第十一話:禁書との契約

禁書に指が触れた瞬間、私の意識は漆黒の闇へと引きずり込まれた。

もはや、遺物の記憶を「視る」という生易しいものではない。私という存在そのものが、書物に宿る巨大な「何か」に呑み込まれていく感覚。肉体も、感情も、記憶さえも、全てが溶けていく。


『……我を受け入れよ、小さき娘……』


頭の中に響く声は、もはや問いかけではなかった。

抗うことのできない、絶対的な支配者の声。これが、心を喰らうという禁書の呪い。私は、このまま自我を失い、この書物の一部と化すのだろうか。


(嫌だ……! 私は、まだ……)


消えゆく意識の片隅で、私は必死に叫んだ。

侯爵様に、伝えたいことがある。彼に、まだ礼を言えていない。あの不器用な優しさに、まだ応えられていない。


その時だった。

私の左手首にはめられた銀の腕輪――侯爵がくれた護符が、今までで最も強く、眩い光を放った。

温かい光が、私の全身を包み込む。それは、闇に差し込む一筋の光のように、私を呑み込もうとする禁書の力に抗い、かろうじて「アリア」という自我の輪郭を繋ぎ止めてくれた。


『……ほう。あの男の守護か。面白い……』


禁書の「声」に、初めて戸惑いの色が混じる。


『良かろう、娘よ。貴様の願い、聞き届けよう。我は、貴様に力を与える。だが、それは契約だ。対価は、いずれ支払ってもらうぞ……』


声と共に、膨大な知識と力が、私の魂に直接刻み込まれていく。

それは、遺物の力を引き出し、使役するための古代の呪術。そして、遺物の声に呑まれぬよう、自らの精神を守るための、強力な結界術だった。


「――はっ!」


私は、現実の世界へと引き戻された。

時間は、ほんの数秒しか経っていないようだ。目の前には、蹴破られた扉からなだれ込んできた庭師とメイドが、驚きの表情で私を見ている。


「な、なんだ、今の光は……?」

「怯むな! 小娘一人、捕えられんことなどあるか!」


庭師が、荒々しく私に掴みかかろうと手を伸ばす。

だが、その手が私に届くことはなかった。


「――『守護の壁(アイギス)』」


私が無意識に紡いだ言葉に応え、書庫に保管されていた古代の盾の遺物が、淡い光を放つ。すると、私の周囲に、見えない障壁が形成され、庭師の体を弾き飛ばした。


「ぐあっ!?」

「な、何をした!?」


驚愕する二人を前に、私は自らの変化に戸惑っていた。

頭の中に、自然と呪文が浮かんでくる。どうすれば、どの遺物の力を引き出せるのかが、手に取るように分かるのだ。これが、禁書との「契約」の力。


「二人とも、おやめなさい。あなたたちの雇い主は、もうすぐここへ来ます」

「何……?」

「侯爵閣下は、王宮へは向かわれていません。あなたたちを誘き出すための、罠です」


嘘だった。だが、ハッタリでも何でも、時間を稼がなければ。


私の言葉に、二人は明らかに動揺した。その隙を、私は見逃さない。


「――『束縛の鎖(グレイプニル)』」


次に私が視線を向けたのは、壁に飾られていた古い鉄の鎖。その遺物が、まるで生きているかのように蠢きだし、蛇のように伸びて、あっという間に庭師とメイドの体を縛り上げた。


「なっ、体が……動かん!」

「くそっ、これは一体どういうことだ!」


二人がもがくが、遺物の鎖はびくともしない。

私は、荒い息を吐きながら、その場にへたり込んだ。禁書の力を使った代償か、全身から力が抜けていくような、ひどい倦怠感に襲われる。


「……セバスチャン……リヒトさん……」


か細い声で助けを呼ぶ。

それに答えるかのように、屋敷の廊下の向こうから、複数の足音が駆け寄ってくるのが聞こえた。


「アリア様! ご無事ですか!」


書庫に飛び込んできたのは、剣を抜いたリヒトと、鬼の形相のセバスチャンだった。彼らは、縛り上げられた侵入者たちと、疲れ果てた私を見て、一瞬、言葉を失う。


「これは……いったい……」

「……説明は、後でします。とにかく、この者たちを……」


そこまで言ったところで、私の意識は、今度こそ完全に途切れた。


次に私が目を覚ました時、そこは、見慣れた侯爵邸の自室の天蓋付き寝台の上だった。

窓から差し込む光の角度から、丸一日以上眠っていたことが分かる。


「お目覚めになられましたか、アリア様」


寝台のそばには、セバスチャンが静かに控えていた。


「侯爵様は……」

「閣下は、昨夜のうちにお戻りになられました。侵入者二人は、リヒトが尋問しております」


セバスチャンの言葉に、私は安堵の息を漏らした。

やはり、侯爵が王宮へ向かったというのは、私のハッタリを真に受けたメイドの嘘だったのだ。


「……だが、安心はできませぬ」


セバスチャンの表情が、再び曇る。


「捕らえた二人は、頑なに口を割りませぬ。ただ、『あの方の命令だ』と繰り返すばかり。おそらく、口封じの呪いでもかけられているのでしょう」

「では、黒幕は……」

「分かりませぬ。ですが、閣下は、第二王子殿下が一枚噛んでいると見ておられるようです」


やはり、プラチド殿下。

彼の目的は、一体何なのか。私を誘拐し、どうするつもりだったのか。


「アリア様。閣下がお呼びです。書斎でお待ちかねです」

「……分かりました」


私は、まだ少し重い体を引きずるようにして、寝台から降りた。

そして、侯爵の待つ書斎へと向かう。


書斎の扉を開けると、そこにいたのは、レイドン侯爵一人だけだった。

彼は、机に肘をつき、何かを深く考え込んでいるようだった。


「……来たか」


私に気づくと、彼は顔を上げた。その藍色の瞳が、まっすぐに私を射抜く。


「昨夜のこと、リヒトから全て聞いた。……よく、やったな」


その声には、労いと共に、何か別の、複雑な感情が込められているように聞こえた。


「貴様、禁書に触れたな」

「……はい」

「体は何ともないのか。精神は? 記憶に混濁は?」


彼は、矢継ぎ早に私の状態を問う。その必死な様子に、私は彼がどれほど心配してくれていたのかを悟った。


「大丈夫です。あなたの腕輪が、私を守ってくれました。……そして、私は、禁書と『契約』をしました。遺物の力を借りる、術を」

「契約……だと?」


侯爵の目に、驚愕の色が浮かぶ。


「無茶なことを……。一歩間違えれば、貴様は……」

「ですが、この力がなければ、私は昨夜、捕らっていたでしょう。そして、この力があれば、あなたの『目』として、もっとお役に立てるはずです」


私は、彼の目をまっすぐに見つめ返した。もう、ただ守られるだけの、か弱い存在ではいたくない。


「私を、あなたの本当の『戦力』として、使ってください。侯爵様」


私の決意に、彼はしばらく黙り込んでいた。

そして、やがて、深く、長い息を吐いた。


「……分かった。だが、決して一人で抱え込むな。貴様の隣には、常に私がいることを忘れるな」

「はい」

「それから……」


彼は、少しだけ言い淀んだ後、続けた。


「……よく、生きていてくれた。アリア」


その言葉は、彼の魂からの、偽らざる本心だった。

その温かさに、私の胸の奥が、熱く、そして甘く満たされていくのを感じた。


私たちの、本当の契約が、今、始まったのだ。

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