自然の中でしか生きられない魔女の末裔が、身分を隠した第二王子と出会って人生がバグった話

えばた のりか

第1話 魔女の末裔と秘密の王子

朝日が山の尾根から顔を出すころ、ミリカは土の匂いで目を覚ました。

窓の隙間から差し込むやわらかな光が、干した薬草の影を床に映す。


彼女はもぞもぞと体を起こし、まだぼんやりとした頭のまま、薪の香る台所へ向かった。


小さな石造りの家。

壁には乾いたハーブが吊るされ、戸棚には自家製の瓶がずらりと並ぶ。


ミリカは椅子に腰かけると、薬草茶をいれるために鉄瓶に水を注ぎ、火をつけた。


その間、ふと指先を見つめる。


 ――少し、冷たい。


 ここ数日、体の芯がひんやりするような違和感があった。

 熱でもなく、風邪でもない。ただ、じんわりと冷えるような感覚。


 けれど不思議と、土に触れるとその感覚は消えてくれる。

 だから、ミリカは今朝も畑へ出るつもりだった。


 「……今日も、大丈夫」


 そうつぶやいてから立ち上がり、小さな袋に種を詰めて、扉を押し開ける。


 朝の空気は冷たく澄んでいて、山の気配がすぐそばにあった。

 風の音、鳥のさえずり、木の葉の揺れる音。

 ミリカの紫の瞳が、光を受けてきらめく。


 この山で、彼女は一人で暮らしている。

 父の名は知らず、母も数年前に亡くなった。

 けれど、この自然が彼女のすべてだった。


 ――魔女の末裔として生きるには、静かさと孤独が必要なのだ。


◇ ◇ ◇


 畑は家の裏手に広がっていた。

 段々畑の土はふかふかで、彼女が一から整えたものだ。


 トマト、ナス、じゃがいも、薬草、そして人には名前のわからない植物たちが並んでいる。


 「おはよう、ルナリエ。今日も元気そうね」


 木陰に座る灰色の山猫が、しっぽを一度だけ振った。

 それが彼女への返事だった。


 ミリカは膝をつき、土に指を沈める。

 そして、小さな種を一粒ずつ植えていく。


 土の匂いは落ち着く。

 風が頬をなで、山の音が心を整えてくれる。


 ……けれど、今日は何かが違った。


 「……煙?」


 風の中に、焦げたような匂いが混ざっている。

 鼻をくすぐるような微かなものだが、ミリカの感覚は鋭い。


 立ち上がって山の道を見つめると、ひとつの人影がこちらに向かってゆっくりと登ってきていた。


◇ ◇ ◇


 その男は、見慣れない装束を身にまとっていた。

 旅人にしては布が上等すぎる。けれど鎧や護衛のようなものもなく、一人で歩いている。


 近づいてくると、青い瞳がミリカの紫の瞳とぶつかった。


 「……すみません」


 声は低く、礼儀正しかった。

 けれど、長旅の疲れか、少し息が荒い。


 「道に迷ってしまって……この辺りに村か、宿のようなものはありますか?」


 「ここには村なんてないわ。山を越えて、ふもとまで戻らないと」


 ミリカは表情を変えずに答える。


 「そうですか……やはり」


 青年は苦笑し、額の汗をぬぐった。

 その仕草に、どこか育ちの良さがにじむ。


 ミリカは静かに目を細めた。

 この山には、普通の人間は滅多に入ってこない。

 ましてや、身なりのいい旅人など――。


 「あなた、名前は?」


 「エリック、と申します。商家の息子で……療養のために、少し遠出を。けれど、思ったより山深くて」


 言葉には不自然さはない。だが、それが逆に不自然だった。


 エリック――その名は王都の人間には珍しくないが、ミリカの直感は、彼が何かを隠していることを感じ取っていた。


 「療養なら、山を登るのは逆効果だと思うけど」


 「そうかもしれません……でも、空気が美味しいですね。こんな場所があるなんて」


 エリックは木々を見上げ、深呼吸した。

 その横顔には、どこか悲しげな影が差している。


 「怪我や病気はしてない?」


 「いえ、大丈夫です。ただ少し、疲れてしまって」


 ミリカはしばらく黙って彼を見つめた後、小さくため息をついた。


 「……とりあえず、お茶ぐらいは出せるわ。うちに来る?」


 「えっ、本当ですか?」


 「でも変なことしたら、ルナリエが黙ってないから」


 視線を送ると、山猫が鋭く鳴いた。


 エリックはその猫を見て、苦笑した。


 「わかりました。静かに、水だけいただければ」


 ミリカは彼に背を向け、小道を歩き始めた。

 そして、思った。


 ――この人が、運命を変える人かもしれない。


 そんな予感が、確かに胸をよぎっていた。

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