第十三話:一夜限りのシンデレラ

王都一の高級ドレス店『シルフィード』。その店内は、まるで夢の世界のようだった。

壁一面の鏡に、柔らかな光を放つシャンデリア。そして、そこかしこに飾られた、色とりどりの絹やレースで仕立てられたドレスの数々。


「さあ、アリア様。まずは採寸から始めましょう」


店の主であるマダム・シルフィアが、にこやかに私を手招きする。彼女は、侯爵が絶大な信頼を寄せる、王都随一のデザイナーだという。


「……よろしく、お願いします」


私は、緊張で固まったまま、頷いた。

昨日まで遺物の埃にまみれていた私が、こんな場所にいること自体が、場違いに思えてならなかった。


採寸が終わると、マダムは次から次へと、ドレスの見本を私の前に持ってきた。


「侯爵閣下からは、『彼女を、今宵の夜会で最も輝く星に』とのご依頼を頂いております。アリア様の澄んだ瞳の色には、この夜空のような深い青色がきっとお似合いになるでしょう」

「まあ、こちらの月の光を思わせるような、柔らかな銀のドレスも素敵ですわ」


マダムと、付き添ってくれたメイドたちが、楽しそうにドレスを選んでいく。その光景を、私はただ、ぼんやりと眺めていた。

私には、どれも同じに見えた。高価で、美しくて、そして、自分には決して似合わない、遠い世界のドレス。


「……アリア」


不意に、低い声が私の名を呼んだ。

振り返ると、店の隅のソファに腰掛けていたレイドン侯爵が、私を手招きしている。いつの間にか、彼は店に来ていたようだ。


「……どうした。気に入ったものがないのか」

「いえ、そういうわけでは……。どれも素敵すぎて、私には、選べません」


私が正直にそう言うと、彼は小さく息を吐いた。


「……マダム。あれを」


侯爵が指さしたのは、店の奥、ひときわ厳重なガラスケースの中に飾られていた一着のドレスだった。

それは、今まで見てきたどのドレスとも違っていた。


夜の闇を溶かし込んだような、深く、静かな漆黒の生地。その上には、まるで本物の星屑を撒いたかのように、無数の小さなダイヤモンドが繊細な刺繍で縫い付けられている。派手さはない。だが、見る者を惹きつけて離さない、圧倒的な存在感を放っていた。


「まあ、閣下! そちらは、我が店が誇る最高傑作『星降る夜』……! まさか、これをお選びになるとは」


マダムが、驚きの声を上げる。


「このドレスは、ただ美しいだけではございません。生地には、古代の月の神殿で清められたという聖なる糸が織り込まれており、あらゆる呪いや悪意を弾く、強力な守護の力が宿っておりますの」


守護の力。

彼は、ただ美しいというだけで、このドレスを選んだのではない。夜会という戦場で、私を守るための「盾」として、これを選んでくれたのだ。


「……着てみろ」


侯爵が、静かに言った。

私は、まるで何かに導かれるように、そのドレスへと歩み寄った。


試着室で、メイドたちに手伝われながらドレスに袖を通す。

冷たく、滑らかな生地が、肌に吸い付くようだった。鏡の前に立つと、そこに映っていたのは、もういつもの私ではなかった。


漆黒のドレスは、私の白い肌を際立たせ、髪の黒さをより深く見せる。そして、胸元やスカートに散りばめられたダイヤモンドが、私が動くたびに、きらきらと無数の星のように輝いた。

まるで、夜空そのものを身に纏っているかのようだ。


「……素晴らしい。アリア様、本当にお美しいですわ」


メイドたちが、うっとりとため息を漏らす。

私は、鏡の中の自分から、目を離すことができなかった。


試着室から出ると、侯爵が息を呑むのが、分かった。

彼は、一瞬だけ、その氷の仮面を忘れ、ただの驚きと、そして賞賛に満ちた表情で、私を見つめていた。


「……よく、似合っている」


絞り出すような、その一言。

その言葉だけで、私の心は、今までに感じたことのない喜びで満たされていった。


ドレスが決まると、次は宝飾店だった。

侯爵は、ここでも迷うことなく、一つのネックレスを指さした。


「これを」


それは、私のドレスと同じく、夜空を思わせる深い青色のサファイアだった。月の雫を固めたかのような、神秘的な輝きを放っている。


「このサファイアは、『真実の石』と呼ばれている。持ち主の目を曇らせる、あらゆる幻術や偽りを見破る力があるそうだ」


これもまた、私を守るための「盾」。

彼は、どこまでも用意周到だった。


屋敷に戻ると、休む間もなく、マナー教師とダンス教師による、地獄の特訓が始まった。

食事の作法から、貴族の挨拶、そしてワルツのステップ。今まで縁のなかった世界のルールが、私の頭に叩き込まれていく。


何度も失敗し、くじけそうになった。

だが、その度に、あの漆黒のドレスと、侯爵の「よく似合っている」という言葉を思い出し、私は歯を食いしばった。

彼が、私を「夜会で最も輝く星に」と望んでくれたのだ。その期待に、応えたい。その一心だけが、私を支えていた。


そして、あっという間に三日が過ぎ、運命の夜がやってきた。


髪を結い上げ、薄化粧を施し、そして『星降る夜』のドレスを身に纏う。

首には、『真実の石』のサファイアが、冷たく、そして力強く輝いていた。


部屋の姿見に映る自分の姿は、もはや下町の鑑定士アリアのものではなかった。

それは、氷の侯爵レイドンにエスコートされるにふさわしい、一夜限りの令嬢。


「準備は、できたか」


部屋の外から、侯爵の声がする。

私は、最後に一度、鏡の中の自分を見つめ、そして、深く息を吸った。


「はい。いつでも」


扉を開けると、そこには、王家の正式な礼装に身を包んだ、息を呑むほど美しい侯爵が立っていた。

彼は、私の姿を認めると、ゆっくりと片膝をつき、騎士の礼をとった。


その彼に向かって、私は小さな包みを一つ、そっと差し出した。


「侯爵様。……あの、これを」


彼の藍色の瞳が、わずかに戸惑いの色を映す。


「……これは?」

「以前、いただいたお菓子と…同じものです。あなた様も、いつもお疲れでしょうから。…ほんの、お礼の気持ちです」


彼は一瞬、虚を突かれたようにアリアを見つめ、やがて何も言わずにそれを受け取った。だが、その指先が微かにアリアの手に触れた瞬間、確かな温もりが彼女に伝わった。


そして、私の手を取り、その甲に、ごく軽く、唇を寄せる。


「今宵、君は私のただ一人のパートナーだ。……行こうか、アリア」


そのエスコートは、あまりにも自然で、そして優雅だった。

彼の差し出す手に、私は自らの手を重ねる。彼の手は、いつもより少しだけ、熱を帯びているように感じられた。


これから向かうのは、光と陰謀が渦巻く、王宮の舞踏会。

敵が待ち受ける戦場には違いない。


だが、不思議と、私の心は静かだった。

彼が隣にいる。その事実だけが、確かな温もりとなって、私の胸を満たしていた。


今宵、何が起ころうとも。

この手だけは、決して離されたくない。


私たちは、言葉を交わすことなく、ただ視線だけで頷き合うと、静かに王宮へと向かう馬車へと、その一歩を踏み出した。

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