第32話 夢から醒めた先
賑やかな二人が医務室を出ると、私は無言で立ち上がり、立ち入り禁止の紙の前に立った。意を決してから、ゆっくりとカーテンに触れる。ベッドで目を閉じている長髪の男の姿に、息を呑んだ。
肝試しの時は若い容姿だったのに、どうして大人の姿で寝ているのか。ヒノが私に見張らせようとしたのは、これが理由だったのかしら。全員を運んだルーリィが大人の先生に気付いていないとヒノが推測しているという事は、先生の変身が解けたのは医務室のベッドに担ぎ込まれ、ヒノが起きてからなのかしら。ややこしいわね。
カーテンを戻して外からの視界を遮り、近くの椅子に座る。夏休みの校舎は、とても静かだ。学生の喧騒が消え、今聞こえるのは彼の落ち着いた寝息だけだった。ヒノが言っていた通り、寝顔は疲労を色濃く刻んでいるようだった。ルーリィはチートだからと軽く評価していたけれど、あの乱入に何の苦労もなかったとは思えない。
無理をしてまで、駆けつけてくれたのだろうか。
私が、呼んだから。
彼の頬にかかっている髪を払いのけようとしたものの、恥ずかしくなりやめる。宙を彷徨う指は、行き所を失くしてふらふらと腕近くのシーツへ着地した。ほんの僅か服を掴んで、誰にも聞こえないように、小さな、小さな呟きを漏らした。
「……ありがとう、ユーク」
嬉しかった、なんて、寝ている相手だろうと、言えなくて。顔を赤くして俯き羞恥に耐える。助けられた礼を言うのは当然。以前だって普通に告げられた。それなのに今は、こんなにも苦しい。きっと、本心をそのまま伝えようとしているから。本音を明かして誰かに期待した分、返してもらえないのがどれだけ辛いか知っているから。
「信じさせてくれて……ありがとう」
「お礼を言うのがそこなのか」
ぼやき声を耳が拾い、顔を上げる。額に手を当てたユークは、顔をしかめているようだった。
「まさか、体調が優れないの!?」
「不意打ち食らって驚いただけだ、クソ……」
目元を隠すように掌で覆い隠し、大きなため息をつかれる。不意打ち。言葉が意味するところを察し、熱が身体を這いあがってくる。指を素早く離し、胸元でぎゅっと握って身を縮こませた。
「あ、貴方いつから」
「『クロリンデさまー』からだ」
最初からじゃないの。最悪、最悪すぎるわ、あんな情けない台詞なんて、聞かせるつもりなかったのに。取り繕うべく何度も咳をしてから、改めて背筋を伸ばして頭を下げた。
「ノーレス先生、私とヒノを助けて下さり、ありがとうございました」
「礼を言い直す必要があったか?」
「先程のは、貴族の娘としては少々不躾でしたもの」
「貴族の娘としては、ねえ……俺は最初の方が好みだが」
「貴方の好みはこの際関係ないでしょう」
本当にいい加減な先生だわ。私が呆れていると、先生は半身を起こして大きく伸びをする。もう少し休んでおくかと呟いた姿が揺らぎ、若い見た目へと変わった。
「念の為、医務室の鍵を閉めておいてくれませんか」
幼い見た目の時は丁寧に接するというルールでもあるのかしら、この先生。本来の性格と異なる演技をするための、気分的なものかもしれない。
「クロリンデさん、これからも何かあれば、気軽に先生や皆を頼るんですよ」
『ボクを頼って』
響いた幻聴に、唇を噛む。そんなの……どうすればいいか、分からない。扉に手をかけ、カーテンの向こう側へと笑顔を作った。
「お気遣いありがとうございます、先生。頼りにしていますわ」
嘘つけ、と。微かに拾った声は、聞こえなかったことにした。
部屋に戻った私は、早速テストを行った。そしてヒノがルーリィ以上に悪成績だと発覚し、休み中はつきっきりで二人の勉強の特訓を行ったのだった。
※※※
赤一色の空、錆びついた空気。魔界ではそれが当たり前の光景だ。昼夜の存在しない宙にふわふわと浮いて寝転がり、リデルは敗北した相方を見下ろす。
「羽虫の処分は一人で余裕じゃなかったっけ?」
「何もしていない癖に、偉そうに指摘をするな」
「見物してろって言ったのはキミじゃないか」
冷静な突っ込みに、ヴールが形の整った眉をぴくぴくと動かす。褐色の首周りには、薄っすらと赤い痕がこびり付いていた。部下の羊達は心配そうにしながら、絆創膏を準備している。夢の中でどれだけ傷つこうと、現実の身体には反映されない。だというのに、どうやらあの青年が斬りつけた首が痛んでいるらしい。空間に作用できる白魔法の素質を持つ者が相手だったからかと、リデルは推測していた。
「ボクが魔界と人間界を一時的に繋ぎさえすれば、後は一人で十分だって、最初から調子に乗っていたじゃないか。クロリンデを誘う時間すら稼いでもらえなかったなんて、ガッカリだなあ」
「黙れ、混ざりもの如きが調子に乗るな!」
罵声を受け、金の瞳がすうっと細められる。視線だけを冷ややかによこし、リデルはにこりと笑った。
「確かにボクはキミ達と違って半端者だ。でも忘れてない? ボクのおかげで人間界に侵攻するチャンスを想定よりずっと早く得られたし──」
リデルは指を動かし、空を切る。爪の先にある悪魔の首を、刎ねるように。
「その気になれば、ボクの力でキミを死ぬまで閉じ込めてあげられるよ」
あからさまな挑発に、ヴールは歯軋りするも乗ってこなかった。見下している半端者が、その実言葉通りの力を有していると、知っているからだ。
「まあデモンストレーションは成功したから、今回は上手くいった方だよね。火種も蒔いておいたし」
「あれがか? また予定にない行動を取りおって……」
「うまく進行していない計画の穴埋めだとでも思ってよ」
それに、と赤髪の悪魔は笑みをこぼす。舞台のクライマックスを待ち焦がれる子供のように、目を輝かせて。
「シナリオにない展開の方が、面白いだろう?」
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