第16話

◆夢には“匂い”がない――それはなぜか?


「夢の中で“匂い”を感じることは、ほとんどありません。それには、きちんとした脳の事情があるんです」

そう語るのは、脳神経科学者・城島明日香(じょうじまあすか)准教授


夢と匂い。この二つの言葉は、意外にも共存しない。

「夢の中で食べ物を見たり、音楽を聴いたりした経験はあっても、“匂いがした”と明確に覚えている夢はありますか?」と城島氏は問いかける。


その理由は、脳の仕組みにあるという。


「視覚や聴覚を処理する領域は、レム睡眠中にも比較的活発に働いているのですが、匂いをつかさどる“嗅皮質”や“嗅球”は、睡眠中に活動レベルが大きく下がる。結果として、夢に“匂い”の情報はほとんど入り込まないんです」


「でも、それでも夢の中で匂いを感じたという人もいますよね?」と筆者が尋ねると、彼女は笑いながら頷いた。


「ええ、確かに“感じた気がする”人はいます。ただそれは、視覚や記憶との連想による“再構成”であることが多い。実際に鼻で感じたわけではなく、“これはカレーだからカレーの匂いがしていたはず”と、視覚や意味に基づいて補完しているだけなんです」


 

つまり、「匂い」は夢に現れにくい感覚であり、逆に言えば――。

「匂いがある風景」は、夢ではないという証かもしれない。


異世界に転生した際は、頬をつねるのではなく──。

まず鼻を利かせてみるのも良いかもしれない。




文・構成:山田ソウタ(ライター/文化誌「リレキ」編集部)

撮影:斉藤明里




*   *   *   *   *   *   *   *   *   *




第16話 硫黄の匂いと獣の臭い


 ――ワオオオオォォン……!


 けたたましい遠吠えの大合唱に、俺は思わず布団の上で飛び起きた。


「うわっ……な、なんだ……!?」


 窓の外から、複数の犬か狼のような鳴き声が重なる。


 急いで身支度して、一階のロビーに下りると、宿の主人――狼族の獣人がぺこぺこと頭を下げてきた。


「すみません、起こしてしまいましたか? 習慣でつい……」


「だ、大丈夫です。慣れれば、きっと……」


 少し遅れてリラとシャムも降りてきた。


「おはよう、ハルト。街、行く」


 シャムはいつもの無表情でぽつりと言い、尻尾をひょいと動かして外を指さした。リラもまだ眠たげに目をこすりながら、小さく会釈する。


「びっくりしたよね……あの鳴き声。私、思わずシャムの部屋に行っちゃった……」


 俺たちは宿を出て、畑の間を縫うようにして城下町の中心部へと向かった。


 冷たい朝の空気の中、土の道にはすでに何人もの獣人たちが行き交っていた。

 


 


 木造の建物が並ぶ通りに出る。どれも二階建てで、街全体がやたら“背が高い”。


 見上げると、建物の屋上が板やロープ橋のようなもので繋がれていて、猫族や兎族の獣人たちがヒョイヒョイと移動している。


「……うわ、上、歩いてる」


 地上では、堂々たる体躯の熊族や猪族が歩いている。体長は2メートルを優に超えている。まるでサファリパークの中を歩いているような感覚だ。


 シャムが言う。


「この街、二階建て。小さい獣人、上。大きい獣人、下」


 俺は鞄から手帳を出してこの街の特徴を記録した。


 

手帳メモ①:街の構造


・木造二階建てが基本。


・屋上が“道”として機能。手すりなし。高所平気な種族向け。


・下層は大型獣人が主。玄関の高さ・扉の幅も広い。


・区画は直角に整っており、江戸の城下町に似た感じ。



 歩いていると、通りの角で、開店準備をする兎族の店主に出会った。


 看板には――人参の絵が描かれていた。


「獣人、文字、苦手。絵、分かりやすい」


 なるほど。たしかに通りの店々には、骨つき肉や果物の絵が看板代わりに描かれている。観光地の食べ歩きマップのようだ。


 店先で買い物をしていた栗鼠族の少女が言葉を発する。


「Karoto, du(人参、2)」


 シャムが説明してくれる。


「感情、獣人語、便利。物の名前、エスペラント、便利」



手帳メモ②:言語事情


・獣人語は“鳴き声”に聞こえるが、種族を超えて通じている(らしい)。


・名詞と数詞にはエスペラントが浸透。


・識字率は低く、看板は基本的に絵(下手)。



 昼が近づくと、通りに活気が出てきた。正午にもまた遠吠えが響くらしい。


 骨付きの生肉にかぶりつく犬族の青年、道ばたで野菜の葉を齧る兎族の母娘――焼く、煮る、炒めるという調理の文化は、ほとんど見られない。


 シャムがぽつりと口にする。


「料理、嫌い。肉、野菜、生。猫だけ、焼き魚、好き」


 俺とリラは、仕方なくシャムに頼んで野菜スティックを買ってもらった。


 カップから取り出したスティックを噛むと、パリッという音とともに、みずみずしい甘みが口に広がった。


「……おいしい。なんか、サラダなのにスイーツみたい」


「マヨもドレッシングもなしでイケる……」



手帳メモ③:食文化


・生食が基本(肉も野菜も)。


・冬は焚火で焼く事もあるらしい。


・野菜の味が非常に良い。種類も豊富。


・料理店はほぼ存在せず、食べ歩きが一般的。



「シャム、野菜スティックおかわり欲しいんだけど」


「これ、あげる。これ、見せる。食べ物、タダ」


 そう言って、シャムは懐から印籠のようなものを取り出して手渡してくれた。織田家(たぶん)の家紋がついている。


 俺はそれを手に、通りすがりの八百屋で買い物に挑戦する。


 野菜スティックのカップを指差して、「2」「2」と言いながら印籠を見せると、馬族の店主が快く頷いてくれた。


 隣で並んでいた鹿族の客は、似たような木札を差し出していた。やはり、家紋が入っている。


「働く。札、貰える。飯と交換」


「日用品とかは?」


「タダ。飯以外、全部、タダ」



手帳メモ④:配給制度と経済システム


・貨幣は流通していない。配給札のような物で食料と交換する。


・“札”は木札で、表に家紋の焼印。住民には労働に応じて支給される。


・日用品(布、石鹸、道具類など)は無料で支給されている模様。生活必需品に対して貨幣経済は介在しない。


・攘道党の幹部だけが持つ“印籠”を見せれば食料も無料らしい。


・経済体制としては、極めて完成された共産主義に近い。



 その後も、すれ違いざまに匂いを嗅いで挨拶する犬族の兄妹や、道端で鳩を捕まえて羽根をむしっている猫族など、この街には人間社会とは異なるリズムが確かに流れていた。


 リラがぽつりと呟く。


「……なんか、シンプルだけど、よくできてる気がする」


 俺も、なんとなく頷いた。


「うん、なんか、違う進化の仕方をした文明って感じ」




 市場を抜けた先に、ひときわ立派な屋敷が現れた。

 木造の門構えに、丁寧に整えられた玉砂利の敷かれた庭。どこかで見たような雰囲気だと思えば、セントリアの治安ギルド詰所にどこか似ている。和風建築の武家屋敷のようだ。


「ここ。おかしらの家」

 シャムが言うと、迷いなく引き戸を開けた。ノックなどしないらしい。


「おかしらー、ニャーォ! ニャーォ!」

 玄関から奥へと向かって、まるで猫の鳴き声のように呼びかける。冗談ではなく、ほんとうに猫の鳴き声だった。


 奥から足音がして、一人の男が姿を現す。

 おかしら――俺の予想では「丹羽長秀」。


「おー、ご苦労さん、シャム」

 彼はシャムの姿を見ると、緩んだ口元で出迎えた。


「ここから、おかしら、案内。わたし、ここいる」

 シャムはそう言い残すと、こちらを振り返ることもなく、すたすたと屋敷の二階へと上がっていった。

 二階からは、彼女とミケがにゃーにゃーと鳴き交わしている声が聞こえる。完全に猫の会話だった。


「お疲れでしょうが、もうしばらくお付き合いくだされ」

 おかしらは日本語でそう言い、俺たちは馬車に案内された。


 走り出してしばらく、風の向きが変わったのか、鼻をつくような異臭が漂ってきた。

 公衆トイレのような、あるいは家畜小屋のような――思わず顔をしかめる。


「なんですか? この臭い……」

 リラがたまらず口を開いた。


「おや、鼻が利きますな。儂の鼻はもう馬鹿になってしまっていて、何とも思いませんが」

 おかしらは冗談めかして笑い、窓の外をちらりと見た。


「“えんしょうば”の臭いでしょうな」


「そこに向かっているんですか?」リラがやや緊張した面持ちで尋ねる。


「いえいえ。今向かっているのは、鍛冶屋街ですよ。上様が二人に見て貰えと。ご希望であれば帰りに案内しますが……」


「いえ、遠慮しておきます……」

 リラは苦笑しながら顔をそらした。


手帳メモ⑤:この街の記憶は、まず“匂い”から始まる


硫黄、獣臭、そして“えんしょうば”の異臭。


文明の足音は、音より先に、鼻先をかすめてやってくる。

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