振り返った青春に、さよならを言えるまで。

山羊山黎

第1話 夏の暑さと人の鬱陶しさ。

蝉の声もしないような暑さが過ぎ去り、夜が少し冷えた9月の末。

その日の月はとてもきれいだった。


自己紹介は本来四月にするものだろうが、今回ばかりは自分のことを話すのだからさせてもらおう。

山上笑也、高校二年生男子。趣味はなく、学校と家を往復する毎日の平凡な学生。成績も上からか下からか、ちょうど真ん中よりちょっと下くらいの人間である。部活動にも時たまに顔を出すくらい(活動日数が少ない)の普通の人間である。

文化祭に向けて皆が力を入れ始める時期にもかかわらず、仕事というものも少ない学生なのだが、部活の出し物とか言えば許されるくらいの立ち位置だ。


だったのだ。そうであるべきだったのだ。

そうなくなった理由を今必死になって考えている。なぜなのか?

自分の人生の平凡さを失うようなことは何だったのだろうか?

自分が教室に入ったときに感じたあの雰囲気の異質さに、自分は逃げ出してしまった。


遅刻もしない、欠席もしない。そんな平凡で高校を探せばどこにでもいるような生徒が登校をしたとき、教室の扉を開けた時のことだ。

残暑も吹き飛ぶような冷ややかな目線と、軽蔑の空気が身に襲い掛かった。感覚がわからない。未体験なのだ。教室に擬態していたはずの自分が急に腫れ物のように浮いていた。その異質さを最初は受け入れられた。しかし、その陰鬱さに耐えられず荷物を整理してから教室を後にしたのだ。


そして、寝ぼけていたのが理由だろうかと水を飲みに向かう。少し距離はあるが、購買の自販機の横の給水機を目指して歩いていた。もちろん外にはあの陰鬱さはない。歩いていると、目の前から

「お前、よくやったよなあんなこと。」

友人Aが声をかけてきた。

「???」

声にならない疑問を顔にして応答する。心当たりのないことなのだ。当然だ。

「お前マジで言ってるの?」

「俺何かやった?」

「天然なのかなんなのかだけど、逆にすごいよ。」

そんな感じであきれた友人Aこと中野渡は去っていく。方向はあの陰鬱な教室である。気にしないように普段ならできたのだが、今日はそうではない。なので水を飲んで喉だけでもすっきりしたあとに教室に戻ることにした。疑問はまだ頭の中にある。

悩みながら教室に戻ったころにはあの陰鬱さは消えていた。


朝礼が終わり、授業が始まる。

一限目の教師が教科書を出せというので出す。現代文の真ん中のページを開いて口を開く。

「授業なので、今回からは坊ちゃんをやります。」

自分も知っている。部活についてだが自分は文学部だ。まぁとはいえ現代すぎる文を書くことが多いし、読むこともまただ。なので少しばかりの知識で授業を聞き流すつもりだった。

「夏目漱石といえばお札になるような文化人ですが、彼の功績は当時の日本にとってもすごいものでした。」

「当時から留学といえば今でいうところの外交官くらいの貴重さでしょうか?まぁそのような感じなのですが。」

「彼もまた文学を作家として、いろいろと作品以外にも残しています。」

「とくに有名なのはとある和訳でしょうか、"I LOVE YOU" を"月がきれいですね"と訳した話が有名ですね」

「まぁこれは真偽が不明なのですが...」

...ぁぁ。

声が聞こえなくなった。誰も見ていないはずだ。みんなが黒板を向いているはずなのに、あの朝の視線が突き刺さった。見えない針が、目を、耳を、口を、手を、背中を、そして自分という概念をズタズタにした。

陰鬱さ、さっきのそれの原因がわかってしまったのだ。

針が手に代わり、見えないそれとして自分を闇に引きずりこんだのがわかった。

その時からだ、自分という平凡さを憎み、知識のない己を嘆いたのは。

喉から水が出てくる。嗚咽が嘔吐に代わるまで、針が自分をバラバラにするまで、その時間は変わらなかった。



無我夢中とはまさにこれなのだろう。水を垂れ流しながら教室を飛び出した。目的も何もない、ただ逃げたかった。ただただ逃げたかった。あの陰鬱さは侮蔑だったのだ。昨晩の自分を憎んだ。殺したかった。思考はとうに混乱している。希死念慮と他殺願望に変わったそれを自分が落ち着いて受け入れたころには、夕方の自宅だった。


さて、そういうことである。

自分は昨晩の月の美しさを、取りまとめ役と文化祭の話をしているときに文章で送っていたのだ。そう。

「月が綺麗だ」

と、そのあとに会話が終わったのも、この地獄が始まったのも。それがきっかけだったのだ。

自宅の電話がなり、手に取ると学校からだった。

「早退したのはいいが、荷物が残っているから取りに来なさい。」

かけ続けたのであろう苛立ちを電話越しに、とぼとぼと歩いて行った。

日が沈むころだった。登下校用の門はとうに閉まっている。教職員用の門から入り、教室に向かう。事情を話すわけにはいかない。ただ付き添いの教員には

「抜け出すようなことはしないのに。」

と、疑問を投げかけられていた。無視を決め込む。返答はない。


教室の前についたころには教員は「それじゃ」と去っていた。とって帰るだけのことだ。誰もいないはずだ。なのに無性に気持ち悪い。吐き気だ。あの空気が自分を待っている。そう考えると身がすくんだ。扉に手をかけて開ける。登校は朝にするはずだが本日二回目の教室には月明かりと一人の生徒がいた。


「漱石君じゃん。荷物取りに来たの?」


その日、僕は夏目漱石が嫌いになった。

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