ちゃんとした人生を蹴り飛ばしたら、やっとエンジンがかかる

ナナ氏の

序章

彼女の見た私

第1話

 それは、まだ訪れていない夜の出来事。

 あるいは未来の私が感じる、かすかな予兆――



 エレベーターの鏡に映る完成品のような殻が、胸の奥で微かに軋む何かを見つめている。


 仕立ての良いダークスーツ、乱れのないメイク、張り詰めた背筋。どこにも綻びのない、理想的なビジネスウーマンという名の虚像。


 映した姿を凝視するほど、問いが浮かんでくる。

「これは、誰のための私なのだろう?」


 問いは音にならず、答えもまた浮かばない。誰の期待に応えるため、ここまで仕立て上げられた自分を演じてきたのだろう。誰の評価を恐れ、自分の輪郭を削り、塗り直し続けてきたのだろうか。


 作り物めいていればいるほど、鏡の中の私はまるで他人のように見えてくる。違和感と呼ぶには弱く、それでいて無視するにはあまりにも確かな、名付けようのない感覚が心にこびりつく。


 まだ、その正体を言葉にすることはできない。ただ一つ、確信にも似た思いが胸をよぎる。


『私は、ずっと“紫倉しくら凛羽りんは”を演じているのかもしれない』


 心の奥に芽生えた予感に促され、今日という一日の始まりへと歩み出す。



 丸の内の空は、まだ深い藍色を溶かしきれずにいる。午前7時37分。高層ビルの32階、オフィスフロアに足を踏み入れる。


 カードキーをかざすと自動ドアが応え、人工的な冷気が結界のように肌を撫でる。まだ誰もいないフロアは、薄暗い外光と並ぶディスプレイの待機光が交錯する、静謐な空間。


 吸音カーペットがヒールの音を吸い込み、まるで世界から音が消えたかのような錯覚に陥る。この、隔絶された無音の空間が好きだ。


 スチール製のデスクの上では、ホログラムディスプレイが静かに明滅し、市場データを映し出す画面が、まっさらな状態で私の起動を待っている。


 バッグから取り出した薄いノートには、今日のタスクがびっしりと並んでいる。モニターに映る色分けされたスライドや、端正に整えられた表とグラフの並びは、規範の押し付けが生み出した儀式のための経典のようだ。


 空っぽのオフィスには、誰の視線も、声も、期待もない。この時間こそ、一日のうちで最も純粋で、何にも脅かされない、私と処理すべき数字の羅列だけだ。



 仕事は、外資系投資銀行「グレイシャー・パートナーズ・ジャパン」の資本市場部門でアナリストを務めている。


 企業の大型資金調達を組成し、実行を支援する、極めて冷徹な世界。クライアントのIPO戦略、数テラバイトのデータ分析、増資スキームの構築、ブロックディールに関する資料の最終チェック。すべてが英語で、膨大な情報からわずかな瑕疵も見逃すことは許されない。


 社内文化は、徹底した成果主義と効率性を軸に回っている。スラックには感情を削ぎ落とした指示だけが飛び交う。


 誰よりより早くオフィスに入り、誰よりも整然とタスクを処理する。それで、私はこの場所で少しでも自分の存在を感じられるようにしてきた。


「わかっている人間」に見せておけば、とりあえずはうまくやっていける。タイミングよく頷き、当たり障りのない相槌を返す。空気を読む、それだけで十分だ。


 ここでは感情はすべてノイズとして扱われ、数字と論理だけが指標となる。だから、周囲との間に保たれた一定の「温度の低さ」は、私自身が意図して築き上げた防壁に他ならない。


 それが、この世界のルール。私はそう、信じていたはずだった。



 午前8時12分。フロアに人が増え始めた頃、社内チャットの通知が灯る。上司であるアソシエイトからだ。


「先方から条件提示あり。9時までにカウンター案を準備」


 簡潔な指示の裏に、今日中に決着をつけるべき重要案件の熱が見える。即座に返信し、思考を戦闘モードに切り替え、必要な資料を開く。


「紫倉さん、今日も早いですね。相変わらず隙がないというか、この案件は大変ですよね。こちらはまだ頭が回っていないというのに……」


 コーヒーカップを片手に、少し気だるげに話しかけてくる同期の北川さん。悪意はなく、ただの軽い雑談だ。


 モニターから視線を外し、顔をわずかに向ける。口元に薄い笑みを貼りつけ、曖昧に頷いてみせる。それ以上の言葉は、続けない。


 北川さんの目は、私の整えられた髪と、一点の曇りもないスーツ姿を値踏みするように見ているようだ。


 「隙がない」という言葉は、褒め言葉のふりをして私を縛る、見えない鎖のようだ、とそう思う。



 押し付けられた理想像でいること。この世界で生き抜くための鎧であり、同時に他人との間に引かれた見えない境界線でもあった。


 感情を表に出さず、論理的に、効率的に振る舞うこと。期待に応え、誰からも失望されない唯一の方法だと信じようとしてきた。


 大学時代も、就職してからも、常に一定の距離を保つようにしていた。サークル活動に深く関わることもなかった。就職活動では、最も難易度の高い外資系投資銀行を選んだ。


 今でも、人にどう気を配ればいいのかは、なぜか身に染みてこない。誰かが困っていても、頭に浮かぶのは自然と、最も効率的な解決策だけだ。


 感情に寄り添ったり、相手の気持ちを汲み取ったりすることは、どういうわけかいつもぎこちなくなってしまう。だから、最初からその領域には踏み込まないようになった。


課せられた義務感は頼りになる。与えられたタスクは、いつも正確無比に処理されてきた。感情の伴わない空白は、徹底した論理と膨大な知識で埋められてきた。


 毎日が、その繰り返し。


 気持ちを伝える必要はない。相手が納得する理由さえ渡せば、それで事足りると教えられてきた。


 そう、自分に言い聞かせてきたはずなのに。



 気づけば、時計の針は午後11時36分を指している。キーボードを叩く手元だけが、時間の流れを忘れていたらしい。冷え切ったコーヒーが、長い一日の終わりを告げている。まるで、朝の私と今の私が、別の生き物のように思える。


 窓の外には、丸の内のきらめく夜景が広がっている。無数の光。その一つ一つが、誰かの努力や夢の証なのだろうか。


 私もまた、その光の一つになろうと、この場所で日々を過ごしている。心はいだままだ。ただ、目の前のタスクを淡々と片付けるだけだ。


 考えごとを抱えたままエレベーターに乗り込む。微かな浮遊感とともに、私は再び“紫倉凛羽”という鎧をまとい、夜の街へと沈んでいく。


 けれど今の私は、知っている。

 その重い鎧の内側で、まだ言葉にならない違和感が、確かに息づき始めていることを。

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