦は成功だ。

 両親には前回の罪滅ぼしのつもりで度々ポストカードを送るようにしている。

 決して暇しなかった。毎日演奏&演奏、歌って踊って、泳いで眠って、手を取り合った。

 随分長く生きてきたつもりだったが、こんなに沢山知らないことが世界にあったかと驚くほど、鮮やかな日々を送った。私の隣で、チャコはいつも自慢げに胸を張っていた。

「ミーちゃんに見せたかったものがいっぱいあるの!」

 そう言って世界中に私を連れて行ってくれたのだ。


 それでもいつかは死んで、生まれて、死んで生まれてまた死んで、生まれるのが現実だ。たとえ世界的な大悪党になって警察とカーレースしても、温暖化を食い止める世紀の大発明をしてノーベル賞を受賞しても、それは変わらない。

 何度目かの世界一周の旅の夜、私がチャコに「おやすみ」と告げながら部屋の電気を消すと、またいつもの会話が始まった。

「ミーちゃん」

「……ん?」

「楽しい?」

「……」

 反射的に首を縦に振ってしまいそうになった。でも、彼女に嘘はつけない。

 私は正直、もう飽きてしまっていた。この質問に対してじゃない。繰り返される人生、今の生活そのものにである。

 沈黙する私にチャコは続ける。

「本当のこと言って。うち、ミーちゃんのこと、退屈させないって約束したんだから」

「……ごめん」

 申し訳なかった。チャコが私との約束を守るために毎分毎秒一生懸命なのは、よく知っている。新しいことが起り続ける毎日が送れるのは、彼女のおかげだ。

 それでも、一度虚無感に苛まれると、何もかもが退屈になってしまった。感受性が死んでいるから、どんなに綺麗な朝焼けも面白みがない。感動を呼び起こす媒体そのものに慣れてしまったようなものだ。

 チャコは私を抱き寄せる。

「いいの、いいんだよ」

 私は、チャコのお荷物になりたい訳じゃなかったのにな。

「チャコはさ」

「なあに」

「……チャコは、毎日楽しい?」

 チャコは不安げな顔をする私を安心させようとして、大袈裟に大きく頷いた。

「うちは、ミーちゃんがいれば、毎日幸せだよ!」

 そんなこと言われたら、彼女を置いて行く判断はできない。それでも、暇はじわじわと体を蝕んで、希死念慮に気管を詰められる毎日を生きなければならなかった。


 焼きマシュマロと板チョコを、ビスケットで挟みながらチャコは言う。

「なにか理由があるはずなの。私たちがループする理由が、この世界にはきっと」

 まきが飛ばす火ので、目がしょぼしょぼする。

「ずっと考えてた。ミーちゃんを守るために、何ができるかなって」

 まだ話の輪郭が見えてこない。でも、彼女がループから抜け出すための何かを考えているということは分かる。ここに来て、私を守るというのなら、もはやそれしかない。私は息を飲み、身構える。

「何かが間違っているから、時間は進まないんだよ! うちらが歪みを修正するまで時間はきっと正常に動かないの」

 抽象的で、哲学的な話だと思った。でも、筋の通った理性的な話だとも思った。

 スモアを1口頬張り、次のマシュマロを焼き始める。溶けたマシュマロとチョコが絡み合って、とても甘い。

 つまり、近い将来人類が滅亡するとか、地球が亡びるとか、そういうなにかしらの"問題"を食い止めてほしいという、神様か何者かの知ったこっちゃない願いによって、私たちはこんなにもやり直しをさせられている。そう仮定した訳だ。

 しかし、それが分かったところで、私には修正されるべき世界の間違いや、世界の終わりに心当たりはない。恐らく、私たちが死んだあとの時代のことなのだろう。どうしようもない。

「それで?」

 だから、投げやりにチャコに聞いた。私よりチャコの方が、ずっと考えていると思ったから。チャコはいつになく真剣な顔で言った。

「一緒に吸血鬼になろう」

「……はあ〜?」

 この子はまた突拍子のないことを。

「めっちゃ勉強してたら、吸血鬼になる方法たぶん分かった」

「なんじゃそりゃ……」

 開いた口がふさがらないとは、このことである。

 まあでも、この子やっぱり天才なんだよなぁ。時間の蓄積ももちろんあるけど、やっぱり頭がキレるタイプなのだ。なれちゃうのかぁ、吸血鬼。

 確かに、方法がなんにせよ寿命さえ伸びれば、未来がどうなってるか知ることができる。世界の終わりを避ける対策も考えられるということか。

 このまま"人"生を繰り返したところで、私たちが死んだあとの出来事は知りえない。悪くはない方法なのかもしれない。

「吸血鬼になって、少し先の未来を見てみよう。それで、時間の流れを取り戻そう!」

 ラフに言いのけるが、そんな簡単に行くだろうか。私は正直、半信半疑だった。ため息がこぼれる。

「……できるかなぁ」

「時間はたっぷりあるからね!」

 チャコは自慢げに親指を立てた。


 翌日、目が覚めると、「おはよう」も言わず私に駆け寄った妹は、牙を剥いて首筋に噛み付いてきた。注射の針が刺さるのと同じくらい痛くて、注射の100倍恐ろしかった。

「ちょっと、前置きしてよ!」

「だってミーちゃん、先に言ったら絶対力入れるじゃん。こういうのはリラックスだよ〜」

 いつの間にか赤く染まっていた彼女の瞳。濁りのない透き通った純粋な赤色だった。私の黒い目もこんなに綺麗な色になっているのだろうか。もしそうなら、まあ文句は言わないよ。


「300歳の誕生日おめでとう!」

 朝からクラッカーの破裂音で目が覚めて、少しびっくりする。

 これで、人間の人生だいたい3回分生きたということだ。長いようで意外と短かった。ジャネーの法則のせいかもしれない。

「チャコはマメだねぇ」

「今日は研究をお休みにしてパーティだ!」

 この300年で世界は随分変わった。

 私たちが150歳を迎えた頃、国内外問わず戦争が勃発。そしてそこから更に150年経った今でも、未だ終焉を迎えていない。正確に言えば、終わったり始まったりを繰り返したりしているのだが、長い目で見れば争いはいつまでも終結していないに等しかった。

 戦争が始まった当時、私たちは僻地へきち山麓さんろくに身を隠していたが、しばらくするとそこも戦火に覆われた。土地を去ることを余儀なくされたので、どさくさに紛れて、南極圏で暮らし始めた。私たちは、吸血鬼になってから寒さに強くなった。さらには、コウモリに変身して空も飛べたので移動を含めそんなに大変じゃなかった。

 現在の目標は、長生きして、私たちが食い止めなければいけない世界の"問題"の正体を探ること。

 世界が私たちに求めることが、戦争の解決である可能性は十二分じゅうにぶんにある。この戦争で、地球が半壊したり、人類が全消滅するのを阻止するのが私たちの役割なのかもしれないと考えた。

 しかし、すぐに対処はできない。調査と研究が必要だ。少なくとも今回のループでは戦争の解決をするのは難易度が高すぎて達成できない問題だ。私たちはただ待機し、世界の様子を観察することにした。

 そしてもうひとつ。私たちは、吸血鬼になったのは失敗だったかもしれないと思っている。長生きする方法は、他にもある。行動できるのが夜だけかつ、人間の血を糧に生きなければいけない吸血鬼のライフスタイルはなかなかに不便だ。そのため、次回は人間として長生きできるように寿命を伸ばす薬を開発した方がいいという判断に至った。

 私たちは研究に明け暮れた。薬の試作を繰り返してはいるけど、なかなか思うようにいかず、停滞している。


 300歳の誕生日パーティの翌日、遮光カーテンを開けると、星の数がいつもよりひとつ多いことに気がつく。

「チャコー!!ちょっと来て!!」

 私はまだ夢の中にいるチャコのアイマスクをぶん投げ、肩をつかみ激しく揺らす。

「ミーちゃん、今日は早起きだねぇ」

 チャコは、寝ぼけているのか柔らかい口調で目をこする。

「言ってる場合じゃないよ!」

 私はベッドで眠るチャコを、窓のそばに引きずっていってその淡い黄色の光を指さした。それを見てチャコは立ち上がり、呟いた。

「……隕石だ」


 私たちは急いで南極圏から日本だった土地に帰国した。

 人類は、肉眼で観測できるより早く、なんだったら10年前には隕石の衝突は軌道解析で予想できていておかしくない。なぜ情報をキャッチできなかったのだろうか。

 隕石が高速で太陽方向から接近してきているから、観測が困難だったことは確か。でも、少なくとも1年前には宇宙望遠鏡で発見されているべきだ。

 今や地上には土とホコリの他何もない。放射能に汚染され、荒れ果てている。人類は今、地下都市での戦争に移行していた。その都市ももうボロボロだが。

 長い長いスロープで地下に降りる。私たちは武器なんか持っていないが心配はいらない。吸血鬼になった私たちはめっちゃ強いので、たとえ撃たれても少し痛いくらいですぐ傷口が回復する。いざとなったらチャコが何とかしてくれるでしょう。

 景色一面は瓦礫の山で、生きている人間はいないように見えた。しかし、よく探すとまだ息をしている者が横たわっている。チャコはその男に近づき話しかけた。

「なあ君、隕石近づいてきてるのって知ってた?」

「…………」

「日本語が通じないのかも」

 確かに、今と200年ほど前とでは日本語は大きく変容へんようしているだろう。伝わらないのも無理はない。けど、通じていないというよりこの男は話す気がないように見えた。今はもう、死を待っているだけなのだろう。

 チャコは兵士の乾燥した頬を両手で挟み、無理やり目を合わせた。数秒の沈黙の後、兵士の瞳孔どうこうがグルグルといくつもの螺旋状に円を描きはじめる。チャコお得意の催眠さいみんだ。

「よし、会話するできるようになっただろう」

「……お前たちは何者だ」

 私は即答した。

「さあ、分からない」

 男は身体を起こそうともしない。相当体力を消耗しているのが、一目で分かる。チャコはまた同じことを男に伝える。

「なぁ、君。隕石近づいて来てるんだって」

「……どうでもいいよ。俺は、もう長くない」

 兵士はしつこいチャコを軽くあしらった。誰もが死を待つだけのこの世界で、答えが欲しいのは私たちだけかもしれない。

「そっか」

 兵士は隕石について何も知らないようだ。羨ましい、私も、全部どうでもいいと言って終わりにしたい。

「頼むから、ほっておいてくれ。静かに死にたいんだ」

 この感じだと、やっぱり市民は何も知らないのだろう。無気力な人間の前で、私に何ができるだろう。治療すれば間に合うかもしれないが、本人がそれを望んでいるとは思えないし、人類は隕石でやがて死ぬ。

 数秒の沈黙のあと、私たちは、男が横たわるその場を立ち去った。


 私たちはコウモリからネズミに姿を変え、宇宙航空研究開発機構に忍び込んだ。空調機から聞き耳を立てていると、もう夜遅いのにも関わらず、2人の人間の話し声が聞こえくる。

「お前、もうこんな仕事辞めて故郷に戻ったっていいんだぞ。いよいよ終わるんだから」

「……帰るところなんてないですよ。先輩がここに残るなら、僕もここにいますから」

 やっぱりそうだ。彼らは隕石の接近に気がついている。流石にそんなポンコツではなかったか。

「戦争で宇宙望遠鏡と監視網がダウンしなければ、もう少し早く分かったのになぁ。今ここで俺らが声を上げたところで、フェイクニュース扱いだろうな」

「まず、世間に発表する手段すらないじゃないですか」

 乾いた笑いが聞こえた。


 帰宅してから、私とチャコの話し合いが始まる。間違いない、世界が終わる原因は隕石の衝突で、それの阻止こそが私たちの使命だ。戦争ではなかったのだ。

「じゃ、これからどうする?」

 私はチャコにお茶を差し出して聞く。

「しばらくはどうしようもないね〜。隕石の衝突を阻止するのは今からじゃ不可能だし……私たちだけ宇宙に逃げたとして、人間の血が吸えなくなったら共倒れよ」

 いくらそこらの人間と比べて力がある吸血鬼といえども、巨大隕石をたった二人で止められるほど強くは無い。仕方がないので、私たちは来世に備えてただただ老化に抗う薬の開発を進めることにした。


 それから1ヶ月ほどすると、人々も隕石の存在に気づき始めた。空の不自然に大きな星。気づけば月ほどの大きさになっている。人々は皆放心した後、やっと武器を捨てたが、時は既に遅かった。


「起きて!」

「ミーちゃん、今日も早起きだねぇ。まだ夕方じゃないの?」

「違う、真昼間だよ!」

 しかし、空は暗かった。隕石が地球に影を落としていたから。私はその終末が恐ろしくてしょうがなかったが、チャコはいつも通り呑気だった。


 次に物心がついたのは7歳。知らずのうちに、危険だったはずの日光の下で遊ぶ日々を送っていた。

 私は、チャコが記憶を取り戻すのを待っているうちに、12歳になっていた。チャコだってもう、10歳だ。

 今までは私も彼女も6歳か7歳くらいには記憶が戻っていた。しかし今回、チャコが目覚めるのが明らかに遅いのだ。嫌な予感がした。


「ねぇ、お姉ちゃん」

 12歳になった彼女は、私をそう呼んだ。

「……お姉ちゃんじゃなくて、ミーちゃんって呼んでって言ってるでしょ」

 チャコの記憶は未だ戻らない。チャコは今まで、私のことをお姉ちゃんと呼んだことなんてなかった。完全に世界線は分岐してしまったのだ。この子は、私と永遠とも思える時間を共にしたチャコではなくなってしまった。

 何が間違っていたのだろうか。どうして忘れてしまったのだろうか。彼女に「お姉ちゃん」と呼ばれるたび、背筋が凍り、悪い夢を見ているのではないかと思った。そうであってくれと心から願った。

 私はチャコの記憶が戻るのを待ち続けた。


 チャコは23歳になると、かつてと同じようにフリーのライターとして海を渡っていった。きっともう、この国には戻らないだろう。

 予想外の大きな損失だ。なんで、なんでこんなことに。チャコがいない人生なんか苦痛に決まっている!

 しかしながら、私が記憶を失わずに済んだことだけは不幸中の幸いだった。……まだ、私が生きているのなら、役目は全うできるかもしれない。こんなこと、ループ初心者だった頃の私は思わなかっただろうな。

 これは、私たちが成し遂げることはないだろうと、世界が諦めようとしている前兆なのかもしれない。はたまた、チャコがいなくとも私だけでこなせると判断したのかもしれない。なんにせよ、イレギュラーな事態だ。

 私に、私たちに次はない可能性だってゼロとは言い切れない。そう思うと、失敗はできない。ここまで来たんだ、絶対に今回のループで成功させたい。私は強く拳を握り、伸びた爪が手のひらに傷跡を残した。


 私は能ある医科学者として名を馳せた。そして、仕事のかたわら、成長を止める薬を作ることに成功した。前回の吸血鬼人生で、幸い薬の開発は間に合っていた。レシピは頭に入っていて、私一人でもその再現ができた。

 私の体は25歳で老いることを忘れた。薬の発表は避け、あくまで自分だけのものにした。

 そして問題はここからだ。直径ざっと400kmの巨大隕石。はたして、私ごときに止められるだろうか。

 チャコは過去、「隕石の衝突を阻止するのは今からじゃ不可能」と言っていた。「今からじゃ不可能」と確かに言ったのだ。じゃあ、あの時は時間が足りなかっただけで、できなくはないはずなのだ。チャコが言うなら、そう思っていたのなら必ずできる。そういうものなのだ。

 人類が協力して、それこそ気が遠くなる時間をかけて計画を進めなければいけない。それでも、今から始めれば決して間に合わなくはない。

 心に空いた穴。もはや私の心なんてその穴に飲み込まれて無いようなもの。たった1つ私を支配するのは強い責任感だった。チャコのことは、もうあまり考えないようにして、勉強に熱中した。


 私は、天文学の道に突然、専門分野を変えた。その後、私を学生時代から評価してくれていた教授のもとで、火星軌道上を回る人工衛星のわずかな軌道のズレを見つけることに成功した。

 私はそれを、太陽方向から迫り来る重力源、不思議な軌道の天体であると仮定。ここまで来ると、自然と世界中から資金が集まるようになった。


「お姉ちゃん、久しぶり」

「チャコ……」

 ある日、発展途上国の小学校で勉強を教えつつ、Web記事を書いて生計を立てていた妹が、久しぶりに帰国した。

 帰国の知らせを耳にして、私はすぐ彼女を喫茶店に呼び出した。

「お姉ちゃん、全然変わらないねぇ」

「チャコは、おばあちゃんになったね」

 彼女はコーヒーに角砂糖3つ投げ入れくるくる廻す。チャコは、歳をとってもブラックが飲めない。そしてそれを隠そうともしない。

 彼女が今何歳なのか分からないけど、私は彼女がいつか死んでしまうのではないかと思って怖くてしょうがなかった。

 この子が私の求めるチャコじゃなくとも、この子はチャコの形をして、チャコの声で話す。チャコのように生き、チャコのように笑い、ただ私と旅した記憶がないだけのチャコそのものだ。

 この人間は、誰かが求めなくとも根っこからチャコなのだ。

「チャコ、私、一生のお願いがあるの」


 その後、私は観測衛星を配置し、探査機を用いることで地球にやがて衝突する物体の存在を証明した。現在、私たち研究チームは、宇宙船を、観測不可能なほど遠くにある隕石へ送る技術の開発を進めている。

 ここに来るまで100年の月日が流れた。隕石の接近により、地球の危機がやってくることが世界中の人に周知された。これにより、始まるはずだった戦争は回避された。人類は一致団結して功を成そうとした。「戦争してる場合じゃない!」とか「戦っても世界終わったら意味ないじゃん!」ということだ。


 当然、私は見た目が老けないことを周りから指摘される。半強制的に病院に連れていかれて医者に見られた結果、原因不明の病気の診断書が貰えた。

 ギネス世界記録にも載ってしまった。目立ちたかった訳では無いのだが、いつの日かちまたでは「ネオ・ヒューマン」だの「ミュータント」だの言われるようになった。ちょっとカッコイイ響きなので良しとする。化け物呼ばわりされたらきっと落ち込んでいた。

 ここで私の信用が失われ計画がおじゃんになることが最も心配だったのだが、SFに馴染みの深い日本だからなのか、ネットのおもちゃにされる程度で済んだ。なんだったら親しまれた。

 こんな平和ボケした人たちが、殺し合いなんかしなくて済んで良かった。


 隕石は、ぶっ壊すより軌道を変えるのがいい。

 理想は長期的な重力操作だ。ソーラーセイルやレーザー推進も考えたが、重力トラクターを用いて長い時間をかけて進路を逸らしていくのが最も確実だ。

 重力トラクターは簡単に言うと、隕石のすぐ側に宇宙船を置いて、引力で少しずつ引っ張るというもの。力は弱いが、残り200年かけて秒速1cmでも進路を変えられれば十分じゅうぶん間に合う。


 そして、長い時を経て、私たちの計画は無事成功。

 世界はお祝い騒ぎに包まれた。研究所ではデスクにシャンパンタワーを作るバカがいたりした。データをデジタルで保存しているからいいものの、資料がびしょびしょになって大惨事だった。

 私の研究を手伝う仲間はコロコロ変わったが、みな人生1周目とは思えないほど優秀で、私のやりたいことを大いに手助けしてくれた。

 肉眼で見えないから、研究所の外のみんなはあまり実感が湧かないようだったが、世界は確かに変わった。新しい時間が流れ出したのだ。


 朝までパーティしようという意見を押しのけて、私は研究所を後にした。

「あなた達ハイになってるのよ。早く帰って寝なさい」

 白衣を椅子に掛けて、興奮するメンバーをなだめつつも、私だって興奮が抑えきれない。やった、ついにやってみせたんだ。仕事を成し遂げた訳だし、私は近いうちに退職する。今度、後継者決めビンゴ大会をやろう。絶対盛り上がるぞ。


 全ての景色が新鮮に思えた。それは青く、雲ひとつない。私はスーパーにもコンビニにもよらず、真っ直ぐ自宅に帰った。それから、地下への階段を駆け足で降りる。

 連なる厳重な扉のロックを次々解除し、地下室に足を踏み入れると、涼しい風が吹いた。約200年ちょっとの冷房代はシャレにならなかったが、あの子を守るためだったのだ、しょうがない。

 横たわる大きなガラスの筒に触れる。手袋越しにひんやりと冷たい。

 ボタンの上に指をおく。3回深呼吸をしてから、スクリーンを操作し、ケースの中の温度を徐々に上げていく。マイナス100度、マイナス50度、0度……

 温度が20度まで上がると、ピーという無機質な音が鳴る。ガラスのケース横の椅子に座っていた私は、開いてはいたけどちっとも集中できなかった本を閉じて立ち上がった。

 今日は、チャコを起こす日だ。


「一生のお願いがあるの。チャコ、この薬飲んで」

「なあにそれ」

 私がチャコに、かつて二人で開発した薬を手渡すと、チャコは怪訝な顔をした。怪しい薬だと思ったのかもしれない。

「歳を取らなくなる薬だよ」

 チャコは目を見開いて言った。

「お姉ちゃん、そんなの飲んでたの?!通りで……」

「お願い!」

 私は顔の前で両手を擦り合わせて懇願した。彼女よりずっと長く生きているというのに、情けない姉である。私はどうしても、彼女を失いたくなかったのだ。世界が動き始める瞬間、隣にこの子にいて欲しかった。

「何の事情があるか知らないけど、嫌だよ。こちとらもう年老いてるんだよ。このあとは死ぬまで隠居するだけだし。もっと若い時に言ってくれれば承諾したけど、このまま成長しなくなったって、腰痛は治らないし、特にすることは無いし……あ!」

「な、なに?」

 チャコは突然、閃いたというふうに、手を打った。

「コールドスリープってやつならいいよ。寝ながら待てるし。お姉ちゃん、できる?」


 私はそれから爆速で設備を用意し、年老いたチャコを合意の元、冷凍した。

 冷凍する直前、私はチャコに聞いた。

「……なんで」

 私の立場でこれを言うのはおかしいが、そんなに簡単に承諾するもんじゃないだろうと思った。断るのが普通だ。技術もまだ世界に浸透していない。

 しかし、その疑問に反して私の心臓は激しく高鳴る。私は良く分かっていた。彼女の原動力の正体を。それでも私は彼女の口から聞きたかったのだ。

「なんてったって、楽しそうだからね!」

 チャコは満面の笑みを浮かべた。こんなアクティブな老人が、彼女の他にどこにいるだろうか。狂っている。


 私はケースの蓋を開けた。彼女の体が外気に触れる。まだ開ききらない黒い瞳は、ついに私を見つけた。彼女の口が僅かに動いた。

「……ミーちゃん?」

 声は聞こえなかったが、確かにそう言った。夢を見ているのかと錯覚した。時が止まったように、全てがスローに感じられる。

「お姉ちゃん」ではなかった。「ミーちゃん」と私を呼んだのだ。

 私の顔が強ばるのを見てか、チャコは起き上がろうとした。しかし、ざっと250年くらい眠っていたのだ。筋肉がまともに動くはずもない。

「おはよう、チャコ。しばらくリハビリすれば、自分で動けるようになるよ」

 私は冷静をつくろうようにそう言った。期待して、裏切られたら苦しい。さっきのは、たまたまかもしれないと思いながら、私は彼女を持ち上げ車椅子に座らせる。

 チャコは何か言いたげな目で私を見ていた。


 私は車椅子に乗った彼女をダイニングルームに案内してから、お茶を飲ませた。

「あー、あー」

 喉が潤い、まだガサツいた声だが、チャコは話し始める。

「……これで動き出すんだね。よく頑張ったね、ミーちゃん」

 刹那、私はその場で膝から崩れ落ち、たくさんの雨粒が頬を濡らした。彼女が、戻ってきたのだ。ずっとずっと、この時を待っていた。どうか夢なら醒めてくれるな!とも思った。

 これが、ループから脱出したという合図だとか、私へのご褒美だと信じて縋りたくてしょうがなく、私は座り込んでチャコの膝に顔を伏せた。チャコのステテコに私の涙と鼻水の跡がつく。

「世界は、うちとミーちゃんを適任として選んだ!そして、最後はミーちゃんが成し遂げると分かっていたんだよ」


「うちだけシワシワになってる……嫌……」

 チャコは鏡を見てそう言う。あれから2ヶ月ほどで、彼女は自分で車椅子を動かして移動できるほど回復した。これは強靭きょうじんな狂人だからできることであり、並大抵の人間にはできない。

 鏡の前で並ぶと、確かに、25歳の姿のままの私と、ざっと70歳程のチャコではまるでおばあちゃんと孫のようだ。

 私はあと何年、何十年、何百年生きるか分からない。もしかしたら不老不死かもしれない。チャコを本当の本当に看取らなければいけない日が来るのだと姿見をみて実感し、気分がずんと落ち込む。

「寂しいから、長生きしてね」

 私がチャコの肩を抱きながら、鏡の中の彼女を見つめて言うと、チャコは「バカ!」と私を一喝した。

「退屈させないって言ったでしょ」

 その言葉が何を意味するのは、私たちの仲ならもう簡単に分かった。

「ミーちゃんと一緒に、私も行くよ」

 バカなのはチャコのほうだ。輪廻からやっと脱出できたというのに、私と悠長の時間を共有することを選ぶなんて。


 悩んだ。よくよく話し合った。私は最後まで、彼女を道ずれにしてしまっていいものかと、頭を抱えた。結局、チャコは私と同じ老化を止める薬を飲んだ。

「このヨボヨボシワシワ姿じゃヤダからなぁ、若返りの薬でも作っちゃおうかな〜」

 チャコは腕をぐーっと伸ばしてそう言ってから、私の方を向いていつもの質問をした。

「ねぇ、楽しい?」

「……最高に楽しいよ」

「うふふ、私も!」

 シミだらけの腕が、私を抱きしめた。

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