第4話 闇討ち、掌底

訓練場の石床に、いまだ乾かぬ血痕が残っていた。




 だがその中央に立つ少女の姿は、奇妙なまでに清らかだった。


 血飛沫すら触れられぬまま、ただ一本の剣を手に、静かに呼吸を整えている。




 彼女は“勝った”。


 魔法も、加護も使わず。


 ただ剣一本で。




 ──それは、王国にとって“祈りのような奇跡”であり、


 帝国にとっては“理の否定”だった。




 




 「……異世界から来た少女が、魔物を一撃で屠ったらしい」




 その噂は、神殿を出てすぐに兵舎へ、街へと広がっていく。


 最初は誇張されたおとぎ話のようだった。




 だが、実際に“見た者”たちは言う。




 「剣の軌跡が、見えなかった」


 「魔法すら効かないらしい」


 「ただ立っているだけなのに、呼吸が浅くなるほどの威圧感だった」




 




 エリカ本人は、それをまるで知らぬまま、支給された部屋で剣の手入れをしていた。




 ……名前なんて、どうでもいい。


 必要なのは、今ここにいる意味。


 役割を与えられたなら、果たすだけ。




 彼女はただ、それだけを考えていた。




 




 一方、神殿奥の会議室。


 幾人かの高位神官が集まり、密談が交わされていた。




 「……精神操作も効かない。魔力も感じられない。だが殺傷能力は高い」


 「異世界人とはいえ、あれは“規格外”だ」


 「このまま“制御不能”と判断されれば、帝国に報告せざるを得ない」




 




 そこに、一人の男が入ってきた。




 漆黒の法衣、無表情のまま冷たい視線を送る高位審問官。


 帝国直属、神殿内でもっとも忌避される“監視者”の一人。




 「……対象の“排除”を、検討すべきかと」




 




 空気が凍った。




 だが、誰も否定できなかった。




 




 “少女は美しく、そしてあまりに危険だった。”




 




 その夜、エリカは夢を見る。


 日本で過ごした日々。


 夕暮れの道場、汗に濡れた道着、仲間の笑顔。


 そして──光に飲まれた、あの交差点。




 遠く、遠く、彼方の記憶。


 もはや戻ることはない場所。




 




 彼女は目を開けた。


 そして静かに呟く。




 「……剣があれば、生きられる。


 なら、私はここで戦う」




 


深夜、静寂。




 窓の外には月が浮かび、城館の空気は肌に貼りつくように冷たい。


 エリカは、まどろむこともなく、壁に背を預けていた。




 ──何かがおかしい。




 感覚でわかった。道場で、裏取りの気配を読む時と同じ。


 耳鳴りのような違和感。空気の揺れ。音の“無さ”。




 (私のいる部屋だけ、“静かすぎる”)




 直後、扉の鍵が「コツ」と鳴った。




 エリカは息を殺し、静かにベッドの影へ滑り込んだ。


 やがて扉がわずかに開く。


 闇の中、黒ずくめの影が二つ──侵入者だ。




 




 刹那、空気が弾けた。




 黒服の一人が短剣を抜いた瞬間、その手首に蹴りが入る。


 骨が砕ける音と共に、男の体が壁に叩きつけられた。




 「ッ、この──!」




 もう一人が振るった刃は、空を切る。


 その腕を、エリカの手刀が下から跳ね上げる。




 「落ち着いて」


 囁くように言って、


 エリカは掌底で喉元を一撃した。




 




 男は呻き声もなく、意識を刈り取られて崩れ落ちた。




 人も、殺していない。




 




 「……殺せば楽。でも、それをしたら……」




 呟きは、自分に向けたものだった。




 




 武器を拾わず、剣も抜かず。


 エリカはふたりの刺客の意識を確認し、窓へ向かった。




 屋根伝いに外へ出る。訓練用の塀、神殿の裏門、巡回の時間。


 全てはこの数日で把握済みだった。




 




 ──自分は、始末される側に回った。




 理解した時点で、迷いはなかった。


 ただ、剣で戦うことと、生き抜くことは別だ。




 それを、彼女は日本での人生から知っていた。




 




 「……逃げるんじゃない。戦場を、選ぶだけ」




 




 静かな足音が、夜の石畳を走る。




 この日、王国神殿の“英雄召喚対象”は姿を消した。


 その報告は、翌朝には帝国へ送られ、


 世界にひとりの“魔法を拒む少女”は、正式に“追われる者”となる。




 




 だが、彼女の目はもう迷っていなかった。




 無銘の剣姫は、


 この世界で“生きる”ための、自分の戦場を探していた。


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