最終章:静かなる受容、夢の岸辺 🌊

男は、ゆっくりと立ち上がった。

珈琲カップは、空。

テーブルの上には、小さな、しかし、確かな、金銭が置かれている。

私は、彼が去るのを、ただ、黙って見ていた。

何の言葉も交わされないまま、彼の足音が、店の外へ、遠ざかっていく。

ドアが、カシャン、と、静かに閉まる。

その音は、まるで、湖面に、もう一つ、小さな波紋が、消えていくようだ。


店内に、再び、静寂が戻る。

しかし、その静寂は、もはや、開店前の、無垢なそれとは、違っていた。

男が残した、見えない波紋が、まだ、店内の空気に、微かに揺らいでいる。

彼の座っていた椅子を、そっと、元に戻す。

テーブルに残されたカップを手に取ると、まだ、かすかな温もりが、残っていた。

彼の指の跡が、そこには、はっきりと、浮かんでいるように見えた。

それは、湖底に、刻まれた、誰かの足跡のよう。


私は、店の奥の、小さな窓から、湖を眺める。

陽は、すでに西に傾き始め、湖面は、茜色に染まりつつあった。

昼間とは異なる、柔らかな光が、水面を包み込む。

その光の中で、湖は、まるで、生き物のように、深く、ゆっくりと、呼吸している。

私の心も、その呼吸に合わせるように、静かに、そして、深く、息を吐いた。

男が抱えていた、重い澱のような感情。

それが、私の中に、共鳴するように響いたことで、私の内なる湖も、僅かながら、動き出した気がする。


祖父の使っていたマグカップを、そっと、撫でる。

あの時、なぜ、私は、このカップを、彼に出さなかったのか。

もしかしたら、このカップの温もりが、彼の、凍てついた心に、微かな、光を灯したかもしれないのに。

後悔、ではない。

ただ、そうであったなら、という、微かな願い。

湖面に、夕焼けの赤が、深く沈んでいく。

それは、今日一日で、私が感じた、全ての感情の、凝縮された色。


閉店時間。

湖は、いまや、完全に闇に包まれている。

遠くで、水鳥の鳴き声が、響く。

それは、朝の、あの鳴き声とは、違う。

どこか、寂しげで、しかし、希望を孕んだ響き。

私は、湖のほとりに、静かに立つ。

水面は、闇の中で、黒く、しかし、星の光を、微かに映し出している。

私の内なる湖も、同じように、闇と光を、同時に抱えている。

あの男が、次にこの湖畔を訪れる時、私は、何を感じるだろうか。

あるいは、何も感じないかもしれない。

ただ、そこに、静かなる受容が、あるだけ。

水は、流れ、時は、過ぎる。

そして、記憶は、常に、水底で、ゆらめき続ける。

この、夢の岸辺で、私は、また、新しい朝を、迎えるだろう。

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