第5話

◆異世界は「夢の形式」を借りた現実の鏡か


異世界ファンタジーは、魔法や転生など、非現実的な要素に満ちている。一見それは現実から完全に乖離した“逃避”のように見える。だがその構造には、夢とよく似た特徴がある。


夢の中では、私たちは現実で抱えた不安や欲望、言葉にならなかった感情を、象徴的なかたちで見る。異世界物語も同じだ。社会に居場所がなかった者が「特別な力」を得て受け入れられたり、現実では果たせなかった恋や冒険が、物語の中で昇華される。


つまり異世界は、現実とは無関係な幻想ではなく、**現実で抑圧されたものが変形して現れる「心の鏡」**なのだ。

“異世界”という夢の形式を借りて、私たちはもう一度「本当の自分」と向き合おうとしているのかもしれない。


異世界とは、夢と同じように、現実の深層を映し出す舞台装置であり、現実と異世界がどこか地続きに感じられるのもそのせいかもしれない。




文・構成:山田ソウタ(ライター/文化誌「リレキ」編集部)

撮影:斉藤明里




*   *   *   *   *   *   *   *   *   *




第5話 血の匂いと檜の香り


「ついてきてください」


 それだけで、空気が凍った。

 少年の声には、有無を言わせぬ威圧があった。いや、声というより“存在”そのものに、逆らえない気配がある。


 俺はリラの手を取り、立ち上がる。

 彼女は目を固く閉じて、震えをこらえていた。


 襖の向こう、廊下の先。

 倒れ伏した男たちの死体。壁や床に飛び散った血と臓物が、異臭を放っている。


 その中を、沖田総司が何の感情もなく、ただ淡々と歩いていく。

 俺たちはその背中を追う。だんだら模様の羽織に、血がまだ滴っている。


 ──“誠”。

 その一文字が、やけに鮮烈だった。


 新選組。

 龍馬さんの……敵。


 どこへ連れていかれるんだ、俺たちは。


「警戒するのは仕方ないけど……」


 前を向いたまま、沖田がぽつりと呟く。声には笑みすら混じっていない。


「殺気、飛ばしたら斬るよ」


 冗談ではない。そう確信できる口調だった。


 建物を出ると、夜の空気が熱を帯びていた。

 遠く、空を赤く染める火の手。何箇所かで黒煙が上がっている。


「ザザ……ザザ……」


 何かの機械音。沖田が腰から取り出した小型の通信機から、声が聞こえた。


「池田屋、店主死亡を確認。客の男女二名を保護。これより搬送します。どうぞ──」


 まさか、トランシーバー?

 この世界に、そんなものがあるのか?


 いくつも疑問が浮かぶ中、沖田は器用に機械を扱いながら先を歩く。



 しばらくして見えてきたのは、道場の近く──和風の屋敷。木造二階建て、門構えもしっかりしている。門には“治安ギルド”の立て札。


 沖田は玄関の引き戸を開けると、中に向かって大声で叫んだ。


「永倉さーん! 二人、保護しましたー!」


 その声に応えるように、奥から杖を突いた老人が現れた。

 白髪混じりの長髪に、鋭く細められた目。その歩き方に衰えは見えるが、ただの老人ではない。


 ──永倉新八。


 また新選組か……。

 龍馬さんの、敵──。


「ご苦労さん。沖田はそのまま宗教ギルドの警備に向かえ。今いる隊員は見回りに回せ」


「はーい」


 軽い返事とともに、沖田は一瞬で姿を消すように走り去った。

 血に濡れた羽織のまま、風のように。


「……上がって」


 永倉の口調は柔らかいが、その視線は鋭い。

 俺たちは素直に応接室へと通された。


 テーブルの上に置かれた紅茶から、湯気が立ちのぼる。

 永倉が自ら注いでくれたものだが、リラはまだカップに触れられない。小さく震えている。


「災難だったね」


 静かに永倉が口を開く。


「ところで……どうして池田屋にいたんだい?」


 言葉は丁寧だが、その目はまっすぐだ。鋭く、探るような視線。

 敵意こそないものの、完全に信用しているわけではなさそうだった。


 龍馬さんの名前を出していいのか──

 一瞬迷った俺に代わって、リラがぽつりとつぶやいた。


「……日本語で、大丈夫です」


 それだけの言葉で、永倉の表情が緩んだ。


「ああ、なるほど。君たち、龍馬が最近世話してる転生者か」


 納得したように頷くと、懐から通信機を取り出し、スイッチを入れる。


「こちら永倉。龍馬、今どこに──」


「すまーーーんッ!」


 ドタバタと廊下を走ってきた足音の直後、勢いよく引き戸が開いた。

 そこにいたのは、息を切らせた龍馬さんだった。


「どこ行っとったんじゃお前は! お前の護衛対象だろ! なんで沖田が連れて来るんじゃ!」


 永倉が怒気もあらわに詰め寄る。

 龍馬は手を合わせて何度も頭を下げた。


「わりぃわりぃ、ちょっと目ぇ離した隙に、思いのほかごたごたしちょってのう……裏から戻ってみたら、もうおらんがじゃ!」


「緊急時に護衛対象から離れるとか、何考えてんだお前は!」


 年長者に怒られまくる龍馬さん。なのに、どこか軽いやりとりだ。

 まるで──家族のような空気。


 その温度に触れて、緊張の糸がぷつりと切れた。

 リラもようやく息を吐き、紅茶に口をつけた。


「街で何が起きてるんですか?」


 俺の問いに、永倉さんは表情を崩さず答えた。


「時計台と教会がいくつか、爆破された。攘道党の仕業じゃ」


「攘道党……?」


「日本を日本人の手に取り戻す、だとか言う過激派の集団じゃ」


「こんなやり方しちょったら、ただの逆賊ぜよ」


 龍馬さんが、ふうっと息を吐きながら呟く。


「とりあえず、今夜はここに泊まれ。外はまだ騒がしい」


「そいや、飯食い損ねたき、なんか食いもんくれや、おじき」


「はいよ」


 立ち上がろうとする永倉をリラが呼び止める。


「お風呂、借して貰えませんか?」


「はいよ。ついてきな」


 静かに閉じられた襖の向こうへ、足音が遠ざかっていった。


 残された俺は、ぼんやりと湯呑を手にしたまま、まだ胸の奥にこびりついた焦げた匂いと鉄の香りを追い払おうとしていた。


 


 ──そのまま数分。


 襖が開き、若い隊士らしき男が膳を運んでくる。


「こちら、夕餉です。お口に合うかはわかりませんが……」


「ありがとうございます」


 膳には素朴な和食が並んでいた。焼き魚に香の物、薄味の味噌汁と炊きたての米。どれも懐かしい匂いがする。けれど、食欲は正直ついてこなかった。


「腹が減ってはなんとやらぜよ。無理してでも、ちぃとは食うたほうがええ」


 龍馬がそう言って膳を差し出す。


 箸を取り、一口含む。


 味噌のやわらかな香りが、口いっぱいに広がった。

 湯気とともに、そのぬくもりがじんわりと胸の奥まで染みていく──そんな気がした。


「……あ、いい匂い……」


 ちょうどその時、風呂から戻ったリラが部屋に戻ってきた。


 浴衣姿で、髪は湿ったまま軽く結ばれている。


「……私、先に休んでるね」


「ああ。おやすみ」


 リラは俺の横を静かに通り過ぎ、湯気の余韻を残して襖の向こうへと消えていった。


 


 夕飯を食べ終えると、隊士が再び現れた。


「お風呂、ご案内します」


「……ありがとうございます」


 道場の奥、木造の廊下を渡った先の浴場は、意外にも広くて静かだった。


 湯気に包まれた檜風呂に身を沈めると、ようやく今日という一日が少しずつ遠ざかっていく気がした。


 張り詰めていた肩と背中がふっと緩む。


 緩んで初めて、肩に力が入っていた事に気付いた。

 


 風呂から上がると、薄暗い廊下にひとりの隊士が立っていた。


「寝室にご案内します。こちらへ」


「……はい」


 連れて行かれたのは、簡素な和室だった。畳の香りが落ち着く。行灯の灯りが、ゆらりと床に影を落としていた。


 襖を開けると──


「……部屋、一つでいいって、私が言ったの」


 先に布団に入っていたリラがそう呟いた。


「あ……そうなんだ……」


 戸惑いながらも頷き、濡れた髪を拭きつつ、手帳を取り出して今日の出来事を簡単に記す。


 言葉はなかなかまとまらなかった。けれど、何か残しておきたかった。


 行灯の火を消し、静かに布団へ入る。


「……手、繋いでもいい?」


 暗がりの中、リラの声が聞こえた。


 俺は何も言わず、手を伸ばした。


 柔らかな指先が触れる。冷たくて、かすかに震えていた──


 彼女が眠るまで見守ろう。


 そう思ったはずだった。


 けれど、ぬくもりに包まれながら、いつの間にか、俺も深い眠りへと沈んでいた。

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