2
朝はいつも散歩する。人気のないあの放棄区画をあるくことが彼の日課だった。今日も仕事にもいかず、時計も持たず、ただ誰もいない区画を歩いた。その一歩一歩は焦燥感だけが覚醒させた。
出て行くしかない。もう、本を守ることは無理だった。ただ一人だけの肉親である祖父が彼に残した遺産だろうが、特別だろうが、この都市にいるのは限界だった。どこかから入り込んだ霧が切れたかけた太陽を遮る。眠気がまだ残っていた。絡まる蔦のように成長した翡翠色の廃材を尻目に男はわざとゆっくりと歩いた。
生体素材は指示を受けた形をできるだけ守りながら、自身を維持成長させる植物の葉の一種と言われている。おそらくその成長指示をうけないまま放置されたのだろう。当たり前のことを頭に巡らせたが、彼の脳はまだ現実へ起きるそぶりを見せない。
横手から冷たい風が流れてきて彼の顔を叩く。やっと眠りから覚めたように、彼は目をしばたかせた。
元々は工場の区画だったらしい。開けたばかりのような目を彼が向けるといくつもの丸いドーム状の建物が並んでいた。ほとんどのドームは天井が壊死して穴が開いている。開いた穴からは、素材自体の、生の色である翡翠色をした細胞が波打ち、ドームを再び囲もうとゆっくりと成長していた。だが、光を求めるためなのか、指のように翡翠の塔が立ち、太陽をつかもうと必死になっている。
それでいてドームの横には黒っぽい箱形の機械が備え付けてあった。古くさい作りをしていて、画面はなくメーターが並んでいた。何に使うか分からないがメーターは皆、零の数値で針を休めていた。
錆もなく、汚れも少ない。
もしかしたら、電源がつくのでは。
そう思い押した主電源は、カチッという音がするだけだ。けれど、蛍光灯と同じような感覚で彼はつい待ってしまった。
「そこ、もう電気、通ってないよ」
若い女の声がした。声がした方を見れば十四歳ほどだろうか、小柄な少女がこちらを見ていた。どこでもありそうなジーンズに、もう作ることは許されないほど、鮮やかな赤いコートを羽織ってた。両者ともたくしあげていてるようで、分厚い布地の重なりが少女の背伸びを表しているようだ。
雰囲気を打ち壊すように、持っているのは啓蒙局指定の大きな肩掛け鞄だ。少女の背伸びと相対するように冴えないデザインで重々しく、見飽きたものだった。中身は空気しか入っていないのだろう、鞄はずいぶんとへこんでいた。
「このへんの地下ケーブルは三年も前に切られたの」
「よく知ってるね、この辺のことなんて、だれか物好きに教えてもらったのかい」
調べたの。自慢げに、左手を腰に当て右の人差し指をふる。
右手は義手らしく、硬い金属が銀色の光を冷たく放つ。義手はそう珍しいものではない。遺伝の異常によって欠損していることも少なくなかったし、閉鎖都市内の薬害で一つの都市の子供達が四肢のどこかが動かなくなったことも、何年か前にあったはずだ。もちろん後者は黙殺されたが。
「あなたこそ、物好きね。こんな廃墟にいるなんて。レジスタンスなの」
彼は少女に力なく首を振った。反抗なんて、出来そうもなかった。
だいたいそんな組織は教科書以外存在しないはずだ。確かにそういう名前の組織はいるだろう。啓蒙局の罠の一環として。毎日与えられる食事や娯楽に不満を持たないものの方が多い。だのに刺激を求めて、反社会的組織の一員になろうとするものもいる。レジスタンスを騙った啓蒙局の連中が、そうしてのこのこと入ってきた馬鹿に牙をむくのだ。
「そんなものありはしないよ。さあ、ここは危ない。家のある区画まで帰るんだ」
「これが終わったらそうする」
言うより早く鞄を降ろすと、手慣れたように機械の外装を引きはがした。中には差し込み口がずらずらと並んでいて、蜂の巣のようだ。少女は義手から青と白のコードを取り出し、機械へ迷わず差し込んだ。
少女には似合わない力強い機械でできた腕、それがファンをぐんぐんと回して周りに熱をまいていた。そして機械のメーターが立ち上がり、工場の中のファンがゆっくりと回る音がした。
少女は腕を虚空にあるキーボードを打ち付けるように動かした。おそらく彼女の網膜にはそのキーボードが写っているのだろう。
「動かしているのか」
話しかけないで。そんな目を彼に向けると、打ち込みを続けた。少女はその動作だけをつづけた。随分、引き締まった表情で少女は息を付くとコードを引き抜いた。
「そう、ちょっと用事があるの」
彼を見ることもなく、少女は廃工場の扉を開けた。
ずりずりと引きずるような音がして、中に冷たい空気と光が入り込んでいった。少女のことを追う。中は薄れて空色になったタイルが並び、壁は生体素材が剥き出しの色である翡翠に光っている。ベルトコンベアにそって大型機械とロボット・アームがいくつも並んでいる。 ベルトコンベアはもう動きを止めたようで、その終点には肩からはめるように出来た義手が転がっている。少女は満足げに鞄にその真新しい義手を詰め込んだ。
わざわざなぜこんなことをしているのか。彼が視線を向けると少女は問いもしないのにしゃべり始めた。
最近、義手は『再生』の方が優先されてて、機械式は生産停止を食らったそうだ。機械式と違い、後天的遺伝子調整や代替器官を使うによって四肢を『生やす』ことのできる方法らしい。
「それが、いやだったというわけかい」
少女は力強く、何度も頷くと金属の腕をまっすぐ伸ばした。冷たい光沢をきらめかせながら、手のひらを開いて、閉じた。
「もう、これは私の一部だもの、他人に言われてどうこうされたくない。確かに、もうそろそろ替え時なの。だからって腕は増やしたくない。みんながやれっていっても気持ち悪いの変わらないし」
だから新しく作ったの。少女は満足げに笑った。そして彼に問いかける。あなたは、なんでここにいるの。
「逃げるんだ、それだけだよ」
彼は手負いの犬みたいに顔を歪ませて笑って、彼はそう決めた。少女は怪訝な風に片目をつむった。彼は自分に頷いてゆっくりと来た道を戻っていった。
まだ、時間がある。夜になるまでは、まだ。少しでも本を持って出て行こう。
遠足に遅れた時ような心を抱えて、彼は早足で歩く。廃棄区域の見慣れた道をまだ霧が覆っている。
工場の上を見上げれば、小さな翡翠の塔のように成長した廃材が太陽に反射して輝くのが見える。霧がちらちらとそれ覆い、余計に輝きが大きいようにも思えた。いくつもの塔はそれぞれ太陽に向かうように必死に形を変えていた。
それを眺めて焦るような気持ちを落ち着かせていた彼は、ふと暗闇に気付いた。反射する光だけが途絶えて、霧は暗闇に変わっていった。この切れかけた太陽の支配区を抜ける地点を境に。
そして焦げた臭いが朝霧を裂いて彼の鼻を突いた。
彼は目を開いた。痛いほどの開かれた目にはいくつもの本が燃えるようなイメージが文字通り焼き付いた。
駆ける。走る。転ぶ。立ち上がる。また走る。
何も考えられないような脳にも分かった。あの区域を夜にしたのだ。
家の周りには何人もの、深い緑色のつなぎを着た男達がいた。
その青も赤く照らされて奇妙な色へと変わっていた。『清掃』が始まっているようだ。彼の部屋は燃えていた。冗談のように、他の部屋から火の手は一つもあがらない。その一部屋だけが赤い舌でも出したようにも思えた。立ち上る煙の色はわざとらしいほどの緑色でエコロジスト達の勝利を歌っているらしい。清掃局特製の油はクリーンだった。彼以外にはとても。
マスクもせず、皆その炎と緑の煙を見つめていた。彼は蛾のようにふらふらと炎へと近寄っていく。
つなぎの人々は彼のことにやにやと笑っている。人食いの木は子供を喰う前にこんな顔をするのだろう。
その緑をかき分けて、非常階段を上っていく。上がりきった場所の廊下には影法師のように黒いスーツを来た男がいた。
「いや、残念、こんな結果になってしまうとは」
あの炎にも似た赤い口が三日月の笑いを浮かべて寄ってくる。啓蒙局だ。
「残念です、あなたが時間通りに廃棄していただければこのようなことに成らなかったのに」
旅行を前にした学生を思わせる、うきうきとした口調だった。そして細こっい身体を芝居がかった動作で動かし始める。悲劇の歌い手を気取っているようだ。
「我々もこんなことは、したくありませんでした。
ですが、これは決定事項です。仕方在りません。よく物知りの方が使ういいまわしですが、ネ、人間は楽園を追われてから、ずっと法が必要だったそうです。それを守らないのは野獣と変わりません。人の群れの中にいる野獣は、殺すか、飼い慣らすか、どちらかしかないでしょう。ネェ、物知りの方」
深く赤く笑う男の右手には手錠が握られていた。銀色で、冷たい体温のない金属だ。それを一回転させてから呆然とする彼の手にはめ込もうとする。彼は咄嗟に後ろへ下がるがそこすぐに階段だった。
下には固そうな床と、笑う緑色の男達。
「こんの、くそっ」
彼が叫んで捻り出した言葉はそれだけだった。
「もっとバリエーションに富んだ悲鳴が欲しいところですネェ。まあ、定型ではずれないパターンというのもなかなかいいものですガ」
両腕を広げ、楽しそうに笑う。声を出さす、ただ口を三日月に開けるだけの笑いだ。笑い方を二度とできなくしようと、飛びかかろうとした時、手錠を落とす固い音がした。
それが合図だったのだろうか。
右腕に鋭い痛みが走る。文字通り突き刺さるような痛みはすぐ引いていく。そこにあるのは注射器のようだ。いわゆる麻酔銃のようなものをどこかから撃たれたようだった。どこかは分からない。つかみかかろうとする手は弛緩を始め、視線はもう揺らぎ始めていた。そして浮遊する感覚があたりを包んだ。
「もし、生きていたら、またお会いしましょう」
三日月の笑いは、やっと声を伴って偽りの夜に響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます