○帝国の二十年 3
「総員、足元の変色や緩みに注意せよ!瘴気の濃い
曇天の下、小隊長の号令がコヴォルアの荒野に響いた。重装歩兵の一団は慎重に歩を進め、後方支援の弓兵と聖職者達が列を成し彼等の背を無言で追う。
深淵の放つ瘴気は汚染された水に溜まりやすい。そして水は大地の下を流れるものでもある。それとは知らず甘い地盤を騎馬で駆け抜けようものなら、何処で大穴や亀裂が走り、瘴気が噴き出すとも限らない。
故に将軍位や一部を除く殆どの兵士は歩兵で構成され、深淵の姿の無い昼間にも関わらず、一切の油断が許されない行軍を余儀なくされていた。
帝国史上では二十年ぶり、そしてガレニウスが封牢を脱獄して以来、初。
捻じ曲がった樹々が鬱蒼と生い茂るネイズワース湿原の北限を侵すべく、およそ戦らしからぬ
大陸歴1122年、粉雪の舞い飛ぶ早朝。当初の予定通り、ネイズワース累次侵攻作戦は開始された。
季節は晩秋、動員兵力千二百人のうち正規軍は八百余人。兵力を提供する貴族達の負担を鑑み、
「ご尽力感謝します、ボッグス殿」
不意に名前を呼ばれた五十代と思しき男は足を止め、声の主を振り返った。闊歩してくる人馬に目を細め、鞍上を認めるや兜の面頬と無精髭の口角を大きく上げる。
「おぉ、誰かと思えばペリノース副将軍様じゃねぇか!すっかり偉くなったもんだな、おい! 総員そのまま前進、警戒だけは怠るなよ!」
指示を受けた歩兵達が鎧の音のみを立てて進む傍ら、腰に手を当てるボッグスに近付いたペリノースは鞍上から敬礼する。
「畏れ多い職位を拝命してもうすぐ一年ですが、日々雑務に次ぐ雑務……今や満足に眠れるのは夜だけになってしまいました」
「そりゃごく真っ当な話だ。軍の上役が昼寝なんざ許されるわけねぇだろ」
「今にして思えば何としても断るべきでした。自分の愚かな決断を呪う毎日です」
「随分と後悔が重てぇな、おい。だったらなんで拝命したんだよ」
「雨季にしては快晴だったもので」
「そんなら仕方ねぇ。天運だと思って諦めろ」
煙に巻く様なペリノースの話に苦い面持ちで応じるボッグスの口角は、それでも懐かしむ様に僅かに上がっている。
「昔の可愛い部下が苦しんでいるんです。如何でしょう、そろそろ観念して中央にお戻りになるというのは」
真顔でじろりと三白眼を向けたペリノースだったが、かつて上官だったボッグスには見慣れた面持ちの様だった。「冗談は止めてくれ」と頬を掻きながら大きく肩を竦める。
「俺の戦場は故郷の
帝国が地方貴族に派遣するのは、文官等の役人の類だけではない。後方支援に秀でた兵種を殆ど全ての地方に駐屯させている。
地方の統治を彼等に委ねる一方、帝国の庇護下に在るという事実を誇示する施策の一環だが、駐屯部隊が明確な成果を上げなければ本末転倒な形でもある。
そうした意味で、偵察部隊の実績は明らかに突出していた。
蹄の跡や馬車の轍、伴った瘴気の濃淡。深淵の動向を知る為に必須となる多くの情報を、彼等は忌み地の境界に赴いて丹念に調査を重ねる事で入手していく。
長期や短期の作戦立案、或いは方針の制定、武器防具や軍馬の調達、補給路の設定や食料確保等の
殊、南方域の偵察部隊は精鋭として名高い。持ちかけられた昇進の
「総員、止まれ!」
やがて響いた号令により、緊迫に満ちた行軍は終わりを告げた。
小隊長達が手にする地図は偵察部隊が
兵士達の足元は僅かにぬかるみ、互いの視線を覆い隠す程にまで下草が群生している。正面には立ち昇る瘴気の苦痛に身を
憎き深淵の本拠地、ネイズワース湿原までたったの数拍。
手綱を握っていたペリノースが無言で右手を高く上げた。背後から聞こえ続ける弦を引き絞る音に耳を、そして心を委ねる。
聞こえるか、深淵。この音こそ
「射て!!」
副将軍の右手が振り下ろされた次の刹那、弧を描いた六百の矢がネイズワースの森を上空から襲いかかった。
「さぁて……どう出る、深淵」
前線の一部を構築するボッグスも他の兵士同様、背を伝う汗を感じながら森を凝視していた。頭上を遥か高く超え森へと吸い込まれていった矢には言わずもがな、深淵を
最も、
時節は晩秋。大陸の北に
矢の飛距離や着火した炎の速度は勿論、僅かにでも湿地の乾燥を期待出来る意味に於いても、やはり初戦は秋である必要があった。
「流石は音に聞こえた銀狐……ってわけだ」
侵攻の戦術として申し分無い上、真意はともかく、収穫や冬支度で手が塞がる地方領民に配慮した形で成立している。
独り呟いたボッグスは参謀長スヴェンの、柔らかくも何処か抜け目の無い面持ちを思い出していた。そしてこの間も止む事なく、鉛色の空の下で火矢が風を切り続けていた。
「お、どうやら火が点いたみたいですねえ。まず一か所……いや、二か所ですかね」
手で眉の上に
「なぁ、深淵の奴ら、今頃飛び起きてんのか?」
「いいえ、それは無い……と思います」
矢をつがえた弓を
「ここはネイズワースの外周、つまり端です。深淵が住むのは恐らくもっと奥……湿原中央付近じゃないでしょうか。少なくとも私が深淵なら、こんな境界に住んだりはしません」
「ま、そりゃそうか。正直、ちょっと拍子抜けだわ」
「あの火で
「作戦の説明でそう言ってただろうが。ちゃんと聞いとけ」
鋭利な鋲に包まれた
険のある父の態度に口を尖らせた息子を見かねたのか、苦笑したアルバが「まぁまぁ」と割って入った。
「俺には、ヴァレーフは確認しただけに思えたよ。交戦前で気が立つ
「分かるんなら黙ってろ。そもそも親と子の話だ、他人が口出してくるんじゃねぇ」
「嫌だなぁ……これからって時に親子喧嘩だなんて」
遣り取りを横目に溜め息を吐くライゼの傍らで、ツェヴェリもまた嘆息しながら肩を落としている。
「オルナ……俺いなくても大丈夫かなぁ……ちゃんと飼葉食ってるかなぁ……」
「あんたは愛馬の心配か……ま、いつも通りなら安心だよ!ね、イトル!」
名を呼ばれたイトルは細剣の柄を堅く握り、相槌を打つでもなく煙を上げる森を黙って凝視している。
「お……敵さん、ようやくお出ましか」
トーリオの言葉に誘われる様に、白く煙る木立の合間から無数の人影が姿を現した。
否、それは人ではない。或る個体は不釣り合いに巨大な頭をゆらゆらと揺らし、或る個体は百足の様な小さく多い脚で草を掻き分ける。辛うじて人の姿を模した異形の生命体――傀儡が、思い思いの歩調で日の下へと森から、続々と溢れ出てくる。
「なんだよ……結構いるな。こっちと同じぐらいか?」
「奇遇だね。僕の見立ても全く一緒だよ」
「はいはい、そりゃ良うございましたね」
嬉しそうに微笑むフェルデンを呆れた顔で見やった後、トーリオは腰の両脇に下げた二本の短剣をすらりと抜いた。右を順手、左を逆手に握って低く腰を落とす。
「目標は」
「殲滅」
長剣を構えたフェルデンの短い答えに、トーリオの口角は満足そうに上がった。
「上等!」
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