第5話 冒険者と魔物

森の夜は深く、肌を刺すような冷気が空気に張りついていた。


 焚き火の小さな光だけが、エリカの存在を浮かび上がらせる。




 彼女は、マントの襟を深く引き寄せながら、火の前に膝を抱えて座っていた。


 そのマントは、昼間、森の外れで気絶していた猟師から奪ったものだった。


 殺してはいない。ただ、眠らせて、最低限の衣服と水筒、地図を拝借した。




 下には神殿から支給された戦衣を着ている。白に金の装飾が入った、目立ちすぎる服だ。


 だが今は猟師の粗末なマントが、その“異物性”を少しだけ隠してくれていた。




 




 ──カサッ。




 焚き火の音とは違う、葉を踏む小さな気配。




 瞬間、エリカの体がわずかに動く。


 マントの中で足を開き、手のひらは地面をとらえ、全身の重心を落とす。




 




 「……火なんか焚いてて平気か?」




 声がした。男の声だった。


 敵意は薄い。だが油断はできない。




 火の明かりに浮かび上がったのは、簡素な革鎧をまとい、大剣を背負った一人の青年だった。


 疲れてはいるが、動きに無駄がない。旅慣れしている。目は油断なく、言葉に余裕がある。




 




 「名乗っとく。俺はカイル。冒険者だ」


 「追ってるわけじゃない。……ただ、道中でおかしな噂を聞いて、確かめに来ただけだ」




 




 「どんな噂?」




 エリカは立ち上がり、距離を保ったまま問う。


 剣には触れていないが、いつでも動ける構えだ。




 




 「魔法が通じない少女が逃げたって話だよ。帝国も王国も血眼で探してる。


 ……お前、まさかとは思うが、その“当人”じゃないよな?」




 




 エリカは何も言わず、目だけで相手を射るように見据えた。


 その無言が、全てを物語っていた。




 




 「安心しろ。通報する気も、売る気もない。


 ……俺は、誰にも雇われてないし、誰にも従う気はない。


 ただの通りすがりの冒険者だ」




 




 カイルはそう言って、剣を外して地面に置いた。


 手のひらを見せて、火の近くに腰を下ろす。




 だが、エリカは座らない。


 火を挟んだ距離を保ったまま、じっと見つめていた。




 




 「……よく平気で近づいてきたわね」




 「まぁな。あんた、俺を殺す気がないのは見ればわかる。


 でも、俺のことはまだ信じてない。……それも、わかる」




 




 エリカの目がわずかに細まった。


 否定も肯定もしない。


 だがその無言が、今の彼女の答えだった。




 




 しばらくの沈黙のあと、カイルがぽつりとつぶやいた。




 「……人、殺したか?」




 




 「……まだ、してない」




 「しなかった理由は?」




 




 「……自分を、守るだけで精一杯だった。


 それ以上を望んだら、私が私でいられなくなる気がして」




 




 カイルは何も言わなかった。


 火が、ぱち、と音を立てて燃え上がる。




 




 やがてエリカは、ようやくその場に腰を下ろした。


 けれど、剣の届かぬ距離を取ったまま、目は彼を一度も離さなかった。




 




 「……今夜だけ、火を見ててくれる?」




 「もちろん」




 




 エリカは肩の力を少しだけ抜いて、空を見上げた。


 雲の切れ間から、月がのぞいていた。




 




 ──今もなお、彼女の中で「信じる」という行為は、手の届かないところにあった。


 だがそれでも、“利用する”ことはできる。




 




 名もなき少女と名乗る冒険者。


 その夜、二つの影は火の揺らめきの中で、ぎこちなく共に在った。




夜明け前の森は、光のない銀色に染まっていた。




______________________




 ──翌朝




 焚き火の残り火をかき消すように風が吹き抜ける。


 鳥の鳴き声はなく、虫の音も消えていた。




 エリカはそれを、**“静かすぎる”**と感じた。




 




 「……カイル、起きて」




 囁くような声で、それでも十分だった。


 彼は即座に目を開け、手を剣にかける。




 「気配、だな」




 「三体。こっちに向かってくる。速い」




 




 言葉を交わしたのは、それだけだった。




 カイルが剣を抜き、エリカはロングソードを手に取る。


 だが、鞘からは抜かない。まだ“斬る”ことはしない。




 




 木々の間から、暗褐色の毛並みを持つ獣が姿を現した。




 長い爪、赤い眼、噛み砕かれた獲物の骨をくわえたまま唸り声を上げる。




 「……あれは、フォルクウルフ。中型の魔物だ。単体でも厄介なのに、三体かよ」




 




 カイルが一歩前に出る。




 「お前は斬れねえんだろ? なら、俺が囮になる」




 「待って。斬らなくても、止める手はある」




 




 エリカがマントを脱ぎ捨てた。


 その下の戦衣が朝の冷気にさらされ、風にたなびく。




 剣は背に回し、代わりに彼女の足元が、わずかに沈んだ。




 




 魔物が吠える。飛ぶように襲いかかる。




 その瞬間、エリカが地を蹴った。




 




 静かだった。




 音はなく、ただ動きだけがあった。


 すれ違いざまに放った掌底が、魔物の側頭部を弾き飛ばす。




 ごつ、と重い音。


 一体目は空中で回転し、木に叩きつけられて動かなくなった。




 




 続けて、二体目。


 爪を振りかざす動作の内側に踏み込み、逆腕を巻き込んで捻る。


 軋んだ関節音、制圧、そして後頭部に踵が叩き込まれた。




 残る一体が吠えながらカイルに向かって突進するが──




 「悪いな、こっちも元傭兵でな」




 カイルの剣が、地面に叩きつけられるように振り下ろされる。


 だがそれは刃を使わず、ただ“抑えつける”一撃だった。




 




 魔物三体、すべて即死はしていない。


 だが二体は昏倒し、一体は意識をなくした。




 




 「……殺してないのか。あの威力で、よく加減できたな」




 「骨の軋む方向さえ間違えなければ、壊すだけでいい」




 




 エリカはそう言って、肩で息をした。




 




 「なるほどな。……こいつは、噂通りじゃ足りねぇ」




 カイルが火打石で新しい火を起こしながら、ぽつりと呟いた。




 「お前、斬らなくても、世界に風穴を開けられるかもしれない」




 




 その言葉に、エリカは返さなかった。


 ただ少しだけ火の揺れを見つめ、ゆっくりとマントを羽織り直す。




 




 ──その同じ朝。




 帝国軍前線駐屯地では、黒銀の鎧に身を包んだ男が、馬にまたがろうとしていた。




 その名は、ヴァルター・エングレイヴ。


 魔導騎士団第七席。雷属性魔導の使い手にして、“帝国の処刑剣”。




 彼の手には、一通の密命書が握られていた。




 > 《魔導が通じぬ者を発見次第、確保または即時排除せよ。》


 > 《抵抗の有無は問わない。》




 




 帝国の“刃”が、ついに動き出す。


 だがそれは、かつて誰も見たことのない“剣姫”との遭遇の始まりでもあった。

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