Phonetic's ghost

しろん

Phonetic's ghost

<<プロローグ:フランス>>


シッロー・ズーシShirro Zushiは、ある日突然、人々の前から姿を消した。

カンヌ市会議員であるミデュ・ズーシMidi Zushiの弟とされていたが、

その存在は全くといっていいほどの謎に包まれていた。

彼の住まい、性別、職業、何もかもが闇の中だった。

ただ一つ、確かな情報だったのは、彼には一人の弟子がいるということだ。

その弟子は、ズーシ・ジュニアZushi Jr.と呼ばれていて、

日系人であるという噂がまことしやかに囁かれたりしてはいたものの、

もちろん、それらの噂のどれも推測の域を出なかったわけである。


また、シッローやジュニアを目撃する者の数も日に日に減っていった。

かつては毎週土曜日の朝早く、マルシェの屋台で、

みずみずしい生セロリと、酸味の残るオレンジを買い求める姿が、

市民や店の主人たちによって日常的に目撃されていた。

だが、最近ではその頻度もめっきり落ちていて、

遠くからそれっぽい人影を見たという話こそあれど、

顔をしっかりと見た人は、ただの一人もいなくなってしまった。


それで、たまに、近くの寂れた酒場のカウンターで、

グラスを傾ける酔いどれたちが、シッローの話題を持ち出すことがあった。

「あの男はきっと、ラングレーCIAのスパイに違いない」と言う者もいれば、

「いや、あいつは、ただのしがないホームレスだろう」と嘲笑する者もいるように

身元の知れない謎の男たちは酔っ払いどもの格好のネタとなっていた。

しかし、ズーシ兄弟と直接言葉を交わした者など、皆無に等しかったし、

シッローらが酒場に顔を出すこともなかったため、

その会話はいつも尻すぼみに終わっていたのだが、それも束の間のことだった。


やがて、マルシェの周辺にズーシの噂が広まっていることを聞きつけたのか、

彼らがそこに姿を見せることはなくなった。

酒場の客たちもすぐにその話題を忘れ去り、新たな酒の肴を探し始め、

石畳に溜まった澱んだ水たまりの鉛色の水面には、空が映り込んでいた。


<<今:サハラ砂漠>>


世界地図を開いて、それからアフリカ大陸を探してみてほしい。

その左上にモーリタニア・イスラム共和国があるのがわかるだろう。

西サハラの南に位置するこの国は、広大な砂漠が国土の大部分を占めている。


現在、ズーシたちはその首都、ヌアクショットに身を置いていた。

イスラム教徒が大多数を占めるこの共和制国家は、

アフリカの中では比較的治安が安定しているとされている。

しかし、それは人がほとんど住まない砂漠地帯が広大であるためだ。

砂漠には凶悪なテロリストが潜んでいるとされるが、

各地に配備された砂漠警察desert policeの存在もあり、

一般市民が遭遇する危険は少ないので、大した脅威とはされていない。

むしろ、日常的に警戒すべきはスリや強盗といった表面的な犯罪よりも、

より根深く蔓延る汚職と腐敗、そして賄賂だった。


特に、空港の税関や郵便局での荷物の受け取り時に、その問題は顕著になり、

特に外国人の外交官や駐在員、そして観光客などの富裕層は標的になりやすい。

イスラム国家であるモーリタニアではあるが、非教徒の飲酒は容認されており、

例えば酒類を国外から持ち込むことは、制度上は可能なのだが、

実際のところは賄賂を払わなければ没収されることが常態化していた。

また、郵便局で荷物を受け取る際にも賄賂を要求されることも珍しくない。

現地民は数十円から数百円の賄賂で済むことがほとんどだが、

駐在員などの外国人が受け取る場合や、相場を知らない人が相手の場合は

なんと数千円単位の賄賂が必要になるという腐敗っぷりだ。


こうした腐敗は社会の奥深くまで浸透しており、

それもあって警察に訴えても捜査されることはほとんどない。

それどころか、警察官自身がスリや置き引きに加担しているケースもあるという。


「こんな国に何の関係が?」そう疑問に思う者もいるだろう。

しかし、この国では旧宗主国フランスのフランス語が広く話されている。

つまり、フランス人のズーシたちはコミュニケーションに困らない。


しかし、まさかこんな場所にバカンスをしにくるような

物好きな人間がいるわけもないし、

ズーシが外交官でも駐在員でもないことは、説明するまでもない。


では、この謎多き者たちは、なぜこの地にいるのか?

その答えを探るには、3年前へと遡る必要がある。


<<3年前:フランス/アルカション湾>>


シッロー・ズーシはこのところ、ひどく落ち込んでいた。

それもそのはず、2年間も付き合っていた"クソッタレ"な

ガールフレンドに、クリスマスの夜、こっぴどく振られたからだ。

フラれたのは本当に些細なことがきっかけだったのだが。


クリスマスの夜、アルカション湾沿いに点在する牡蠣養殖場に

併設された素朴なオイスターバーで、二人はクリスマスを祝っていた。

そこでシッローが、いざ殻付き牡蠣を開けようとした際、

慣れないオイスターナイフの扱いに手間取り、モタモタしてしまったのだ。

それを見た彼女は、心底うんざりしたようにため息をつき、そのまま店を後にした。残されたのは、無残な姿を晒す牡蠣と、呆然とするシッローだけだった。


アルカション湾は、古くから牡蠣養殖が盛んなことで知られている。

特に秋から春にかけての時期は牡蠣の旬とされ、

地元の人々は養殖場に隣接するオイスターバーやレストランで、

冷えた白ワインを傾けながら、獲れたての新鮮な牡蠣を味わう習慣があった。

提供される牡蠣はほとんどが殻付きで、客は専用のナイフを使って

自分で開けて食べるのが一般的なのだが、

しかし、このオイスターナイフの扱いは意外と難しく、

毎年、不注意による負傷者が後を絶たないため、

日本でいう「正月の餅」のように、テレビや広告では

「牡蠣に注意」と、しきりに注意喚起がなされるほどだった。

シッローは幼い頃から、オイスターナイフによる怪我の話を、

様々なところで耳にし、目にしていたこともあって、

その恐ろしさが骨身に染みついているため、

どうしても牡蠣の硬い殻の隙間に力を込めて

ナイフを差し込むことができなかったのだ。


そしてその数日後、シッローは失意のまま、

友人らと年越しを祝うために、同じオイスターバーに再び足を運んだ。

これが、彼の運命を大きく変える分かれ道となるとは思いもしなかった。


友人のシャーマンやキアーナと談笑しながら、

ワインと牡蠣を心ゆくまで楽しんでいたとき、

なんとなく店内を見回したシッローの目に、

バーには似つかわしくない、使い込まれたボストンバッグを

足元に置いた中東系の女が、カウンターで一人食事をしている姿が映った。

彼女は食事を楽しんでいるようには見えず、

むしろ何かを警戒しているかのように、僅かに緊張した面持ちだった。


シッローは肘でシャーマンを小突き、「あの女、何かおかしい」と耳打ちした。

シャーマンは細めた目で数秒間女を見つめた後、

「さぁな?確かに牡蠣目当ての観光客にしてはおかしい」と答えた。


その時、まるで合図があったかのように、

女はボストンバッグを置き去りにしたまま、入口の方へと早足で駆け出した。

シッローとシャーマンは一瞬顔を見合わせた後、

互いに無言で頷き、女を追いかけることに決めた。

まだ閉まりきっていない重厚な扉を押し開け、

二人は彼女を追って駐車場へと走り出した。


女は二人を認識したのか、あるいは無意識なのか、

もはや早歩きではなく、文字通り全力で一台の車目掛けて疾走していた。


シャーマンは走りながら、「バッグ、IED即席爆発装置だったらやべぇ」と呟いた。

その直後、何かに気づいたように「キアーナを連れ出しに行く、待っててくれ」と

言い残し、来た道を駆け戻って行った。

シッローは「まずい!」と思ったが、どうしようもなかった。

彼は他の車を巧みに使い、彼女に気づかれないよう細心の注意を払いながら、

砂利敷きの駐車場を音をできるだけ立てずに進んでいった。


止まっていたベンツの影に身を隠し、そっと向こうの様子を伺うと、

ハイラックスに乗り込もうとする女が見えた。

ここだけ見れば、ただの無銭飲食にしか見えない。

しかし目を凝らしてみると、彼女の上半身が不自然に厚ぼったいことに気づいた。


彼は咄嗟に息を呑んだ。「あのクソ野郎、Sヴェストを着てやがる!」


もはや、何が起こるかは誰の目にも明らかだった。

そして、キアーナとシャーマンを救うには、

何をするしかないか、ということも明確だった。


一瞬体がこわばったが、すぐに歯を食いしばり、恐怖を押し殺した。

何食わぬ顔でハイラックスへ近づき、ドアの前で手元を覗き込んでいるそいつを、

後ろから掴み、身動きできないようにした。


彼女は一瞬固まった後、「Arrêtez ça!(やめろ!)」と叫んだ。

シッローは返事をせずに、女を地面に組み伏せた。

これで、少なくともSヴェストの起動ボタンは押せないし、

レストランの中の爆弾も、起爆できないはずだった。


そして咄嗟に、「俺は仲間だ、落ち着け!Je suis un ami, calme-toi!」と言った。

少なくとも、キアーナとシャーマンが出てくるまでは、

時間稼ぎをしないといけないということは気づいていた。

彼らが来ていないか後ろを振り返ったのだが、それは大きな間違いだった。


女は、シッローの油断を瞬時に見抜いた。

捕まれていた腕を渾身の力でひねり、するりと拘束から逃れると、

迷いを見せずに即座にポケットに手を滑り込ませた。

さっと携帯電話を取り出すと、何かを操作したようだ。

その動きは淀みなく、訓練された兵士のようだった。


シッローは、まさかの事態に焦りを覚えた。

失敗した、と直感し、再び女を捕らえようと大きく踏み出した瞬間、

背後から、雷鳴のような轟音が轟いた。

衝撃波が彼の背中を叩きつけ、体は前のめりに押し出される。

平衡を失い、地面に顔から突っ込むのを避けるため、

咄嗟に両手を突き出して衝撃を受け止めた。

手のひらに鈍い痛みが走り、彼は何が起きたか一瞬わからなかった。


キーンという耳鳴りが続く中、シッローはどうにか顔を上げた。

視界の端で、女がベストから伸びる電線を握りしめているのが見えた。

その電線の先に付いている、小さなボタンのキャップを、

今まさに外そうとしている光景が、シッローに死を覚悟させた。

全身から血の気が引く中で、残された最後の力を振り絞り、立ち上がった。

地面を蹴って、女目掛けて飛びかかる。

そして、女の手から伸びる起爆コードを掴み、力任せに引きちぎった。


心臓は激しく高鳴り、呼吸は荒い。

全身の筋肉が痙攣し、立つことすらままならない。

彼は崩れ落ちるように、傍らに停めてあったハイラックスに体重を預けた。

冷えたボディが火照った体を冷やすのを感じる。


ふと、彼の視線は、先ほどまでいたレストランの方向へと向けられた。

しかし、そこに広がっていた光景に、彼は目を疑った。

先ほどまで建っていたはずの瀟洒なレストランは、

まるでそこに存在しなかったかのように消え失せ、

代わりに、燃え盛る炎と、空に立ち上る鈍色の煙だけが、そこにあった。

熱波と焦げ付く匂いが、ここまで届いてくる。


「シャーマン…」


そう呟き、彼は焼け落ちたレストランへと向かおうと、

ハイラックスから離れようとした。

しかし、その足は、地面に縫い付けられたかのように動かない。

そして、力尽きたように、その場に崩れ落ちた。

そしてそのまま意識が、深い闇の底へと、ゆっくりと吸い込まれていくのを感じた。



<<3年前:フランス/モルヴァン周辺>>


鈍い音が聞こえる。

側頭部が熱く、ズキズキと脈打つような痛みが走っていた。

目を少し開けると、たちまち眩しい光が視界いっぱいに広がり、

思わず腕を額に乗せて目を覆い隠した。

すると、その動きが引き金になったかのように、

全身に激痛が走り、思わず「ぐっ…!」と低い呻き声が漏れる。

痛みのあまり、奥歯が砕け散るのではないかと思うほど激しく歯軋りをするが、

それは何の助けにもならなかった。

荒くなってしまった呼吸を整えていると、

規則的な足音が徐々に近づいてくるのが分かった。

息を潜めて様子を伺っていると、突然「バン!」という音が耳に届く。

どうやら、乱暴にドアを開ける音がしたようだ。


そして、足音の主はこの部屋に入ってきたようだった。

ぼんやりとした意識の中で、ここは病院なのか、

それとも別の場所なのか、回らない頭で必死に考えようとした。

そして、誰かが枕元に立ったであろうタイミングで、

乾いた喉から絞り出すように問いかけた。「君は誰だい?Qui es-tu?

数秒の沈黙の後、そっけない声が返ってきた。

「ク|ソッタレレストランで、君を殺そうとした人《La personne qui a failli te tuer, Dans un restaurant de merde.》」

その言葉にハッとして、薄れかけていた記憶が鮮明に蘇ってきた。



俺は、あのオイスターバーで、あの馬鹿野郎の火遊びに付き合わされた。

そんな俺を嘲笑うかのように、女は涼しげな声で告げた。

幸運にも私たち以外は死んだのよHeureusement, tout le monde |est mort sauf nous.

その言葉は、俺の神経を逆撫でするには十分だった。

「|ここはモルヴァン、あんたは重症よ《Alors, on est près du Morvan. Tu es grièvement blessé.》」

畳みかけるように放たれる言葉は、俺の全身を苛む痛みをさらに増幅させる。


シッローは、応えることもなく沈黙したまま現状を整理した。


キアーナとシャーマンは死んだ。俺は瀕死の重傷を負っている。

目の前の女を引き裂きたい衝動に駆られる。

しかし、どういうわけか、こいつは俺を殺す気はないようだ。

そして何より――全身が焼けつくように痛い。

呼吸をするだけでも肺がひび割れるような激痛が走る。


一通り考えを巡らせた後、

女にありったけの罵詈雑言を浴びせてやろうと口を開きかけた、

その時。右腕にチクリとした痛みが走り、視界が急速に揺らぎ始める。

意識が暗闇へと沈んでいく中、最後に見たのは、

無表情でこちらを見下ろす女の顔だった。


<<2年半前: モルヴァン>>


シッローは、現在進行形の危機に晒されていた。

半年前にレストランで「知り合った」テロリスト、

それも友人を二人殺した挙句、俺のことも殺しかけたやつと

どういうわけか、同棲する羽目になっていたからだ。


IEDによる爆発で大怪我を負ったシッローは、

その女のアジトへと運び込まれ、

手当てを受けた後、そこでリハビリをさせられていたのだ。

アジトは、モルヴァンの森深く、

外界から隔絶された古びた山小屋で、身を隠すには最適だった。


幸い、今では歩く時に痛むということもないし、

傷跡も薄くなり始めているというのは良いニュースだった。

腹部に刻まれた深い傷跡は、当初こそ見るに堪えないものだったが、

日を追うごとに赤みが引き、薄茶色の線へと変わっていった。


一方で、友人を殺した奴と同棲するというのはあまりにも苦痛で、

何度殺そうと思ったかわからないくらいには殺意を抱いていたが、

「こいつは俺を殺すこともできたのに、助けてくれた」という面では、

そのテロリストに、少しだけ連帯感も感じていた。

専門用語では、これをストックホルム症候群と言い、

決して珍しいことではないのだが、それでも関係は良好とはいえなかった。


ある日の朝食で、いつも通りの不味いドレッシングがかかったサラダと、

耳が少し焦げているトーストを出されて、それを無言で食べていると、

突然、女がキッチンの方を向いたまま、話しかけてきた。


私の名前はテュン・スー、よろしくJe m'appelle Tun Sue, ravie de vous rencontrer

と落ち着いた声で、独り言を言うように話しかけてきた。

その声は感情をほとんど感じさせず、

まるで古い機械が動いているかのように聞こえた。


シッローは、少しこの状況を楽しんでもいたので、

今日からお前はズーシ・ジュニアだÀ partir d'aujourd'h|ui, tu es Zushi Jr.」と軽口を叩いた。


スーは料理をしている手を止め、振り返ってシッローを一瞥してから

その名前、気に入った!Oh, j'aime ce nom」とウィンクして笑って見せた。


もはや、シャーマンとキアーナのことなんてどうでも良かった。

あいつらが付き合っていること、俺は知っていたんだ!

あんな「クソカップル」は文字通り爆散して良かったのだ!と

心の中で悪態をついてから、ジュニアと言葉を交わした。


5分後、シッローは絶望を覚えることになった。

交わした会話の内容をメモに書き留めて、読み返したからだ。


・「ジュニア」はテロリストだが、一匹狼(ローンオフェンダー)。

・中東風の顔つきに見えるが、日系人であること。

・あの攻撃は、元フランス対外治安局(DGSE)の店長を狙ったもの。

・イスラム過激派組織とは全くのつながりがない。

・あの攻撃は目撃者がおらず、店のカメラも破壊されたため、捕まる心配はない。


つまり、俺は何の後ろ盾もない犯罪者の仲間になったということで、

友人を失っただけでなく、何の大義も目的もない犯罪に巻き込まれたのだ。


5分前、シッローはサラダを弄りながら、

「あ|の店はなんなんだ?お前はイスラム戦士か?《Alors, c'était quoi ce magasin ? Êtes-vous u|n guerrier musulman?》」

と嘲るように、フォークをくるくると回しながら聞いた。


ジュニアは一瞬息を止めてから、「違うdifférent」とだけ短く答えた。

シッローが頭を軽く横に振って続きを促すと、

「|あの店のオーナーは元DGSEのクソ野郎よ《Le propriétaire de ce magasin est un ancien salaud de la DGSE.》」と答えた。


なら、組織は?誰に雇われた?Si oui, quelle organisation ? Qui vous employait?」と問い詰めると、

「私一|人よ。それに、爆発でカメラも証人も消えた《Je suis seul. L'explosion a anéanti les ca|méras et les témoins》」と答えた。


まるで<だから、あなたは安全なのよ>とでも言いたげな、自慢げな表情だった。


スーの本名はテュン・スー・イカーヴテというらしく、

シッローにはどこの国の人間なのか全く見当もつかなかった。

その響きは東南アジアのどこかの言語のようでもあり、

あるいは遠く離れた異国の響きを宿しているようでもあった。


何より、シッローは生まれてこのかた分別を弁えて育ってきた。

あまり裕福でない家で生まれ、治安の悪い町で育ったので

小学校の頃には盗みをはたらくことだって少なからずあったし、

時に折りたたみ式のアーミー・ナイフを持ち歩くこともあったが、

IEDや自爆ヴェストなんてものとは縁のない人生だった。

それが日常に溶け込むような世界は、彼の生きてきた現実とはかけ離れていた。


よく考えてみれば、この近くでハイラックスに乗っている人はいない。

しかもハイラックスはテクニカル即席戦闘車に使われるほど

頑丈で堅牢なつくりを持つ、トヨタのピックアップトラックだ。

それこそ、M2ブローニング重機関銃を車体に搭載して、

世界中の至る所で傭兵やゲリラ、さらにはテロ組織もが使っているような代物だ。

そんな車両が、フランスの片田舎の漁村に現れること自体が異常だった。


しかし、フランスのど真ん中で重機関銃を持っていたら、

当たり前ではあるが、たちまちジュニアは捕まってしまう。

それに持っていなかったとしても、

遅かれ早かれ怪しいピックアップトラックが走り去るのを

目撃した漁師が警察に通報し、モルヴァンまでやってきて

ジュニアと彼に手錠のプレゼントをするというのは、

十二分にありえる展開であることを二人は理解していた。

フランス国家憲兵隊の迅速な対応は、彼らの行動を制限するに十分なものだ。


そしてその前に、シッローには聞いておきたいことがあった。

それは、なぜ元DGSEのエージェントを殺したのか?ということだ。

個人的な恨みなのか、はたまた裏に何かの組織がついているのか、

どちらにせよ"こりゃやばい"ということはわかっていた。

元DGSEの人間を殺すなど、フランスという国家を敵に回すに等しい行為だ。

その意味するところは、想像以上に深刻な事態であると肌で感じていたし、

さっき、"組織も何もない"と言ってこそいたが、

あの量の爆薬や自爆ヴェストの技術はネットに転がっているものではないし、

少なくとも元DGSEのエージェントがアルカション湾に居るという情報を

知ることのできる能力なり、背景は必ずあるとシッローは確信していた。


頬を掻きながら、「なんでアレを起こした?Pourquoi cela est-il arrivé ?」と聞くと

ジュニアは口を窄め、深く息を吸い込んでから、

少し考え込んだ様子を見せ、そうしてからゆっくりと語り始めた。


<<過去編: ジュニア>>


ジュニアはトルコ人と日本人のハーフで、生まれこそ日本だが、

物心ついてからのほとんどの期間をトルコのアンタルヤで生活をしていた。


シリアとの国境とは程遠く、地中海に面した穏やかな気候のアンタルヤは

治安も安定しているが、イスラム教徒が98%を占めるこの国では、

無宗教者は全国民のわずか0.47%程度しか存在していないとされ、

彼らの社会的地位が高いとはお世辞にも言えなかった。


そして、ジュニアもその数少ない無宗教者のうちの一人で、

ラマダーンやサラートといったイスラム教の行事には縁がなかった上、

ハラルにそこまで気を使うということもなかった

_と言ってもトルコ国内でハラーム許されていない食材を探すほうが難しいのだが_

ため、友人に恵まれることはなく、寂しい学生時代を過ごした方だった。


といっても、至って真面目で普通の学生として若い頃を過ごし、

成人してからは、観光客向けの料理店で働いていた。

給料は日々の暮らしに困るほどではないにしろ、そこまで高くなかったが

彼女は幸い美貌に恵まれていたため、そこそこのチップを_

_トルコ国内では10~15%が相場とされる中で、平均20%を受け取り_

裕福ではないにしろ、そこまで悪くない暮らしを送っていた。


しばらくして、その料理店に新しいスタッフが入ってきた。

そのスタッフはトルコ系トルコ人で、名前をムスタフと言った。

少し適当ところもあったが、仕事ぶりはとても良かったし、

何より顔が良かったので、彼と働くことをジュニアは楽しみにしていた。


仕事を楽しみだと思うほど、幸せな日々を送っていたジュニアだったが

その幸せはあまり長く続いたとは言えなかった。


ある日の昼過ぎ、いつも通りに厨房で彼と働いていると、

何やらカウンターの方がやたらに騒がしく、

そっと様子を伺うと、体格の良い欧米人4人が店に入ってきて、

スタッフに写真を見せて、何かを探しているようだった。


道に迷った観光客かと思って、あまり気にせずにいると

隣でナスを切っていたムスタフが焦った様子で、

トイレに行ってくると言って、厨房から出て行ってしまった。


それから数秒して、焦った様子のオーナーが

ムスタフの野郎、どこに行った?Où est allé Mustafa ?」とジュニアに声をかけてきて、

怪訝に思いつつもトイレに行きましたけど...と返すと、

とても慌てた様子で「あいつ、テロリストだった!C'est un putain de terroriste !」と叫んだ。


状況が飲み込めず、唖然としていると、

奥から欧米人たちが勝手に厨房に踏み込んできた。

衛生的に禁止されているので、慌てて静止すると

彼らはジュニアを押し除けて店内を捜索し始めた。


オーナーに何が起こっているのかと聞くと、

どうやら、ムスタフはフランスで相次いでいた

爆発物の小包が政府機関のスタッフに送りつけられる

無差別テロリズムに加担していたらしく、

欧米人たちは、フランスの情報機関DGSEから派遣されてきていて、

ムスタフを拘束することを命じられている様子だった。


ムスタフがそんなことをするはずはない!


それにそのはず、トルコ国内ではそこまで大きく報道されていなかったし。

何より、ジュニアはTiktokやYoutubeを見ることこそあれ、

退屈な新聞やテレビの報道番組を見ることなんて全くなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Phonetic's ghost しろん @kokoyoshi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ