2.不意の報酬

 桜はすっかり青々とした葉をつけて、季節の移り変わりを教えてくれている。

 少しずつ気温が上がってきていて、少し体を動かすと汗ばむくらいだ。

「依恋さん、この箱はどうすればいいですか?」

「ありがとう。じゃあ、こっちの奥に置いてもらおうかしら」

「はい」

 庭の隅にある倉庫の中。

 ずっと掃除をしていないと困っていた依恋さんを手伝って、土日いっぱいを倉庫掃除に費やしていた。

 やたらと重い段ボール箱を依恋さんの指示通りの場所に置く。

「ご苦労さま、賢哉くん。これでおしまいよ。とっても助かったわ」

「力になれたなら良かったです」

「ふふ、やっぱり男手があると助かるわ。こういうこと、他の人には頼めないから」

「商店街の人たちとかなら、依恋さんがちょっと言えば簡単に手伝ってくれそうですけど」

「もう、賢哉くんまでそんなこと言うのね。私だって、自立した大人なのよ。むやみによその人に頼ったりしないわ」


――いいかい、槙田くん。

 そういえば、あの人はこんなことを言っていたっけ。

――悪女というのは、甘え上手なものだ。

「何かをねだるのが得意ってことですか?」

 僕がそう返信すると、「もう一歩進んだ視点を持つべきだね」とあの人は言った。

――甘え上手というのはね、相手の心を上手にくすぐることができる人を指すんだ。

――つまり、相手が気持ちよく「あなたのための行動」ができるような甘え方をするのが重要なんだ。人は誰かのためになることを好むが、利用されるのを嫌う。利用されていると感じれば心が離れてしまうものだ。悪女とは、それと気づかせずにうまく相手を転がし、利用することができる人間のことなのさ。


 あの人の言う悪女の条件に、依恋さんは悪女の特徴に当てはまらない。

 悪女荘には六人の悪女がいると思っていたけれど、どうやらここにいる悪女は五人だけらしい。いや、それでも充分多いのだけれど。

……そして、目下のところ僕の「運命の女の子」たる悪女はたったひとりなのだ。

「お茶を淹れてあげるわね。雪世ちゃんのご実家からいただいた美味しいお茶があるの」

「ありがとうございます」

 額に浮いた汗を拭いつつ、依恋さんのあとに続いてリビングへ向かう。

 うららかな日差しがリビングいっぱいに降り注いでいる。

 悪女荘内はいつになく静かだ。

 リビングに顔をだしたらもれなく倉庫掃除の手伝いをさせられると悟った寮生たちが部屋に引っ込んだり出かけたりしているためだろう。

「倉庫にある荷物って、叔父さんのものなんですか?」

 気になって尋ねると、依恋さんは少しさみしげに首を横に振った。

「彼の部屋は全部そのままにしてあるの。倉庫にあるのは、お祖父様やひいお祖父様……建物を建て替えるずっと前からあるものだから、彼のものはないと思うわ。彼がここに住んでいたときは、倉庫の中のものの管理は彼がやってくれていたから、もしかしたら彼の置いたものがあるのかもしれないけれど」

 荷物がそのままになっているということは、依恋さんはまだ叔父さんを待っているのだろう。そう思うと切ない。

「だからね」と依恋さんが呟くように言った。

「賢哉くんが一緒に倉庫のお掃除をしてくれて、嬉しかったのよ。昔に戻ったみたいで……だから、ありがとう」

「そう言ってもらえてよかったです」

「だからね、今日のお礼に、渡したいものがあるのよ」

 依恋さんはエプロンのポケットから二枚の紙片を取り出た。

「これは……水族館のペアチケット、ですか?」

「ええ。この前、町内会長さんがくださったの。もうすぐ連休だから、お友達を誘って行ってみるのはどうかしら」

「いいんですか? 依恋さんが胡箱ちゃんを連れていってあげたほうが……」

「胡箱は、春の遠足でもうすぐここへ行くことになってるの。だから遠慮しないで、もらってちょうだい」

「そういうことなら、ありがたくいただきます」

 誘うとしたら、誰がいいだろう。

 まっさきに顔が浮かぶのはジュンタや藤乃さんだけど……。

 でも、もしも那須さんが僕の「運命の女の子」なら彼女を誘うべきかもしれない。

 僕がこの寮に来た目的は、「運命の女の子」を悪女の道から救うこと。だから今は那須さんと関わることが最優先だ。

「賢哉くん、覚えてる?」

「えっ?」

「ほら、昔詩子ちゃんとふたりでこっちに遊びに来ていた時、一緒に行ったことがあるのよ。夫と四人で……」

 叔父さんがまだ失踪する前は、妹――詩子とふたりでよく依恋さんの元に遊びに来ていた。その頃の話だろう。

「そういえば……そんなことも、あったような……?」

「ふふっ、覚えてないのね? 残念だわ、とっても素敵な思い出なのに」

「すみません……」

「奏多ちゃんは興味がないって言うから、四人で行ったのよ。奏多ちゃんのご両親に胡箱を預かってもらって……」

「那須さんがいたってことは……水族館に行ったのも八年前なんですか?」

「ええ、そうよ」

 八年前にそんなことがあったなんて、少し引っかかる。

 何も覚えていない自分にも違和感を覚える。八年前といえば、僕は七歳くらい。何か覚えていったって不思議ではないのに……。

「ふーん、水族館かぁ」

「おわっ!?」

 耳元で声がして、椅子から飛び上がる。

 体勢を崩した僕の手から、ひらりと二枚のチケットがすり抜けた。

「初デート先としては、ベタだけど絶対距離が縮まる良いチョイスだね」

「ま……真宙先輩、いつの間に?」

「お茶の良い香りがしたから、ついさっき降りてきたんだー」

 直前までベッドでごろごろしていたのだろう。ほぼ下着姿の真宙先輩が、嬉しそうにチケットをひらひらさせている。

「楽しみだね、槙田クン。いつ行く? 私はいつでもいいよ。待ち合わせは駅前がいいよね、一緒の家から向かうのもエモいけど、デートはやっぱり待ち合わせのドキドキからはじめないとねぇ♪」

「真宙先輩を誘う前提で話が進んでますか?」

「えー? 違うの? じゃあ誰を誘う気なのかなー?」

「いや、それは……」

「タダなら行ってあげてもいいわよ。ここ、最近SNSで話題になってて気になってたのよね」

 僕を挟んで反対側から伸びてきた手が、真宙先輩の持つチケットを抜き取った。

「風見さんまで、いつの間に!?」

「ついさっき降りてきたのよ」

 けろりと答えて、早速チケットをしまおうとする。

「あらあら、ふたりともだめよ。それは、賢哉くんにお手伝いのお礼としてプレゼントしたものなんだから。誰を誘うかは、賢哉くんが決めるの」

「そういうことだから、返してもらうぞ」

 風見さんの手からチケットを取り返す。

「じゃあ誰を誘うわけ?」

「だから、まだ決めてなくて……」

「それならあたしでもいいじゃない」

「えー? 私も行きたいなぁ」

 両側から二人が迫ってくる。

「ふふ、賢哉くんたらモテモテねぇ」

 依恋さんは微笑ましそうに僕らを見ている。まあ、入寮当初には考えられなかった光景だから無理もない……のか?

 僕としては、また面倒ごとが起きそうでおびえざるをないのだけれど……。

「そーゆーことならぁ……私、いいこと思いついちゃった♪」

 真宙先輩がにやりと笑う。

 ほら、絶対厄介なことになるぞ。

 想像するだけで疲労感がずっしりとのしかかってきた。

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