第三章:交錯する波紋、水底の残響 🌬️
ドアが開く音。
風が、微かに、私の方へ流れてくる。
その風に乗って、新しい、まだ見ぬ人の気配。
私の肩越しに、湖の、光が差し込む。
「いらっしゃいませ。」
声は、いつものように、平坦だった。
まるで、感情の起伏を、どこかに置いてきたかのように。
そこに立っていたのは、一人の男。
背が高く、どこか猫背気味。
着古した、ネイビーのパーカーのフードを深く被り、その下から覗く顔は、ほとんど見えない。
けれど、そのフードの縁から、わずかに、白髪交じりの髪が覗く。
年は、私より、おそらく、二回りも上だろうか。
彼の瞳は、暗く、しかし、湖の深淵のように、何かを吸い込むような力を秘めていた。
まるで、彼自身が、過去の影を、その身に纏っているかのように。
「珈琲を。」
低い声。
その一言は、湖底から響く、重い石のようだった。
彼の周りの空気が、一瞬、凝固したように感じる。
私は、無意識に、祖父の使っていたマグカップに手を伸ばしかけた。
けれど、すぐに、それは間違いだと気づき、別の、白いシンプルなカップを取る。
彼は、窓際の席に、音もなく腰を下ろした。
背を向けた彼の後ろ姿は、湖の向こうに、うっすらと霞んで見える山々のシルエットに、重なる。
エスプレッソマシンが、再び、ヴゥン、と低い唸り声を上げる。
湯気が、立ち上る。
湯気は、まるで、彼の言葉にならない感情が、形となって、空に消えていくようだ。
淹れたての珈琲の香りが、店内に満ちる。
その香りは、彼が纏う、澱んだ空気を、少しだけ、薄める。
私が、ゆっくりと、彼のテーブルへ向かう。
足音は、湖畔の小石を踏む音のように、小さく、静かだった。
カップを置く。
彼の指が、わずかに、カップの縁に触れる。
その指は、節くれ立ち、長年の労苦を物語っていた。
彼の指先から、湖の冷たさが、伝わってくるような気がした。
そして、その奥には、もっと、深い、何か。
過去の、あるいは、まだ終わらない、失意の痕跡。
その時、湖面で、小さな水しぶきが上がった。
それは、まるで、私と、そして彼の間に、新たな波紋が広がり始めた、始まりの合図のように見えた。
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