第4話 彼女の趣味は珈琲焙煎
アキラは、紫星の屋敷から車で十分ほどのマンションの一室にいた。
あの後、綾乃と一緒に運転手付きの車に乗り、そのまま無言でこのマンションまで同伴したのだ。
十五階建てのマンション。
そこの、ペントハウスと呼ばれる最上階にある部屋のリビングで、アキラはソファーにゆったりと座り寛いでいた。
リビングの窓の外には屋上が続いており、草花が庭のように整えられていた。
正面の壁全面がガラス窓になっており、そこから屋上庭園への出入りが可能になっている。
「いい部屋ですね」
薄暗い部屋の明かりが、屋上の先に見える夜景を美しく際立たせていた。
綾乃は、コーヒーが入ったカップをアキラの目の前に置き、そのまま正面に座る。
「ああ、ここは私の個人所有のマンションでな、
その声色は、先ほどまでの鋭さは鳴りを潜め、客人に対するものへと変わっていた。
「それで、一条の廃嫡されたおぼっちゃんが、どういうつもりだ?」
事前に下調べは済んでいる。
そう言外に匂わせた。
「先ほど申し上げた通りです、お嬢さんと子作りをしたいと思ってます」
そう言って、カップに口を付ける。
「それは
綾乃は、口元に冷笑を浮かべながら、
「精々、雪乃に取り入って、一条の当主候補に戻ろうといった所だろうよ」
浅い魂胆だと言わんばかりに吐き捨てた。
「雪乃さんが望んだので、挨拶に来ただけですよ」
アキラは、にこやかに本音をぶつける。
「そうか、まあいい」
アキラの態度が一向に変わらないのを見て、探りを入れるのをやめ、要件を告げる。
「諦めるか、それとも死ぬか、今すぐ選べ」
アキラがカップを置いたのを見計らって、綾乃は事前に用意してあった選択を突きつけた。
「やっぱり親子ですね、雪乃さんと同じようなことを聞いて来る」
嬉しそうに笑うアキラに、綾乃の
「……貴様、一条だから殺されないと、高を
その目には、殺気が宿っていた。
脅しではない。
選択次第では容赦しないという、明確な意志が込められている。
「今の僕は、一条の肩書を持っていませんよ」
アキラは身ひとつで、ここに来ている事を伝える。
「それに綾乃さんは実際、一条の——僕の母を殺しかけましたよね」
微笑みと共に告げられたその言葉で、綾乃は初めてアキラを警戒する。
瞳が細まり、空気が重く沈む。
「……
その質問は、すでに罪の自白に近いものがあった。
しかし、確認をしなければならない。
紫星綾乃は呪術師であった。
そして、一条家の実質的な当主である
お互いの家が抱える企業の揉め事が理由だった、そこには個人的な理由も含まれてはいたが。
そしてその事実が露呈すれば、一条家と、その後ろに控える
そうなると、もはや個人の話では無くなってくる。
それをネタに、雪乃がこの小僧に奪われる可能もあるかもしれない。
アキラが何を理由にその答えへ辿り着いたかは、絶対に聞き出さねばならない事だった。
「久しぶりに母と会ったら呪詛が染みついてまして、それが綾乃さんと同じ匂いだったからですよ」
あっさりと答えを言うアキラに、綾乃は自身の認識を改める。
「なるほど……雪乃の鬼が、貴様を始末出来ていない理由が分かった」
綾乃の眉間に、嫌悪の皺が寄る。
「貴様——異能者か」
綾乃の警戒心が最大限に引き上げられた。
「あの鬼ですか、下手に消すと雪乃さんに影響出るから、二人で大事に育てていこうかと思ってます」
まるで、自分達の子供を育てるといったノリで、
「ふざけるなよ小僧……」
そう言って綾乃はゆらりと立ち上がる。
そして自身の胸元に手を入れると、そこには、数枚の
それは、自身の血で呪詛を塗り込んだ特殊な呪符。
それを座っているアキラに向けて、前後左右へ飛ばす。
物理の常識を無視した動きで、呪符は空中に留まり、アキラを囲むように配置される。
アキラは、ちらりと呪符を見ると、何事もなかったかのようにカップに手を伸ばした。
「油断か慢心かは知らぬが、紫星の呪術、
綾乃が印を結ぶと、呪符はアキラを中心に回転し始めた。
四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十二枚。
アキラの周囲を廻る回数が増える毎に、その枚数が倍増していく。
呪符が周囲の物に当たると、それは固い刃物に引き裂かれたような切り口を残した。
アキラの座っているソファーが、端からミキサーに掛けられたように粉々になっていく。
やがて、アキラの姿が見えなくなるほどの、紙の嵐が空間を埋め尽くす。
それは躱しようのない殺意の
「どうする小僧?雪乃を諦めると言えば、腕一本程度で許してやるが」
その表情は、嗜虐的な笑みで歪んでいた。
「このコーヒー美味しいですね、酸味が僕好みです」
もはや姿が見えないほどの呪符が舞う、その中心点からコーヒーの味を評価するアキラ。
それは、慈悲を無視する者の声だった。
「……死ね」
その言葉を合図に、千を超える刃がアキラを襲う。
固い物が削られていくような音が鳴り響く。
殺意が渦を巻くように迫る中、アキラは、カップを持つ手とは逆の手を、横へ一振りした。
それだけで、嵐はやんだ。
空気が静まり返る。
空中を埋め尽くしていた呪符は、まるで命を失ったかのように、空中でひらひらと舞い落ちながら消えてゆく。
アキラの伸ばした二本の指先には、四枚の御札が挟まっていた。
それは、綾乃が最初に放ったモノ。
「ソファー、一人掛けになっちゃいましたね」
御札をテーブルに置き、そう言って面白そうに笑うアキラ。
その姿を見て、綾乃は驚愕した。
この若さで、これほどの腕を持っている者。
並の異能者ではない。
そして何より、その余裕が底の深さを物語っていた。
綾乃は、自分の
久方ぶりに自身の緊張を感じ、唇を舐めた。
「もしよかったら、豆の種類と焙煎に必要な長さを教えてもらえませんか?」
アキラは、彼女の実家へ遊びに来た
その柔らかさが、綾乃の怒気をさらに煽る。
「ふざけるなと言ったはずだぞ、小僧!」
綾乃は髪に差してある
腰まである長い髪がバサリと音を立てて垂れた。
綾乃は呪詛を口にする。
「我が声、黄泉に届かん」
「血に染まりし契約のもと、汝の名、千の夜に刻まれよ」
「影より影へ、苦悶を纏いて歩め」
「解かれぬ鎖となりて、永劫に彷徨え」
綾乃の両手に挟まれた、細工が施された薄黄色の
「このマンションにはな……人間が飼われている」
目を見開き、薄笑いを浮かべながら言葉を並べる。
「紫星に仇なした者、多重債務者、凶悪犯罪者、それらを外から鍵をかけ詰め込んでいる」
「何故だか、わかるか?」
理解しているだろうと問う。
「呪術の力を上げる為ですよね、下の階から呪力をどんどん吸い上げてるのが見えますよ」
アキラはカップを手に、微笑みながら答える。
「そうだ、愚かな人間ほど呪いの媒体には丁度いい」
「恨み、苦しみ、欲望、絶望、それらが呪いの力へと変換される」
「見よ、この禍々しいまでに黒く染まった
綾乃の両手が朧気にしか見えないほど、
「でもそれ、体にあまり良くないですよ」
アキラは、綾乃を心配するように言った。
その声音には、皮肉も挑発もなかった。
ただ、静かな事実として、命の消耗を見ていた。
「ああ、だから紫星家は短命なのだ」
綾乃は、淡々と答える。
まるで、それが当然のことのように。
呪術を行使する者の定め。
それは、行使する自身にも跳ね返りが少なからずある。
力を振るうたびに、命が削られる。
呪いを操るたびに、
それでも紫星家は、代々その道を選び続けてきた。
力と引き換えに、寿命を捧げる家系。
綾乃の母も、祖母も、曾祖母も、五十を越える前に亡くなっている。
おそらく自分もそうだろう。
だが、それと引き換えに絶大な力を行使できる。
それが脈々と続いた紫星の血統であった。
「この
綾乃の瞳は、狂気を帯び始めていた。
爛々と輝くその光は、理性の奥に潜んでいた
妖艶な口調と共に、空気がじわじわと軋み始める。
「紫星の女は、生まれながらに鬼の
「それは初潮を切っ掛けとして目覚めるのだ」
「そして出産を済ますと、鬼が自らの骨を契約の証として渡してくる」
「それを触媒として、自在に鬼を呼び出せるという訳だ」
「込める呪力が強ければ強いほど、契約した鬼も強力になっていく」
「そして今、これにはこの住居にいる全ての命を吸わせてる」
「その意味、わかるか?」
リビングの窓ガラスが内側から割れて、庭園となっている屋上に飛び散る。
それに伴い、部屋に風が吹き荒れた。
綾乃の長い髪が風に巻き込まれ、意思を持つようにうねる。
その姿は夜叉そのもの。
「
「血と影にて契りし我が声、黄泉の深淵より応えよ」
「
呪詛が終わりを告げた瞬間、庭園の中央に湧き出るように扉が現れた。
縦横ともに5メートルはある、巨大な観音開きの扉。
深紅に染められたその表面には、象形文字のような刻印が浮かび上がっている。
その隙間から、待ちきれず這い出るように現れたのは、巨大な漆黒の腕。
その腕は異様に長く、肘から先が二重関節になっている。
指は四本だが、爪は獣のように湾曲し、黒曜石のような光沢を持つ。
その腕が地面を叩くと、コンクリートが弾け、ビルが振動した。
そして全身が現れる。
身の丈は四メートルを超えていた。
骨格は人間に近いが、関節の位置が微妙にずれており、見る者に妙な違和感を残す。
背筋は極端な猫背で、首は常に少し傾いていた。
漆黒の肌は滑らかで艶があるが、ところどころに裂け目が走っており、そこから赤黒い光が漏れている。
その裂け目は脈動しており、まるで内側に別の生き物が蠢いているようだった。
顔は仮面のように無表情。
目は三つ、左右に一対、そして額に一つ。
すべてが瞳孔のない白色で、光を反射せず、見る者の心を掻き乱すような不気味さがある。
口は裂け、開くと獣のような牙が並んでいた。
髪は白銀で、根元から先端にかけて徐々に黒く染まっている。
額からは、角が二本伸びていた。
左は鋭い牙のような角、右はそれが途中から折られていた。
腰には皮が巻かれており、首元には黒い首飾りのような装飾が付けられている。
瘴気を存分に纏った体は、そこに居るだけで人の命を削り取る存在だった。
それは、
綾乃が百を超える人間と、自らを餌に育てた、血と呪いの化身。
「終わりだ……小僧」
既に、半分正気を失っているであろう、狂気を帯びたその笑みは、もはや綾乃自身が鬼と化しているようだった——。
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