第2話 幽霊少女、現る
心電図モニターから漏れる淡い光のなかに――
ふわりと浮かぶ、白衣の少女。
「私のことが見える人、久しぶり。
……ちょっと嬉しいかも」
彼女はにっこりと微笑んだ。
俺は、驚きと混乱のまま、立ち尽くしていた。
(目の前に現れた白衣の少女。
透き通るような水色の長い髪に、青みがかったワンピースをまとい、白衣を羽織っている。
背は小さく、細い手足にあどけない顔立ち――どう見ても、小学生くらいにしか見えない。)
夜の病棟に、どうしてこんな子が――?
俺は、ぎこちなく口を開いた。
「……君、小児病棟から抜け出してきたのか?」
その言葉に、少女は、きょとんとしたあと――
「あなたには、私が子どもに見えるわけ?」
ぷぅっと頬をふくらませた。
「これでも28歳の女性なのよ。
まぁ、死んだときから年取ってないから、見た目はこのままだけど……」
(……え? 今、“死んだとき”って言った!?)
パニックになりかける頭を抱えながら、俺は必死に言葉を絞り出す。
「いや、その、あの……あなた、一体……誰なんですか?」
すると少女は、ふわりと白衣の裾を翻しながら、軽くお辞儀をした。
「私はカレン。元・天才循環器内科医。
心電図と、患者さんと、静かな病棟が大好きだったの」
(え、天才?……って自分で言っちゃうんだ。いや、それより…)
「元って……どういうことですか?」
「だって、もう生きてないもの」
あっさり言われたその一言に、俺の背筋が凍る。
「まぁ、今は――ただの“心電図マニアの幽霊”ってところかしら。
でも安心して。あなたに危害を加えるつもりはないわ」
カレン医師は、ふわりと手を組みながら、キラキラした目で語りはじめた。
「ねえ、あなた。心電図って、好き?」
「……え、まぁ、どっちかっていうと……苦手です」
その瞬間、彼女の目が、ほんの少しだけ寂しそうに伏せられた。
「そっか……苦手、なんだ」
でも――
次の瞬間、彼女はぱっと顔を上げて、まるで太陽みたいな笑顔を浮かべた。
「でも大丈夫! そんなあなたにこそ、心電図の魅力を教えてあげたいの!」
「心電図ってね、今から100年以上前にアイントーベン先生が考案したの。
電極を手足につけて、人間の“電気”を初めて捉えたのよ!?
※電極(でんきょく)…心電図をとるときに使うシールのこと。
“アイントーベンの三角形”って聞いたことあるでしょ? あれの生みの親!
※アイントーベンの三角形:手と足をつないだ“見えない三角形”で、心臓の電気をキャッチするしくみ!
P波とかQRS波とか名前をつけたのも彼。これ、マジで歴史的偉業!」
「へ、へえ……(やばい、この人、オタクだ)」
「今の12誘導心電図も、当時の原理がそのまま使われてるの。まさに先人の叡智の結晶!
しかも体に負担がかからず、患者さんにやさしい検査。電極を貼っておけば、いつでも心臓の動きが確認できるって、すごくない!?」
心電図を見れば、心臓の状態がわかる。命のリズムが読み取れるのよ?
こんなロマンチックなもの、他にないわ!」
(……やばい、この女、完全に心電図オタクだ。それも、“心電図”という、医療界きってのマニアックジャンルの……これは絶対に関わっちゃいけないやつ)
「そ、それじゃあ……俺、仕事に戻るんで……」
そっと後ずさろうとしたそのとき、彼女が言った。
「ちょっと、あんた! この私がこんなに心電図の素晴らしさを教えてあげようとしてるのに、去ろうとする気?」
「いや、あの、今は仕事中ですし、患者さんのことが心配なんで……」
カレン医師は少しだけしゅんとしたあと、小さくうなずいた。
「……そう。患者さんのためなら、仕方ないわね」
ほっと息をつく俺。
だが、そのとき――
「じゃあ、決まりね!」
「……え?」
「あなたに、憑いてあげる。特別に」
「いや、お願いしてないですけどー!?」
「いいのいいの、遠慮なんてしないで。
これからは私が、あなたの“心電図力”を底上げしてあげるから♪」
「え、いやいやいや、俺そういうのマジで無理なんで……なんかこう、そういうの信じてないんで……!」
「ふふっ、もう遅いわよ? だって――“見えちゃった”んだから」
「いや、見えたくなかったって!!」
「まぁまぁ、ガタガタ言わないの。
これはね、運命なのよ。サイナス波形みたいに、規則正しく、ね?」
※サイナス波形…洞調律の別名。心臓が正常なリズムのときの波形のこと。
「例えが意味わからん!」
にこっと笑った次の瞬間、カレン医師の姿が、すっとかき消えるように消えた。
「……え? いない? え、どこいった? マジで消えた!? なんなんだよもう……!」
⸻
あまりの出来事に混乱しながら、俺はフラフラとナースステーションへ戻った。
ナースステーションの扉をくぐった瞬間、足元がぐらつくような感覚に襲われた。
(……今の、なんだったんだ? 本当に、見たのか? 話してたのか?)
脳の奥がじんじんして、現実と夢の境目が曖昧になる。
とにかく――落ち着け。
何か、現実に戻れる行動をしろ。
気がつけば、手元にインスタントコーヒーのスティックを握っていた。
手が震えているのが、自分でもわかる。
紙コップにお湯を注ぎ、熱いコーヒーを口に運ぶ。
喉を通った瞬間、かすかに頭が冴えた……気がした、そのとき――
「……あなた、いったいどこでサボってたの?」
背後から、氷のように冷たい声が突き刺さる。
びくっとして振り返ると、そこには――
お局ナース・氷室さんが立っていた。
腕を組み、鋭い視線でこちらを睨みつけている。
眉間には、いつにも増してくっきりとした皺が刻まれていた。
「す、すみません……ちょっと、見回りしてて……」
なんとかごまかそうとしたけれど、視線の圧に負けて、口が勝手に動く。
「……で、その途中に、あの、倉庫の前を通ったら、ちょっとモニターが動いてて……
それで気になって中を見たら、いつの間にか……その……時間が……」
自分でも何を言ってるのかわからなくなっている。
「へぇ、なるほど。つまり――倉庫で一時間、サボってたってことでいいわけね?
それなのに、しれっと戻ってきて、コーヒー飲んでるってどういうつもり?」
「い、いえ、本当に……幽霊が出たというか、心電図が光ってて……あの、小さい女の子が……」
「……は?」
氷室さんの目が一瞬だけ見開かれ、すぐに呆れたようにため息をついた。
「寝不足で幻でも見た? そうじゃなきゃ、メンタルがもう限界かもね。
とりあえず、次の患者さんのバイタル、行ってちょうだい」
※バイタル:体温・血圧・脈拍・呼吸などの数値を測定しにいくこと。
「……はい……」
⸻
(……夢だったのかな)
その後の業務は、散々だった。
血圧を測り忘れて報告が遅れ、点滴のラベルを取り違えそうになり、
患者の名前を呼び間違え、記録も確認不足で2回やり直し。
どれも普段なら絶対にしないような、初歩的なミスばかり。
「ちょっとアンタ、今の斎藤さんと西郷さん、逆よ! 何やってんのよ!」
「……すみません……」
冷たい氷室さんの声すら、どこか遠く感じる。
(……ダメだ。もう、無理かもしれない……)
⸻
夜勤明けの頃には、俺のHPはゼロに近かった。
心も体もズタボロで、誰とも話したくない。
ここから消えてなくなりたい――そんな気持ちだった。
でも。
あの少女の姿をしたカレン医師は、それきり現れなかった。
(やっぱり、あれは夢だったのかも……)
そう思いながら、帰る前にふと倉庫の前を通ってみた。
何気なく扉を開けると、中はひっそり静まり返っている。
もう光も漏れていないし、あの不思議な気配も感じない。
恐る恐る中をのぞく。
古びた棚、積み上げられた段ボール、壁際にぽつんと置かれた心電図モニター――
やっぱり誰もいない。ただの、古い倉庫だった。
(よかった……なんだ、やっぱり夢だったのかも)
胸をなでおろそうとした、そのとき――
『――また今度ね』
突然、心電図モニターから、あの声が響いた。
「……っ!? うわっ!」
思わず声が漏れる。心臓がバクバクする。
でも、どこを見ても誰もいない。
モニターも、さっきと変わらず静かにそこに置かれているだけ。
けれど――たしかに聞こえた。あの、ちょっと偉そうで、妙に明るい声が。
「……マジかよ。夢じゃなかったのか……?」
なんとか立ち上がりながら、俺はため息をついた。
「いやいや……これ、憑かれてるってこと? 俺、これから大丈夫なのか?」
答えは返ってこない。
でもなんとなく、あの声がまた聞こえる気がして――俺はそっと、倉庫の扉を閉めた。
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