Re:アゾフ旅団ーUkrainian battlefield 2022ー

雪風

—プロローグ:鋼鉄の墓標—



硝煙と鉄の匂いが、まだ肌にこびりついていた。

耳鳴りの奥で、遠くの砲声が鈍く響いている。

――あれから、どれくらい経ったのだろう。


目を開けると、暗闇。

コンクリートの天井から、細い水滴がぽたり、ぽたりと落ちる音。

湿った金属臭と、腐敗しかけた血の匂いが鼻を刺した。

ぼく――アンドリー・ホメンコ、19歳。ウクライナ海兵隊第36旅団から転属し、アゾフ旅団の新人兵士としてアゾフスタリ製鉄所防衛戦に参加した。


最後の記憶は、ロシア軍のT-72戦車が構内に突入してきた瞬間だった。

爆風で吹き飛ばされ、肺が焼けるような熱気の中、意識が途切れた。

確かに――死んだはずだった。


「……ここは、どこだ?」


声が掠れて出た。

周囲には焼け焦げた鉄骨、散乱した弾薬箱、半分崩れた地下通路。


壁には

"Слава Україні"

(ウクライナに栄光あれ)

のスプレーが掠れて残っている。


――だが、味方はいない。

聞こえるのは、自分の息と心臓の鼓動だけ。


右手を見た瞬間、息が止まった。

穴だらけのはずの手が、再生していた。

焦げ跡すらない。皮膚は新しく、柔らかい。

恐怖よりも先に、戦慄が走った。


「……俺は、死んだのか?」


死んだのに、生きている。

その事実を理解できないまま、ぼくは壁際のAK-74を拾い上げた。

手に馴染む重みが、現実を突きつける。

残弾、あと17発。

マガジンの底には、白いペンで書かれた文字があった。


“До кінця”

(最後まで)


仲間の誰かが残した言葉だ。

そして、ぼくは気づいた――誰の死体もない。


アゾフの仲間たちは全滅した。ロシア軍が遺体を撤去したのだろう。

いや、もしかしたら――この場所はもう、現実ではないのかもしれない。


遠くで、鉄靴の音が響いた。

重装歩兵の一団が近づいてくる。

彼らの話すロシア語が、湿った空気に溶けて届く。


「Проверим подвал. Там могли остаться нацики.(地下を確認しろ。ナチが残ってるかもしれん)」


ロシア兵だ。

ぼくは本能的に照準を構えた。

銃口の向こうに見えるヘルメット、迷彩服、ライフル。

トリガーを引く。

反動。閃光。

一人が倒れ、二人目が叫ぶ。

返り血が頬にかかる。

弾が尽きるよりも早く、ぼくの胸に7.62mm弾が貫通した。


痛み。熱。

視界が白く染まっていく。

――だが、死なない。

数秒後、ぼくはまた息をした。

血が逆流し、穴が塞がる。

再び立ち上がる。

倒れたロシア兵の顔には、恐怖よりも理解不能の驚愕が浮かんでいた。


「……俺は、もう死なないのか」


地下の静寂の中、ぼくは呟いた。

戦場で死ぬことができない兵士――それは救いではなく、呪いだ。


外では、マリウポリの夜空を覆うロシア軍の照明弾が、まるで地獄の灯火のように瞬いていた。

ぼくは再び弾を装填し、亡き仲間の名を一人ずつ心の中で呼ぶ。


「セルゲイ、イワン、マクシム……」

「俺は行く。あいつらを、殺し尽くすまで。」


ぼくは、死んでも蘇る兵士となった。

この呪われた製鉄所の地下から、孤独な反撃が始まる。


――ウクライナのために。仲間のために。そして、平和を取り戻すために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る