4
男が目を覚ましたのはまた、白い部屋の中だった。
今度ばかりはベッドの上で寝ていたし、棚には枯れない花が飾ってあった。以前と違う、きちんとした病院だった。男は戸惑いながらも、そっと起きあがる。下っ腹と右肩に空白感と無気力がわだかまっていた。
左腕を使って、薄い上掛け布団を除け、手術着をずらす。ぽっかりと内臓には穴が開いてしまって、すべて透明な管が内臓と取り替えられていた。破片を取り除くのも面倒だからと、大雑把に取り替えてしまう。例え、ほとんど器官が治る見込みがあっても変えてしまうことがある。
「良かったですね、これでもう盲腸の手術も、胃ガンの心配もない」
彼の脳の奥で誰かがそう、言って笑った気がした。男は首を振ると右袖を肩までめくる。透明な筋肉とうっすらと白み掛かった骨が、趣味の悪い解剖図のように見える。代わりに作られた生体器官だろう。
触ってみればプラスチックめいたつるつるした材質で、まだ体に合ってはいないようだ。これでは大きな血管もやられたのだろう。右腕をひいてみれば、がっちりとくっついていた。ため息を緩やかにはき出して、額を撫でるとまた、つるつると滑った。
力を入れればキュッと鳴る。これも、やはりこれも代わりに出来たものだった。
「いけませんよ、そんなことしちゃあ」
近くにいた看護婦にぐっと腕を捕まれた。そして突き出すように、杖を押しつける。
「あの事故で生き残ったんですから。しばらく安静にしてください」
看護婦は袖を下ろして右腕を無理矢理隠す。キュッキュと甲高い音が鳴った。こんなもので、生かされている。それにカミソリを握っていた指先をいじった。何度やっても指には痛みは残っていなかった。
杖をやっと右腕で使うと、そろそろとしたペースで病室から出た。寝ているのも、考えるのもいやだった。白い材質の床、鱗のような固い感触のするそれを踏みつけて、窓のある部屋まで体を引きずっていく。
外の見えないテレスクリーンの窓、いくつかのテーブルといくつもの椅子が並んでいる。テーブルには皆いくつもの培養花が端にはぽつん本棚があった。薔薇のようだが、トゲは生えた様子がなかった。
電子機器の使えない患者もいるための配慮だったのだろうが、中はがらんとしていて数冊の絵本だけがある。よろめきながら、一冊の絵本を引き抜いた。青いキャベツ畑、長い髪の娘、失明する王子。おそらくラプンツェルだろう。
何度もめくり、文字らしきものを追っていくが、彼には黒い図形にしか見えようがない。どんな文字だろうと思い出そうとするが、頭の中が締め付けられるような痛みが巡り、目を閉じた。まぶたの奥に文字だけが焼き付き、彼のことをあざ笑っているようだった。
「あなた、もしかして?」
少女が寝間着のまま、こちらへ歩いてくる。あの赤いコートを着ていた子だ。彼は頷いただけで顔を伏せた。
ほっといてくれ。言いたいがいえない。それがまた彼をいらだたせ、叫びを上げさせることになる。どうせこの病院は音で気にするような奴はいない。それはもう何年も前のことで、みんな眼鏡のようなヘッドフォン・テレビにきっと夢中だ。
少女は慌てて、どこか痛いのか、なぜ泣き叫ぶのか延々と聞き続ける。赤子か幼児をあやすように肩に手をかけようとする。振り払おうと振った腕は重く動かしようがない。少女の腕とは思えない固い鉄の感覚とずっと見つめ続ける少女の目が、彼を押しとどめた。
「いったいどうしたっていうの」
彼は力なく、本を指し示した。そして指でゆつくりと黒い文字をなぞる。そして首を振る。少女は眉をひそめて、呟いた。
「せいねんはみえないめで、もりのなかを歩きまわり?」
「できない」
もう一度少女は怪訝な顔を男に向ける。男は本を投げ出し、地面に叩きつけた。茨の草むらに落ちた男の絵が開いていた。
「できない」
口を開き、叫んだ。男はぐらりと椅子へと腰掛けた。少女はゆっくりと鉄の腕で本をがっちりと掴む。
「もしかして、読めないの」
頷いただけで目を逸らした男は、目を瞑った。焼き付いた文字は、彼から離れることなく張り付いていた。
「むかしむかし、ある夫婦がおりました。夫婦は長い間、子供がほしいほしい、と暮らしていました」
声に目を向ければ、少女は鉄の腕で本を掴み読んでいた。
「何があったか知らないけど、これくらいならしてあげるよ」
だからそんな顔しないで、そうとだけいうとまた朗読に戻った。男は情けなさそうに縮こまりながら、少女を見た。
コバルトブルーのパシャマに、茶色い目がくりくりと動いている。茶色いボブカットが病院の照明で白く光った。動いている唇は細く人形のようだが、その朱は明らかに血の通った結果だった。
すっと気分が楽になっていく。こうして自分以外の人間、それどころか生き物と触れあったのはいつ以来だろうか、少なくともこのコロニーについてからはほぼないと言っても良かった。少女の顔を風景を眺めるように、ぼうと見つめると、その風景が急に怒った。
「……ちょっと聞いてんの」
「あ、うん」
じろじろと顔を見ていたことに気がついて、じっとこちらを見つめてくる。すると足音がこちらに近づいてくる。病院にしてはどたどたとして音だと、男は思った。
「看護婦よ」
さっと顔を逸らし、本をしまった。
談話室に備え付けてあるテレスクリーンの窓のスイッチを入れるとギアナ高地の現在時間の映像が出た。
環境局放送部の特集らしいが、いつもやっていることは変わらない。噴き上がる作り物めいた青い煙とほじくられた巨大な穴が見えて、資源をいかに人類がどん欲に地球から奪ったか、ナレーションは語っている。それが事実かどうかは分からないが、時折差し替えられる。もとあった自然の風景は綺麗だった。
看護婦はその映像にも彼らにも気を取られることなく、培養花をただ並べた。定期的に変えるのが義務なのだろうが、彼女自身はそれほど重要に思っていないようで、花瓶のただ中身を変えるだけだった。赤い、たくさんの花がついたような物に変わった。
似たような形の花を見たことがあった。確か、黄色で故郷の畑の近くにたくさん生えていた。土手を埋めるように咲き誇っていたその花たちはなんと言っただろうか。
看護婦は彼の顔など見ずに、少女だけをじろっと見た。そしてテレスクリーンの中の時間を指した。
「さあ、そろそろお時間ですよ。戻りなさい」
少女は片目をつぶって口の先をとがらせた。仕方なし、そしていやいやと言った様子で立ち上がると、男は固い鉄の腕を振った。銀色と黒の無骨な腕ががちゃりと鳴る。
「またね」
「ああ、また」
それだけ言い合うと二人は別れた。
彼女は一体なぜ、こんなところにいるのだろうか。じっと赤い花を見つめた。ぱっとそれが散るようなイメージが湧く。彼女もこんな風になってしまうのだろうか。
だが、この花とあの花は違う。人の手で作られた児戯の花と変異した花。もちろん故郷の花はもっと違っている気がする。
「そうだ、菜の花はもっと、暖かい黄色だ」
男は自分でも気付くことなく、そう言った。スクリーンは相変わらず、ギアナ高地を写していたが、空だけは真っ青のままだった。
▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽
「……せいねんはもりをさまよううちに、いつのまにかさばくにでました。
そこではまじょに追放されたラプンツェルがくらしていました。
目がつぶれ、あわれなかっこうでうごきまわっているひとにラプンツェルははなしかけました。
するとラプンツェルはそれはせいねんだとしって、だきつきました。
あえたことがうれしかったのですか、あわれなかっこうのせいねんをみるとかなしくてないてしまいました。
するとなみだがせいねんのめにはいりました。するとどうでしょう。せいねんの目がもとの光をとりもどしました。
そのご、ふたりは、永遠に、しあわせにくらしました。
それにしてもあのまじょは、どうなったでしょうか。それはだれもしりません」
▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽
ため息をついて、少女は何遍も読んだ絵本を畳んだ。あれから数日、暇なときはずっとこの談話室にいた。男は「ラプンツェル」がお気に入りの本らしく、子供のような口調で、だが必死な顔で「よんで、よんで」とせがむのだ。
機械の人差し指が、畳んだり開かれたりしてぎしりぎしりと鳴った。
「もういいでしょ、さすがに同じ話ばっかりは飽きないの」
男は頷いて、文字に指先を当てて必死になぞった。
少女は機械の指すべてをギシュギシュと鳴らして、その腕で「ラプンツェル」をさっと取り上げた。
その腕をじっと見つめてから、すっと本を棚へと放った。力が籠もったせいだろうか、棚から弾かれて白い床へとばさっと落ちた。少女は無表情に絵本を拾って、ねじ込むように棚へと収めた。よく見る絵本の表紙が指の形にへこんでいるようだ。
男は首をかしげてから、思いついたように口をぱくぱくさせ、もどかしげに歪んだ顔で言った。
「どうした、どうした」
なにかあったのか、心配事でもあるのか、自分に協力できることはないのか、そう言いたい。できればもっと洒落た言い回しで。
だが、彼の限界はこれだった。必死に探してもこんな言葉しか見つからない。男は自分を責めながら、少女の目を見た。くすんだような力のない茶色い瞳が見える。以前と別の目がはまってしまったようにも思えた。
「ごめん」
なぜ、謝るのだろう。謝るとしても踏み込んでしまったこちらが謝るべきなのに。
「違う」
必死に言葉を探してもこんなことだけが口から出て、男は思わず自分の頬と叩いた。力としまりない音だけがして、余計に情けなくなった。
少女は首を振って俯いた。足音がゆっくりとやってきたためか、ただ目を反らしたかったのか。男に見えるのは茶色い髪の毛のつやと、義手が反射した。ばたばたという看護婦の歩く音が響いた。看護婦は二人になんの関心も寄せず、ただ事務的に入ってきて花を変えた。今日は毒々しい赤い菜の花だった。これを選んでいる人間はどういうセンスをしているのだろうか。もしかしたら、ただひねくれているだけなのかもしれない。
しなびた花を持ち去る看護婦の姿が見えなくなるまで二人は口を開かない。
「いやなの」
義手を男の鼻先へ向けて少女は言った。目は合わせず、押し込めたような声を出した。
「ここにいると腕、変えられてしまう」
少女はこちらへ向かなかった。ただ、抑えた声でゆっくりと話した。
「父さんと母さんが、ね。変えろって。党の上層部も機械義手は禁止令が出るって」
つきだした機械の腕が白い光を反射し、細くよわよわしい年相応の腕に見えた。硬い顔のまま、それを見詰めた。指を結んで開く度に中の鉄骨ががちりがちりと動いた。
「ふたりとも党の政策通りしか動いてくれないの。庇ってなんてくれない。結婚だって子供を作ったのだって、党の方針だから」
鉄骨は何度も何度も悲鳴を上げているようだった。男はざらついた喉の痛みを感じながらも言う度、言う度に頷いた。
「いやだもの、そんなの」
そういって振り向いた顔は硬く、義腕と同じような光だけが目の奥で無機質に光っていた。男は前から、この頭がこんな風になる前から思っていたことを、端的に何の気負いもなく、呟いた。なら、逃げる。
返ってきたのはいつものくりくりとした茶色い視線と戸惑ったような声だった。男は顔をほころばせながら、偽物の花を指さした。
「黄色い、菜の花、見よう」
男は単語、単語をゆっくりと思い出すように言っていく。適切な言葉と、消えてしまった音を必死に掴もうと足掻く。
「外、出る、外の外出る。見る」
苦痛に耐えるように片目を瞑り、絞り出すように出た言葉を出した。痛みがあるわけではない。ただこんなことも言えない、少女一人の話にきちんと答えてやれない。胸の奥がじんわりと暖かくなる。苛立ちが心臓から流れてで来る。できることができなくなる、というのはここまで口惜しいものだったのか。
「これ、違う、もっと、暖かい」
ひたすら手を閉じては開き、頭を叩いた。少女は眉がすっかり下向きになっている。男は安心させるように一度首を振ってから、少女の右肩を叩くと、義腕の材質は思いの他固いようで、しばらく指先がひりひりした。手を押さえると、彼は祈るような風に彼女に言った。のどの痛みが増してすり切れるような感じがしている。
「あったかい、黄色」
少女は頷いた。行きましょう、外へ。小さく呟き、両腕で祈る拳を握った。鉄は皮膚を染み入るように冷やしていったが、それにも増して左手は温かいものだった。
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