聞こえますか

朱音すい

プロローグ

あの日、あの場所に、りゅながいたのは偶然ではなかった。

渋谷のビルの吹き抜けを彩っていたはずのクリスマスツリーは、今では真っ赤な血と硝子の破片にまみれた悲劇の象徴として、私の記憶に焼きついている。

私は何もできなかった。ただ、恐ろしさに足がすくみ、頭の中が白いノイズに支配されたように、立ち尽くすことしか。りゅなは、私の腕から滑り落ちるようにして、人々の悲鳴の中に消えていった。

「りゅな…起きてよ。」

何度も呼びかけた。だが、私の声は彼女に届かなかった。

あの事件から二年。感覚的には十年が過ぎた気がしている。りゅなは奇跡的に一命をとりとめたものの、意識は戻らなかった。私は毎日、病院に通い、彼女の枕元で語りかける。それはもう、習慣になっていた。私たちが育った孤児院に親はいなかったから、りゅなを見舞うのは私だけだ。

「りゅな。今日は天気がいいんだよ。窓から空が見えるよ」

そう語りかけても、答えはない。わかっている。それでも、こうしているうちに、いつか彼女が目覚めてくれるかもしれないと、愚かな希望にしがみついているのだ。

「ねえ、りゅなは、辛い?」

重い空気が満ちた部屋に、私の声だけが響く。りゅなが辛くないはずがない。私は知っている。もうこれ以上、彼女に苦しい思いをさせるくらいなら、いっそ治療をやめたほうがいいのではないか。そんな考えが、ふとした瞬間に頭をよぎる。しかし、そんな殺すような選択を、私には到底できなかっ

た。

私は、ぐっしょりと汗ばんだ手を握りしめ、静かに立ち上がる。

「…またね」

部屋を出るとき、私はもう一度だけ振り返り、手を振った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

聞こえますか 朱音すい @anpontan1031

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る