第30話 サブ悪魔ヴール・グール
「頼りない婚約者なんか捨てて、ボクの所にくればいいのに」
嘲るような声が、廊下の奥から響く。二人の悪魔が宙に浮いて、こちらを眺めていた。リデルはいつもの制服姿に加え、頭部の左右から小さな三角形の角が生えている。腰からは尻尾も出ているし、学園に現れる時は、人間の姿に偽装していたのね。
ちょっと待って、ルーリィが言っていた場所にまだ着いていないのだけれど。困惑する思考を見透かしたように、リデルは甘い笑みを向けてきた。
「キミがあんまり他の男と仲良くおしゃべりしてるから、待ちきれなくなっちゃった」
「利用価値は認めるが、そんな人間崩れのどこがいいのやら」
もう一人の悪魔が、赤い瞳を細めて低い声でぼやく。リデルよりも大きく立派な、ヤギのような角。褐色の肌に、紫色の髪。そして露出度が控えめの、質のよさそうなスーツを着ていた。推定悪魔令嬢の服はやけにはだけていたから、魔界は露出狂文化なのかと思っていたわ。
「ヴール、あまり冷たい事言わないの」
連れの悪魔に諭され、褐色の悪魔は不満たっぷりと言わんばかりに鼻を鳴らして腕を組む。ヴール・グール。ルーリィが言っていた非攻略キャラね。性格は横暴で残忍、人間を見下していて、ルートによっては味方になった私を殺すとか。異常空間は彼の力によるもので、ヴールを倒すか、空間自体を白魔法で破壊すればクリア。空間まで破壊できるなんて、白魔法って何でもありなのかしら。
「まあいい、行くぞ小娘。折角吾輩がこうして迎えに来てやったのだ、身に余る光栄に感謝しろ」
悪魔は嫌そうな顔で私に手を差し伸べてきた。待って、この状況で勧誘されると、いつも以上に厄介だわ。
「迎え?」
「何のことかしら私にはさっぱり分かりませんわ人違いじゃないかしら!」
ほら、ヒノが食いついちゃったじゃないの。張り付けた笑顔で一息に弁明するも、リデルはにこっと純粋そうな笑みでとどめを刺してきた。
「クロリンデ。キミは魔界からの寵愛をたっぷり受けた、災厄の娘だよ」
パチンと彼が指を鳴らすと同時に窓が光を帯びた。透明な板は突如、非現実を映す鏡と化す。悪魔に成り果てた私が、白日の下にさらされた。淫らなドレス姿の私が、私を見て口の端を釣り上げる。女は幸せそうに笑い、鏡の中のリデルと親しげに腕を絡ませ合った。
「ほら、ボクとはよくこうして、仲良くしていただろう?」
「な……な……な……」
唖然としたあまり、唇をわなわなと震わせる。これは怯えではなく、怒りだ。未婚の貴族令嬢ともあろう者が、胸を押し付けるようにして身体を男へ寄せているだなんて、今すぐ埋めて闇に葬ってしまいたい。
「そんな破廉恥な事、夫でもない男にするわけがないでしょう!?」
羞恥で染まった頬を掠めるようにして、背後から殺気が通り抜ける。前に躍り出たヒノが、リデルの喉元へ短刀を押し当てていた。冷たい刃が喉を掻き切る寸前、横から毛玉に体当たりされて軌道が逸れる。
「助かったよ、ヴール。キミってやっぱり、頼りになるね」
「貴様は見物でもしていろ。羽虫の処分如き、吾輩一人で造作もない」
冷酷な言葉に同意するように、黒い毛玉が何もない空間から現れる。小さな蹄が生えたそれにはぬいぐるみのような目や口、羊のような角がついている。というかほぼ羊だった。ふわふわもこもこの手足が短い羊が、頑張って目つきを悪くして威嚇しつつ、主人の周りをぽんぽんと飛び跳ねている。この悪魔、性格のわりに能力がやけに可愛い。ギャップ萌えです、とルーリィが力説していたのを思い出すわ。
羊達が元気よく飛び掛かってくる。顔面に迫ったそれをキャッチしてボールのように放り投げ、安心しろよとヒノは言った。
「今のあんたは、殺さない」
ヒノはくるりと短刀を器用に回転させ、逆手に持ち変える。私の前に陣取る彼は、いつも通り真っすぐな口調で言った。
「俺は、前を向いていようと頑張ってるクロリンデを、信じるよ」
無条件にお世辞でも嘘でもないと確信してしまえる、直球な本心からの信頼。そんなものを贈られたのは初めてで、どう取り繕って返答すればいいのか、分からなくなる。心が読める彼には、それでも十分だったのかもしれない。絶句している私に、彼は分かってるとでも伝えるように頷いた。
「ふーん、怪我した状態でヴールに勝てると思ってるの?」
もう一人に任せて後退したリデルが、試すような視線を投げかける。制服の肘袖からゆっくりと赤い雫が垂れ、ぽたりと床にシミを作った。
「貴方、その傷……!」
「気にすんなって。こうでもしないと眠くて動けそうになかったんだ」
なんということ。充満する錆びた臭いや視界の悪さで気付かなかったけれど、眠気に抗う為に、彼が自傷していたなんて。私が傍にいたから、余計に無茶をしてでも起きていようとしたのかしら。私が、リリアのように白魔法を使えないせいで。
「あんたのせいじゃないよ」
ヒノは気を紛らわせるように、血で濡れていない方の手をひらひらと振った。この程度の痛みには慣れてると言ってのける辺り、彼の仕事はとてもハードらしい。
「俺は分かっててこの方法を取ったんだ。あんたに責任を擦り付ける気はないし後悔もしてない」
大きな背中だ、と思った。彼がどんな理由で、どのような方法でその手を血に染めているのか、リリアやルーリィではない私には計り知れない。ただ一つ分かるのは、責務を自ら選択した者だけが背負う、覚悟があった。
ヒノは元凶の悪魔目掛けて突進する。悪魔は宙に浮いて距離を取りつつ、手下の羊をしこたま敵へ向かわせた。邪魔な毛玉が多すぎて、ヒノは懐へ潜り込めずにいる。数で攻めてタコ殴りなんて反則じゃないの。流石悪魔、やる事が汚いわ。
「さて、手負いの番犬がどのくらいもつかな?」
クスクスと神経を逆なでる声が、思考を揺さぶる。窓の裏で仲睦まじく絡み合っている悪魔が、両の頬を釣り上げた。
「キミがボクを選んでくれるなら、他の連中は見逃してあげる」
他人を人質にする卑怯戦法を取るんじゃないわよこの悪魔。でもこのままだとジリ貧なのは事実。ヒノに任せて、ただ待っているだけでいいのかしら。私にも、出来る事があるはず。勿論、悪魔堕ちする以外の選択肢で。
例えば、空き教室から何か取ってくる。注意を逸らせるものがあるかもしれないと後ろを振り向くも、通り過ぎてきた空き教室への扉は全て消失していた。こちらの狙いは読まれていたのだろう、この手は使えない。なら、ヒノを庇って肉壁になる。彼らの素早い動きに割り込むなんて無理だ。それに必要なのは、盾よりもあの羊の群れをどうにかできる火力ではないだろうか。いっそ誰でもいいから、助けを呼ぶ。……希望的観測ね。ルーリィの姿も見当たらないし、私の声なんて、誰にも。
『いるぜ、ここにな!』
偶然か必然か、私の声に応えてくれた一人が、目の前で戦っている。たった一人だけれど、声は確かに届いた。なら、もう一人だけなら、信じても、いいのだろうか。あの人を、信じていいの?
「助けて、ユーク……っ」
絞り出した声の弱弱しさに、眉を顰める。ああ、とても不快な気分だわ。無力で哀れな小娘みたいに、誰かに期待するなんて。そんなのは無意味だって、散々理解させられてきたのに。
ぱきり、と。陶器が罅割れるのに似た音が、空間から響く。亀裂が無数に走った宙が、大きく裂けて。最初に目に入ったのは、風にたなびく深緑色の長髪だった。
「悪魔ども、こいつらは返してもらうぞ!」
賢者が杖を大きく掲げ、空間を照らす。赤い領域が徐々に白へ塗りつぶされ、羊達がいやいやをするようにして消えてゆく。邪魔な毛玉が量を減らした隙を狙い、ヒノは大きく跳躍してヤギ角の悪魔へ飛び掛かった。布を切断するような軽さで首が落とされ、胴体からゆっくりと離れてゆく。グロテスクな切断面から血は吹き出ず、首だけとなった悪魔はほう、と苦々しげに顔を歪ませた。
「羽虫風情が、そこそこやるようだな」
その言葉を最後に、景色が大きくゆがむ。
クロリンデ、と。白に溶けてゆく視界の先で、誰かが私を呼んで手を伸ばした。
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