人造眼球奇譚

九十九清輔

第1話 人造眼球

 緋色、瑠璃色、紺碧、茜。

 部屋の壁一面を埋め尽くした、色とりどりの綺羅星は、天井から吊されたオイル灯の淡い明りの中で、ぼうっ……と輝き、浮かび上がっていた。

 何処からか忍び込んで来る微かな隙間風に、明りは儚げに揺らめき、綺羅星は思わぬ色彩に瞬いた。


「奇麗だろう」


 兄の低い声が聞こえる。

 僕は不可思議な輝きに見入ったまま、小さく頷いた。

 そんな僕の背後で、兄は何故だか小さな含み笑いを漏らしたのだった。


 ◆ ◇ ◆ ◇


 オレンジ色の光源に照らされた、狭い作業部屋の壁面を、床から天井まで、きっちりと木製の薬品棚が立ち上がっていた。

 その薬品棚一杯に整然と並んでいるのは、コルク栓のしてある硝子瓶だった。

 間違いなく三百以上はあったろう。

 全ての硝子瓶は透明の薬液で満たされていた。


 コルクできっちりと栓をしてあるのにもかかわらず、硝子瓶からは薬液の匂いが漏れていた。

 部屋の中に漂う独特の臭気はきっと、このせいだろう。

 決して心地の良い匂いではなかったのだけれど、でも僕はそのことを気にも止めていなかった。

 全ての硝子瓶の底に等しく沈んでいる水晶の如き玉石に、僕は心を奪われていた。

 玉石は瓶ごとに様々な色彩なものがコロリと薬液の中に転がり、そのどれもが鮮やかな光沢を帯び、そして高い透明度を保っていた。


 天を焦がして燃える紅の色。

 冷たく深い群青の色。

 蜜色をした玉もあれば、乳白の物もある。

 三角プリズムを通して発生したスペクトルの七色が、化学結晶したかの様で――それは僕が今までに見たこともないものだった。


「もっと近くによって、ほら、瓶を手にとって、良く見てみるといい」


 兄は僕にそう囁くと、背後から腕をのばし、薬品棚に並ぶ瓶の一つを取り上げ、僕の掌にそっと置いた。


 僕は手の中にある硝子瓶をそっと覗き込む。

 玉が転がり、コロリと硝子に響いた。


 ◆ ◇ ◆ ◇


 ツン、と鼻をつく匂いがして、ポチャンと液が波打ち、

 瓶の底に転がる緋色の玉が、

 濡れてキラめく緋色の瞳が、僕の眼を、ひっそりと見つめ返した。


 ◆ ◇ ◆ ◇


 不意の出来事に平行感覚が危うくなる。

 僕の身体から力が抜け、手に持つ硝子瓶を取り落としそうになる。

 瓶が床へと滑り落ちる直前。

 兄の大きな掌が、僕の手ごと硝子瓶を包みこんだ。

 冷たく硬い感触。


「アカネは存外に臆病なんだな」


 悪戯っぽい口調で兄はそう言うと、僕の手から硝子瓶を取り上げた。


「トオル兄……」


「眼だよ」


「メ?」


「人造眼球さ」


「ガンキュウ……」


 兄は僕の言葉に呼応するように、手の中の硝子瓶を微かに傾けた。

 硝子は灯を受けて淡く乱反射し、光が僕の眼を、瞳をかすめる。

 一瞬の無明。そして、


「ようこそ、俺の工房に」


 ほの暗い部屋の中、兄の声が流れた。


 ◆ ◇ ◆ ◇


 僕たち兄弟に血の繋がりはなかった。 

 僕は赤ん坊だった頃に、母親だった人が義父に託した子供であり、実の母親の顔は覚えていない。義父からは、死んだと聞かされていた。

 兄にしても、義父の本妻とは別の母親から託された子供であって、義父以外とは血が繋がっていない。


 僕と兄、そして義父と義母、家族すべてが、なかば他人だった。

 僕の家族は、他人が共に暮らしているという奇妙な家族だった。

 それでも僕は兄を兄と慕っていた。

 この家族の中で唯一、気を許せる人だったからだ。

 その兄が行方をくらませたのは、今から五年前の事だった。


 民族紛争が絶えないこの国では、男子は十六才で成人を迎えると共に、兵役に着く事が義務とされていた。

 僕も今年の六月には十六才となり、国民軍の士官学校へと編入される予定だ。

 兵役の義務は、この国の国民である以上、反政府の者以外は全て納得して受け入れるべき、当然の事だとされていた。


 しかし僕の兄は五年前、突然に姿を晦まし、行方が解らなくなると同時に、兵役を逃れたのだった。

 僕と同じ、成人した年のことだ。


 短い置き手紙を残して、兄はいなくなった。 

 その事を知った義父は激高し、周囲の者を罵倒し、正体を失ったかの様だった。 

 家の主である義父は、血筋の良い裕福な民族主義者で、軍の高官とも繋がりを持つ船会社の経営者だった。

 義父は僕と兄の二人に対して、幼い頃から、この国の成り立ち、民族主義の優位性、そしてその責務を説いていたのだ。

 まさか実の息子が、自分の思想を裏切るとは思ってもみなかっただろう、義父の取り乱した様子は今思い出しても恐ろしく、そして哀れだった。 


 義父は兄の事を、つきあいのある軍の高官や、他の権力階級の民族主義者達に対して、どのように説明したのだろう。

 家族の中で唯一、血の繋がりのあった者に裏切られた義父の気持ちは解らない。


 でも、周囲の者に対して常に高圧的な態度をとる人間だった義父が、今では少し、力無く見えるようになった。


 ◆ ◇ ◆ ◇


 薬品戸棚の横にある、大きな作業机の椅子に兄は腰を下ろす。

 そして僕には、部屋の隅にある丸椅子を使えと言った。

 作業机は、金属製の保定器具に挟まれた試験管と、曲がりくねった頚を持つ、奇妙な形をしたフラスコの類で占められていた。

 それら実験器具を挟んだ正面の壁には、ガラスケースに入れられた、昆虫標本を思わせる、大きな眼球の断面模型が掛けられていた。

 模型の表面には小さなラベルが、いくつもいくつも張り付けられており、それには僕では読む事の出来ない、異国の文字がビッシリと刻み込まれていた。


「あんなに驚くと思ってなかった」

  

「え?」


 僕は兄の方を見た。

 兄は額にかかった前髪を指で跳ねながら、低い声で言った。


「驚いたんだろう?」


「……別に驚いてなんかいないよ」


「本当に? 怖かったくせに」


「驚いてなんかいない」


 僕が強くそう言うと、兄は薄く笑った。


「じゃ、そういう事にしておこうか」


 唇の端を微かに歪めて見せるだけの兄の笑顔は、子供の頃と少しも変わっておらず、僕もその様子につられて笑ってしまった。


「あいかわらずだね、トオル兄は」


 兄の唇は微かに吊り上がっていて、それは転回した二十五夜の月の様だった。

 その形のまま、兄は低く言葉を返す。


「アカネはしばらく見ないうちに、背が伸びたんだな。紺のブレザーが良く似合っている。初等部の制服か?」


「ひどいな、士官学校の制服だよ。それにブレザーじゃない、軍服だ」


「背が伸びても、そんな風には見えないな。髪形のせいかな、子供っぽく見える」


「まったく。トオル兄は、本当にあいかわらずだ」

 

 久しぶりに会う兄は、以前と比べて少し痩せて見えたけれど、それ以外はほとんど変わっていないようだった。

 長く延びた頭髪に薄い唇、細い鼻梁。

 相変わらず背が高く、低い声で話かけてくるのだった。

 そして僕をからかう癖も、変わっていない。


「部屋をもうすこし明るくするか。今はアカネの為に、わざわざ部屋の照明を落としているんだ」


「僕をからかう為に?」


「正解」


「……趣味悪いよ」


 兄は机の上に、オイル灯をもう一つ取り出すと、マッチを擦って火を着けた。

 オイルの焦げる匂いと共に、部屋の中が、いくぶん明るくなる。

 まぶしそうに目を細め、ちらつく炎をじっと見つめている兄の横顔が、照らし出された。


 白衣を纏った兄は、やはり痩せた様だった。

 顔の輪郭も、頬の肉が削げて、顎の線が細くなっていた。

 以前から特徴的だった、きつい目元が、更にはっきりと際だって見える。


「……痩せたね、トオル兄」


 兄は炎から僕へと視線を移し、机の上に肘をたてて、手の甲に顎を乗せた。


「人間、好きなことだけやってると、時間を忘れて、食事をとらなくても平気にになるんだ」


「また、そんな事いって」


「本当さ」


 そういうと兄は、机の上にならんでいる試験管の一つに手を延ばし、人さし指と親指でつまみ上げた。

 試験管には濃緑色の液体が、中程まで溜まっている。


「義眼を造るというのは、目玉の模造品を造るという事じゃない。本当に、人の部品となりうる物を造るという事なんだよ。眼を失った人にとっての本物の眼球を造るという事なんだ。俺は、この俺が、そんな事をしてるって事が、嬉しくて、仕方がないのさ」


 兄はまた、唇をちいさく歪めた。

 そして指にはさんだ試験管を、オイル灯の炎で熱し始めた。

 小刻みに揺らしながら温めている。 

 僕はしばらくの間、左右にゆれる濃緑色の液体を見つめていた。

 兄も手に持った試験官に、鋭い視線を注いでいる。


 硝子の光沢に包まれた濃緑色が、オレンジの輝きと絶え間なく交錯し、いつの間にか僕の眼には、太陽を直に見上げてしまった時と同じような緑色の残像が残っていた。


 たまらずに僕は、手の甲で眼を擦る。

 その時、兄が小さくいった。


「……手紙、おまえに直接、届いたのか?」


「え?」


「手紙だよ。俺が出した手紙」


「これ?」


 僕は軍服の内袋に収めておいた、兄からの手紙を出してみせた。


「……僕宛てだからね、ちゃんと届いたよ。検閲にひっかかる様な事も書いてないし」


 兄はちょっと笑って、僕の手から自分の出した手紙を取り上げた。


「そうだろうな、おまえがここにいるって事は」

 

「?」


「検閲には引っ掛から無かったってわけだ」


「なにが?」


「俺の名前は書いてあるのに……」


「え?」

 

 兄の口元から笑みは消えていた。

 鋭い視線は、また試験管の方へと向けられていた。 

 もう、僕の事など忘れてしまったかの様な素振りだ。


「……」


 奇妙な違和感を感じた。

 なぜかは解らないのだけれど、奇妙だった。

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