第8話 蛭子(ヒルコ)
綾乃が召喚した
それは、人に原初の恐怖を呼び起こさせる咆哮。
常人ならば、それだけで地に平伏し、生を諦める、断罪の轟き。
それほどの
事実、綾乃も禍継鬼を自ら呼び寄せた事は、今まで片手の指で数える程だった。
鬼が自発的に現れたり、体の一部のみを顕現させるのならば使う呪力は抑えられる。
しかし、術者が自ら呼び出し完全に使役するには、かなりの寿命を捧げる必要があったからだ。
例え、生贄という媒体があろうとも術者の負担は大きかった。
綾乃の口の端から、血が一筋、零れ落ちる。
それを見たアキラが、ソファーから立ち上がり綾乃を労わるように声を掛ける。
「大丈夫ですか?あまり無理をなさらない方がいいですよ」
綾乃はそれを無視して、
「来い小僧……雪乃が欲しければな」
100㎡を超える屋上庭園で、綾乃が鬼を
吹きすさぶ風が綾乃の髪を巻き上げる。
その顔は、夜の光の中で妖艶さを増していた。
まるで燃え尽きる
「それ以上無理すると死んじゃいますよ、綾乃さん」
そう言って、アキラは靴下で庭へと踏み込む。
「……綾乃、綾乃と……さっきから……馴れ馴れしいんだよ!
目を血走らせながら叫ぶと同時に鬼が動いた。
その巨体からは想像できない速度で間合いを詰め、異形の腕が唸りを上げてアキラを狙う。
——直撃。
しかし、肉片として弾け散るはずの身体は、原型を留めたままその場に立っていた。
それを見た綾乃は、顔を歪ませながら、全力で呪力を鬼へ注ぎ叫ぶ。
「その餓鬼を殺せぇー!」
鬼は
その余波を受けコンクリートが捲り上がり、破片が辺りに散り、轟音が屋上に響き渡る。
「危ないですって」
アキラは、軽々とその両腕を掴み、鬼の動きを止めた。
自身の数倍の太さはあるだろう、その腕を掴んだまま、困ったように眉を下げる。
「今だぁぁ!
両目からも血を流し始めた綾乃の叫びに、鬼が呼応する。
その耳まで裂けた口を大きく開き、そこに呪力を凝縮していく。
鬼の口内に形成されていく黒い球体。
禍継鬼の体に刻まれた裂け目の脈動が激しさを増した。
「それはダメだよ」
アキラが軽い感じでそう告げると、鬼が一切の動きを止めた。
それと共に、黒い塊も消失する。
「これを撃ってたら、お
動かなくなった禍継鬼を横目に、アキラは綾乃の元へゆっくりと歩いて行く。
「誰が……お前の……お義母さんだァ!」
綾乃は、襟を引き裂くようにして着物から腕を抜き、上半身をはだけさせる。
サラシを胸に巻いたその体には、鬼を模した和彫りが全面に入っていた。
自身の傷の醜さを隠すように、全身に上書きをした
それは、綾乃にとって過去を塗りつぶし、紫星を壊すことを誓った刻印だった。
自身の血を混ぜた染料で描かれた刺青は、呪力を込めると常人を超える力を出せる呪術が込められていた。
しかし、その力の行使は、寿命を確実に削る。
動かなくなった鬼を見限り、懐に入れていた呪術用の短刀を引き抜くと、鞘をアキラに投げつける。
そして、そのまま腰溜めに構え突進する。
「キィヤァァァ!!!」
絶叫し、その命を自ら刈り取るために、尋常ではない速度を出してアキラへ迫る。
顔中の穴から血を流し、髪を張り付けたその表情は、鬼女そのものだった。
アキラは両手を広げ、それを静かに受け止める。
その短刀は、正確にアキラの腹部へ埋め込まれた。
肉を
「死ねよぅィヤァァァ!!」
叫びと共に、何度も繰り返しアキラの腹に短刀を突き刺す。
そして、砕けんばかりに歯を食いしばり、最後に腹を
短刀を腹から引き抜くと、握っていた
綾乃は、全身を返り血で真っ赤に染めて、息を荒くしながら、天を仰ぐ。
『終わった』
頭によぎったのは雪乃の笑顔。
きっともう見る事は無いだろう、その『大切』を思い出す。
自然と零れた涙で、頬に付いた血を洗い流した。
気を抜いた瞬間、大量の血を吐き出し、そのまま崩れ落ちる。
——それをアキラが両手で支えた。
綾乃は目を見開き、震える唇で呟く。
「な……んで……」
腹部に視線を向けると、そこにはズタズタに切り裂かれたシャツと、綺麗に割れた、傷ひとつ無い腹筋が見えた。
——やはり自分の願いは叶わないのだな。
狂気から覚めた綾乃は、ぼんやりとそう思った。
息が浅くなる。
もうすぐ私は死ぬのだろう。
そう思った時、最後にどうしてもやり遂げないといけない事が頭をよぎる。
そして、そのままアキラの腕に
「頼む……お願いですから……後生ですから……雪乃に子供を産ませないで……下さい」
たった一つでいいです、これだけ叶えば他は何も望みません。
神様、慈悲を下さい。
それは我が子の為にする、母の神聖な祈りだった。
そこには確かに愛情があったのだ。
何者にも愛されなかった綾乃の人生の中で、雪乃だけが愛をくれていた。
命が尽きようとしてる今、それに報いてあげたかった。
私の、世界で唯一の『大切』を壊さないで下さい。
命を奪おうとした相手に、恥も外聞も投げ捨てて、涙と鼻水まみれで必死に縋り頼みこむ。
しかし、その願いはやはり叶わない。
「——それは無理ですね、僕も人生が掛かってるので」
アキラは申し訳無さそうに、それでも切り捨てる。
綾乃の希望は無惨にも潰えた。
アキラを掴む手から力が抜ける。
「そもそも何で子供を作ってはダメなのですか?」
そんな素朴な疑問を、アキラは問う。
綾乃は、虚になった目でぼんやりと答えた。
「……紫星の呪いから……あの子を……救うため」
綾乃は、息を吸うのもやっとな状態で囁く。
喉からはヒューという風切り音が小さく聞こえていた。
「なら、呪いを解けばオッケーという事ですか?」
それを聞いて、小さく頷く。
それが綾乃の最後の力だった。
目の光が無くなり、喉の風切り音が止んだ。
「あ、まずい、死んだ」
アキラは慌てて、綾乃を抱きかかえ、動かないままの禍継鬼の元へと連れて行き、二人の手を繋がせる。
そして、繋いだ手の上に自分の手を重ね光を発した。
すると、禍継鬼がゆっくりと縮んでいく。
その大きさが幼児くらいになった時、綾乃が急に
「危なかった、心臓止まってましたよ」
激しく咳を繰り返した後、綾乃は自分の体の軽さを自覚する。
「……なにが……おきた?」
体を自力で起こし、小さくなった鬼を見る。
「この鬼に、アナタが今まで注いだ呪力と寿命を返して貰ったんですよ」
アキラがホッとした表情で説明する。
「そんな事——」
出来るわけが無い、と口から出かかったが、事実自分は生き返っている。
もしかしてこの少年は、自分が思っている以上の呪術師なのかもしれない。
綾乃は、彼が想像を絶する程の力を持っている事にあらためて気付く。
そして、先ほど死に
「……おい!出来るのか!?もしかして呪いを解けるのか!?」
再度アキラの腕を掴み、必死に聞く。
「出来ますよ」
あまりにもアッサリと告げられたその答えに、綾乃は立っていられないほど力が抜ける。
「鬼の呪いを解けば、雪乃さんと子作りしても良いのですね?」
綾乃は地面に膝を突きながら、呆然としていた。
こんなに簡単に、望みが叶っても良いのだろうか?
まるで夢の中にいるような気分だった。
しかし、どうせ夢なら叶えて貰うのも良いだろう。
「ああ……呪いさえ解いてくれれば、後は当人同士好きにしろ」
それを聞いて、アキラは爽やかに笑った。
「ありがとうございます!それでは解きましょう」
そう言うと、アキラは夜空を見上げた。
「ひるちゃーん!」
アキラの大声にそれは答えた。
空が大きく割れる。
そこから巨大な門が現れた。
それは全長1キロほどありそうな漆黒の門。
視界の星空を消し去り、空中で斜めに鎮座した。
そして開く。
ゆっくりと両側に、低く軋むような音を立てながら。
開いた門の隙間から、強烈な腐臭と濃厚な瘴気が漏れ出す。
綾乃は全身が震えていた。
この門は開いてはいけない、これは世界を破滅させる物だ。
一流の呪術師の直感が、最大限の警報を鳴らし続ける。
門の隙間から覗く影。
おそらくは邪神の
それが、今、
こちらに向けて、空中で斜めにそびえる門の扉が、屋上の地面スレスレを擦るように開いた。
そして、邪神の姿が暴かれる。
直径1キロ以上もある巨大な門ですら、その頭しか通らないほどの異形の巨人。
桃色の皮膚は
地面に
顔と言ってもそこには何も無く、目鼻耳の名残りだろう、ただ浅い窪みのみがある。
口だけが穴を開け、暗い深淵を覗かせていた。
その穴から音が漏れ出る。
「パァバァァウァー!!!」
声とも叫びともつかない音を夜空に響かせた。
「ひるちゃん、久しぶり!」
門から必死に首を伸ばし、顔を近付ける邪神に対して、アキラが嬉しそうに微笑む。
「ァバィバィダパァダダアァー!」
まるでアキラを喰い散らかそうとする様に、口を激しく動かし頭部を振り乱す。
門が軋みながら、首輪の様にその巨体を押し留めている。
頭を揺するたびに、その爛れ腐った肉片が周囲に撒き散らされた。
綾乃のすぐそばにもそれが飛んできて、短い悲鳴と共に慌てて避ける。
「ガァレェエェ?」
アキラの他に人間がいる事に気付き、何もないその眼窩で、綾乃を視る邪神。
そして、数百メートルはあるだろうその頭部が、綾乃に近寄る。
強烈な腐臭と瘴気のせいで、気絶することすら許されない中、綾乃は腰を抜かしたまま腕を使い全力で後ずさる。
「ひるちゃんにお願いがあるんだけど、いいかな?」
「ダバァニィェエ?」
「この人の娘さんと繋がってる、鬼との紐をほどいて欲しいんだ」
「ボォッグゥェェ!」
そう返事をすると、邪神は門から頭を引き、帰って行く。
「なに……あれ……」
着物が
「僕が三千年程前に作った子供ですよ」
そのまるで理解の出来ない答えに、綾乃はアキラの深度をあらためて知る。
「ちなみに、アナタの呪いはそのままで良いのですか?どうも呪いがお嫌いみたいですが」
あまりにも想定外の質問に、思わず絶句した。
「……解呪……出来るのか?」
「もちろん、お望みならその血筋に絡んだ呪いを、全てほどく事も可能ですよ」
——光が差した。
比喩抜きに、彼は神なのだと思った。
まさか、こんなにも簡単に、人生を賭けた望みが叶うなど思ってもいなかった。
何も望みが叶わないはずの人生に、奇跡が起きるのだ。
唇が震えて上手く言葉が出せない。
本当に夢なのではないかと疑う。
しかし、さっき地面に手を付いた時に刺さったガラスによる痛みが、これが現実なのだと教えてくれる。
「僕としては、アナタの先祖が命懸けで頑張った結果なので、
アキラが、遠くを見る様な目で門を見上げる。
それは、まるで紫星の歴史を眺めているようだった。
「それでも大切な人の幸せに繋がるなら、良いと思います」
そう言って、髪を掻き上げ綾乃に微笑んだ。
「……お願いします……紫星を、私を呪いから解放してください」
神に祈る様に
「わかりました」
アッサリと了承した後、アキラは交換条件を出す。
「その代わり、ひとつ、僕のお願いを聞いて貰えますか?」
当然の事だ、対価など命ですら払う。
「もちろんです、何なりとおっしゃって下さい」
アキラは嬉しそうに頷くと、門に向かって大声で呼びかける。
「ひるちゃーん、追加でこの人の
門の奥から返事が返る。
「ゥウァガズドゥア゙ア゙ァァー!」
「よろしくねー!あと、今度家にも遊びに来てねー」
そう告げると、門がゆっくり閉じ始めた。
綾乃はそれを、座した状態から地面に頭を付けるように平伏して見送った。
門が閉じ、辺りに清浄な空気が流れる。
「キミも帰りなさい」
固まってた黒い小鬼にアキラが言うと、小鬼はゆっくりと動き出し、伏している綾乃の方へ歩く。
綾乃が顔を上げると、鬼との目線は丁度同じくらいになっていた。
鬼が、
それは、あの時渡した契約の証。
綾乃は、帯に差しておいた
鬼の黒色へ戻ってる大きな瞳に、酷い顔が映っていた。
そこには、涙と鼻水の後が残る、まるで駄々をこねた後の幼子のような顔をした自分が見えた。
それがおかしくて、つい笑ってしまった。
小鬼は不思議そうに首をかしげた後、自分で赤い扉を開けて、一度だけ綾乃に振り返ってから
鬼に狂わされた人生だった。
しかし、その鬼自体は、常に自分の味方でいてくれた。
何より、雪乃のことは、しっかり守り通してくれたのだ。
その感謝を込めて、消えゆく扉に頭を下げた。
深く息を吸い、夜空を見上げる。
綾乃は生まれて初めて、それを美しいと思えた——。
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