奇術師の棺
popurinn
第1話
僕の家のポストに、山根惣一が死去し、その葬儀が行われるという知らせが来たのは、九月も半ばを過ぎた金曜日だった。
母はその名前を見ても、それが誰なのかわからなかった。
ようやく思い出したのは、僕が駅前のカフェのバイトを終えて家に帰ったときだから、夕方の六時すぎ。
知らせを受けてから、優に四時間以上経って、ようやく母は山根惣一が誰であるか思い出したのだった。
山根惣一とは、母が若き日に、ほんの数ヶ月だけで終わった結婚相手の、父親だ。旅先で知り合って、大恋愛となり、そのまま籍を入れちゃった男の、すぐにこりゃ失敗だったわと気づいて別れた男の、父親らしい。
葬儀の日程を知らせてきたのは、喪主を務める孫の新之助だった。
母と別れた夫は、その後再婚し、そして新之助という孫ができたらしい。
母は孫からの電話を切ってから、
「なんでうちに知らせてきたのかしらん」
と、ぽかんとした表情で言った。
母の疑問も最もで、母が元の夫と別れたのは、三十数年前。結婚して一年もたたないときで、それ以来、元夫とも、元夫の家族とも付き合いはないのだから。
「知らせてくれたって、行く義理はないわよねえ」
母はちょうど夕飯の支度をしている最中だったから、湯気の上る鍋を持ち上げながら、言った。
「それにしても、よくうちの電話番号がわかったわねえ」
孫からの電話は、家電にあった。
家電は滅多に鳴ることはない。どんなときも携帯で済むのだから、止めてしまえばいいものを、なんとなく惰性でつないであるだけだ。
まだ母の世代には、家電がないことは恥ずかしいことなのかもしれない。
でも、そのおかげで、山根惣一の孫の新之助は、ここの電話番号がわかったのだろう。
僕が小さい頃から覚えている限り、うちの電話番号は変わっていない。
「どこであるの? そのおじいさんのお葬式って」
居間のソファに寝転がっていた僕が声を上げると、母は気のなさそうに続けた。
「岐阜だって」
「へえ。おかあさんの元夫って、岐阜の人なんだ」
「違うわよ。九州の人。お義父さんや親戚たちも、みんな九州にいるはずなんだけど」
「じゃ、なんで岐阜なの?」
「知らないわよ、そんなこと」
「いつなの?」
「明日の一時半だって。突然すぎるわよねえ、行く気があったとしたって、こう突然じゃ無理よ」
「突然なのは、当たり前だよ。結婚式じゃあるまいし、葬式は前々から決められないじゃない」
思わず笑ってしまった僕の態度が気に入らなかったのか、母は僕を睨みつけた。
「あんた、食べるんなら手伝いなさいよ!」
このところ、母は虫の居どころがよくない。
ずっと続けているパートの仕事で上司が変わり、母とはウマが合わないようなのだ。
もう、辞めちゃいたいと、ここ数ヶ月、事あるごとに愚痴っている。そのうえ、僕が失業してしまったものだから、母の愚痴は悲壮感を増していた。
九月のはじめまで、再就職に応募した会社から、合格通知を待っていた僕は、半ばを過ぎて、すっかり希望をなくしていた。
応募した会社は四社目で、面接で手応えを感じていたせいもあって、落ち込みは激しかった。
たった四社に落ちたくらいで落ち込むなんて、就職戦線の激戦をくぐってきた者に言わせれば甘すぎるんだろうが、僕はもう何もかも投げ出したいような気分から立ち直れなかった。
もともと入りたくて入った会社じゃなかった。何もしたいことが見つからず、叔父のつてを頼って入れてもらった企業で、小さいながらも安定した職場だからとぼんやり過ごしていたら、リーマン・ショックとやらの余波が今頃になって吹き荒れて、あっけなく会社は倒産した。
大学を卒業して初めて勤めた会社が倒産してしまうなんて、僕は自分の不運を嘆いた。
といって、嘆いてばかりもいられないから、すぐに次の就職先を探したが、華々しい学歴もしっかりした資格もなかった僕を、簡単に受け入れてくれる会社はなかった。
いったい、僕は何がしたいんだろう。
今更そんな考えに立ち止まってしまい、それ以来立ち直れないでいる。
だから、山根惣一の葬儀の話を聞いたとき、ふと言ってしまったのかもしれない。
「僕が行くよ」
母は目を見開いて、外国語を聞いたかのような、珍妙な表情で僕を見た。
「何を言ってんのよ。あんたには、ほかにやらなきゃならないことがあるでしょう?」
就職活動だ。その通り。
でも、僕は、ここじゃないどこかに逃げ出したかったんだと思う。
「もしかして、誰も来てくれる人がいないから、おかあさんのところにまで電話してきたのかもしれないし、それか――、おかあさんの元夫の遺言かもしれないよ」
母の元夫はずっと前に亡くなっていると、聞いている。
「――あんたの発想、ついてけない」
母は箸を僕に押し付けるように渡して、言った。
「お葬式っていうのはね、それなりの付き合いがあってこそ、参列するもんなのよ」
そりゃそうだろうけれど。
だが、次に聞いた事実が、僕の気持ちを決定的にした。
「そのおじいさんって、何をしてた人なの?」
鍋に箸を突っ込みながら僕が訊くと、母はさらりと言ってのけた。
「奇術師よ」
「へ? 何それ」
「だから、奇術をする人。マジシャンだったのよ」
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