第51話 賢者の意地
「あれ? この記憶でもダメなんて予想外だな」
驚きを混ぜた悪魔の声が、遠くから響く。瞼を震わせると、前方を険しい目つきで睨んでいたユークが一瞬目じりを安堵したように緩ませた。すぐにいつも通りの飄々とした様子に戻り、遅いぞとぼやかれる。
「お目覚めのキスでもご所望か、眠り姫」
「もう起きたから必要ないでしょう!」
「何だ、寝込みを襲ってほしかったのか……冗談だ、爪を立てるな」
どうやら私は、ユークの腕の中で昏睡していたらしい。そして悪魔化を防ぐべく、彼はあの日のように私に魔力を注いでいたようだった。現れたヴールとリデルから庇うようにして、杖を前に突き出している。軽い口ぶりと反して、その横顔は少しきつそうだった。
「悪いがこれ以上、お嬢さんに構う暇がない。一気にあの女の元へ送るぞ」
既に私のせいで魔力を消耗しているのに、更に悪魔二人の相手をするつもりなのか。大丈夫なのかと尋ねようとして、すぐさまやめる。私がいても足手まといだ。彼が持ちこたえている内にルーリィを確保する方が、余程役に立てる。
それに、心配なんて意味がない。彼は優秀な賢者だ。この程度のピンチは、簡単に切り抜けられる。そんな事を言って、私の前では弱った姿を見せたがらないだろう。
ふと、リリアならどうするのかと思った。彼と結ばれる可能性もある彼女なら、彼の弱みを引き出していただろうか。私には無理だ。虚勢だろうと胸を張って前を向き続ける生き方を選んできた。だから彼の自信に、同じだけの威勢で返すだけだ。
「精々私達が戻ってくる時に、地べたに這い蹲った賢者様と対面しない事を祈っていますわ」
「そっちこそ、仲直りできなかったと泣きべそをかかないことだな」
互いに挑発じみた言葉を交わし合う。それで十分だった。少なくとも私は、この男に無様な姿を晒したくないと、より気合が入ったから。どうにか自分の足で立ち上がり、私を護っていた腕から距離を取る。賢者の細長い指先が、空中に模様を描く。滑らかに動く爪先が、何かを思い出したように突然停止した。
「胸糞悪かったからだ」
「え?」
「何故あのクラスにわざわざ災厄の娘を招いたか、だ」
ただの余興だと以前明かしていた彼は、驚いて棒立ちになる私を見て、ふっと笑った。悪魔達の攻撃を魔法で防ぎつつ、ポケットから悠長にも煙草を取り出す。ひとりでに火が付いたそれを咥え、ユークは眼差しを和らげた。
「どう足掻いても死ぬ運命だとか既定路線なんて、趣味じゃない。これでもハッピーエンド至上主義なんでね」
異界の空気を、清涼な香りが束の間かき消す。誰もいない教室で二人、会話をした時を思い出した。あの時から、私は、この香りが……彼といる時の空気が、嫌いではなかった、のかもしれない。
「頑張れよ、クロリンデ。今度こそ、ハッピーエンドを掴んでこい」
意地悪な彼にしては珍しくストレートな激励を置き土産に、指が空中を弾く。体中に衝撃が走り、見えない力によって無理矢理何処かへ運ばれていく。
言い逃げだなんて、狡い男。私だって……彼が素直になってくれた分、少しくらいは返したかったのに。次に会ったらまず文句を言ってやるわ。文句の中身にまで思考を巡らせる時間は、与えられなかった。ほんの数秒で、目的地に着いたのだから。
濁った空に混ざる、小さな丸い穴。中から覗くのは薄水色の空と異国めいた建物の風景。垣間見える景色を背にして、探し求めていた人物がゆっくりと振り向いた。
※※※
先ほどまで腕の中に留まっていた少女の温もりが、転移魔法の余波と共に抜け落ちてゆく。ふらつきそうになった足を誤魔化し、ユークは対峙する悪魔へ不敵な笑みを向けた。
「待たせて悪いな。二人まとめて捻ってやる」
「ふん、人間如きと真面目に相対する必要などなかろう」
ヴールが片手を振り上げると、どこからともなく配下の羊達が現れる。入れ替えに姿をくらまそうとするのを食い止めるべく、ユークは杖の先端で地面を突き刺した。赤黒い空間に、白い境界が刻まれてゆく。簡易的な結界だ。自分が死ぬまで、暫く誰もこの陣から出られないというだけの。
「キミって虚勢を張るのが大好きだね。どの世界でもボク達二人を相手に、時間稼ぎが精一杯だったくせにさ」
「それで十分だ。あのお嬢さんなら、とっととあの女を引きずってくるさ」
「あはは、あの子じゃ所詮空回りするか、逆に負かされるかのどちらかだよ」
煙草の縁を強く噛んでから、煙を吐き出す。散々別世界を眺めてきたのだ。リデルがどんな風にクロリンデと絡んでいたかも、十分把握している。リデルはただ只管に甘やかし、可愛がり、優しくする。まるでお気に入りのペットを構うように。
「つまりお嬢さんはお前にただ愛でられるしか能のない、愛玩動物に過ぎないと」
「可愛いじゃないか。ボクがいないと生きていけないって、べったりくっついてくれるんだよ。リリアが絡むと暴走しがちな所も可愛かったけど、そのせいで大抵死んじゃうのはどうにかしてあげたかったな」
ろくでもねえ、と内心毒づく。リデルはクロリンデを対等な存在としては見ていない。リリアと結ばれる時は真っ当な恋愛感情を抱いているようなのにその差は何なのかと、突っ込みたくなるほどであった。
「……お嬢さんはどうにも、男運がないな」
「そうだね。キミみたいな傲慢不遜男如きに騙されちゃうし」
悪口を否定する気は起きなかった。自覚があったからこそ、最初は自分以外の男と仲良くさせようと思っていたのだから。クロリンデは育った環境のせいで期待をするのが苦手で、求めるレベルが低すぎる。別世界で散々殺されている影響か、愛を切望しながら容易に信じられない。それでいて、悪魔堕ちの原因の一つとも言える父親への感情は拗らせたまま。唯一どの世界でも裏切らないリデルには判断が甘くなり盲信しがちな面も厄介だった。
既視感ばかりの世界に対する意趣返しも、多少はあった。もっとまともな別の誰かが勝手に救ってくれるだろうと、特専クラスの面々と関わらせた。けれど別の世界との乖離が大きくなるばかりで、他の連中もどちらかと言えば、あのリリアと関わってばかり。仕方がないと自ら悪魔の行動を参考にしつつも上手くいかず、結局彼女を救うどころか、妙な関係になってしまった気がする。
死なないように適当に制御してやるか程度の軽い気持ちだったのに、どうして自分の方が、あんな女に振り回されているのか。未知の奥底を全て暴いてしまえば興味も薄れるだろうと思ったのに、胸の中で隠れて泣かれた時、達成感とは別に、もっと暴きたいと願う底なしの感情も芽生えていて。
「俺はお前のようなヘマはしない。クロリンデは俺が落とす。悪魔に堕ちる可能性は全て消してやるから、すっぱり諦めて泣き寝入りでもすることだな」
「それで飽きたらポイ捨てするつもり? キミって悪魔より薄情だね」
「捨てるといつ誰が言った。元主人の遠吠えが喧しいぞ」
火花を散らせる男二人に、呆気に取られていたヴールがようやく我に返る。空気を読まず間に割り込み、声を上げて主導権を握ろうとした。
「おい、魔界の運命を握る間際だというのに、たかが人間の女一人如きで何を」
褐色の頬すれすれを、魔法の閃光が掠めた。敵どころか味方にまで殺気を向けられ、つい怯む。配下の羊が数体、ぷるぷると震えながら主人にしがみ付いた。
「部外者は黙っていろ」
「ヴールは術の維持に専念していてよ。間男なんてボク一人で十分だからさ」
完全に蚊帳の外となったヴールは、体中にくっついた羊と共に後ずさる。ひとまずリデルが劣勢になるまでは様子見に留めるつもりなのだろう。或いは痴話喧嘩に巻き込まれたくないだけかもしれないが。
予定外の方向に転んだお陰で、一対一となった。これなら稼げる時間も増えそうだと、短くなった煙草を指でつまむ。口だけは強気でも、既に魔力の消耗が激しすぎる。とはいえ、クロリンデが戻ってくるまでは持ち堪える気満々だった。自分以上に強がりな娘を支えてやるつもりなら、これ位できて当然なのだから。
「かかってこい、ストーカー悪魔。お望み通り遊んでやろう」
賢者は余裕綽々に宣言する。灰燼が燃え尽き、狂風と化して白銀の空間を埋め尽くした。
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