第16話『のりものずかん』

『表面の黒い粒はホクロといい、食べても問題ありません』

今や人類は宇宙の遥か彼方、その隅々にまで進出している。まさにこの瞬間も数万人の地球人を積んだ船が太陽系を離れようとしていた。そこには僕もいるのだが暗い船倉で更に金属缶に詰め込まれては憧れの星の海を見ることも叶わない。次に光を拝むのは宇宙人の食卓でこの缶詰の蓋が開けられる時だろう。



『ガーデニング』

「このお花がお客様のお庭に植わっているところを想像してみて下さい。とっても素敵でしょう」と花屋の娘が余りに美しく笑うから、この娘が僕の家の庭に埋まっているところをついつい想像してしまった。そして思いがけず深い溜め息が漏れた。なんてことだ。それは、とてもとても素敵なことに違いない。



『迷路』

炊事、掃除、洗濯。大抵の家事はするが浴室掃除だけは苦手だ。なのに油断すると直ぐ黴が生える。洗剤とスポンジを手にタイルを磨き始めると、つい夢中になって目地の迷路に迷い込み帰り道が分からなくなる。気づくと壁面を歩いていたりする。一昼夜浴室を彷徨った日もある。自宅で遭難なんて笑えない。



『それもきっと違う』

さっきまで笑っていた君が今は泣いていて、君が泣く理由はきっと幾つもある筈で、それをひとつに決めるなんて僕には出来なくて、その躊躇いが君をもっと泣かせるんだと分かっていても何も言えなくて、それならと手を取って君と見た海がどんなに綺麗だったかを朝まで語り続けるけど、それもきっと違う。



『のりものずかん』

床に落ちたままになっていた子供の絵本を拾い上げる。『のりものずかん』。一昨年の誕生日に僕が買ったものだ。本を開くと最後のページに「どろぶね」とペンで書かれてあり笑う僕の写真が貼りつけてあった。顔を上げ部屋を見渡す。家の中はとても静かだ。どうやら鼠たちはとっくに逃げ出した後らしい。



おまけ

『地獄の鬼』

君があんまり優しく笑って僕の名を呼ぶから、一瞬ここがどこだか分からなくなった。僕は君を誤解していたかもしれない。返事をして軽く手を振り返してみた。「直ぐにここに来たことを後悔させてやる」とびっきりの笑顔はそのままに地獄の鬼が言う。とても良い笑顔だとは思うが、誤解はなかったらしい。

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