蒼と鼓動〜命の線を読む夜〜

DONDON.

第1話 その倉庫、夜は行っちゃダメらしいよ?

 この物語に出てくる「心電図」とは、心臓のリズムを“線”で映し出す、実況中継のようなモニターです。

 線はしっかり記録されますが、それを見て「何が起きているのか」を読み解くのは、医療のプロでも難しい。

 でも、ちゃんと読めるようになれば――とても頼りになる、大切な道具なんです。


 ⸻


 ここは――神奈川県にある、市立の総合病院。

 地域の中核として、それなりに忙しく、それなりに古びた病院だ。


 だがこの病院には、ひとつの“都市伝説”がある。


 「真夜中、誰もいない倉庫で――電源の切れた心電図モニターが、ひとりでに起動する」

 「そして、その画面には……誰かの“顔”が映る」


 本気で信じてる職員はいない。

 でも、誰もが“なんとなく”その倉庫を避けている。


 冗談みたいな話。ありえないって笑う人もいる。

 けれど――もしそれが、本当に“起きてしまった”としたら?


 これは、そんな夜の話。


 ⸻


  夜勤中の病棟は、しん……と静まり返っていた。

 廊下の奥にある、誰も使わなくなった倉庫。


 その夜、新人ナース・葛城蒼真は、“まさか”に出会ってしまった。


 ***


 「俺の名前は、葛城蒼真。二十一歳。

 今年からこの病院の循環器病棟に配属された、新人ナースだ」


  循環器病棟――それは、心臓の病気を診る場所。

 急変は多いし、薬の名前はやたら長くてややこしい。


 「ぶっちゃけ、“めちゃくちゃ大変な病棟”だ」


  よく言われる。「希望して入ったの?」って。

 いや、してない。配属されたから来ただけ。


  でも……すぐに後悔した。

 だってこの病棟には、“心電図”があるから。


(回想:モニターにギザギザの線。青ざめる蒼真)


 「心電図――それは、心臓の動きを線で表したもの」


  その“線の形”のことを、「波形」と呼ぶ。

 そしてこの波形を見て、「正常か」「異常か」を判断する。


 ……それが、とんでもなく、難しい。


 「ちょっと線がギザついただけで『これヤバい!』とか言われるし、

 何をどう見ればいいのか全然わからない。

 出てくる言葉は全部、謎の専門用語」


 もう無理。波形アレルギー発症中。


 「勉強しても頭に入らない。わからないと怒られる。

 それなのに、読めて当然みたいな空気――」


 「……なんで俺、ここに来ちゃったんだろうな」


 ***


 今日は夜勤だ。16時から翌朝9時までの、約17時間勤務。


 ただでさえ過酷なのに――今日は“あいつ”もいる。


 そう、お局様・氷室さんだ。


 夕方から夜へ、病棟の照明がゆっくり切り替わる。

 俺はナースステーションで、心電図モニターをにらみつけていた。


(P波……このQRS波、幅広いような……いや違う?)


 ※P波・QRS波...心臓が「動いてるよ」って教えてくれる心電図のサイン。


 頭の中の思考がどんどん崩壊していく。

 波形が全部ギザギザして見えて、もうパニック。


 そのとき――背後からねっとりとした声。


「ねぇ、それ、洞調律に見える?」


 ※洞調律...心臓が正常なリズムのときの波形のこと。

 

 ビクッとする俺。

 振り返れば、氷室さん。


(出た……お局ナース・氷室さん!!)


 看護師歴20年。

 ナースステーションで座ってばかり。

 若手ナースをいびるのが趣味の、“お局様の鑑”。


「こんなのもわからないようじゃ、循環器は厳しいわよ?」


(あー……また始まった……)


 氷室さんは、心電図にだけやたら詳しい。

 俺がモニターを見ていると、必ずマウントを取りに来る。


「このQRS幅、何ミリだと思ってるの?

 PQ間隔すら測れないんじゃない?」


 ※QRS幅...心臓が「ドン!」と動いた時間。

 ※PQ間隔...心臓が「よーい、ドン!」の「よーい」の部分。


「あっ……いえ、すみません……。勉強はしてるんですけど、

 なかなか頭に入らなくて……」


「言い訳はいいの。

 最近の新人は本当にダメね。

 昔はね、心電図なんて自力で覚えて当たり前だったのよ。

 私なんか新人の頃は――」


(……来た。“氷室式・根性論講義”)


 これはヤバい。地獄の小一時間コース!


 そのとき――


 ピンポーン


 ナースコールが鳴った!


「すいません氷室さん、ナースコール対応行ってきますっ!」


 俺は、踵を返して脱兎のごとくその場を逃げ出した。


「ちょっと!話はまだ終わってないわよ!!」


 ***


(……なんで心電図だけで、こんな怒られ方しなきゃなんないんだ)


 ため息をつきながら、廊下を歩く。


 でも、心の奥で静かに芽生える思い。


(……いつか絶対、“知識マウント”返してやる……!)


 ***


【妄想ワールド開幕】


 ナースステーション。

 例の波形を指差して、氷室さんが言う。


「ふふっ。さすがにこれが心房細動だってことくらい、わかるわよね?」


 ※心房細動...放っておくと危ない心臓のサイン


 だが、俺はスッと前に出て、キリッと指を伸ばす。


「いえ、それは違います。

 この波形は――**Torsade de Pointes(トルサード・ド・ポアント)**です」


 ※トルサード・ド・ポアント...今すぐ対応しないと危ない心臓のサイン


 氷室さんの顔がピキッと固まる。


「な、なにぃっ……!?」


 俺は、冷静に語り出す。


「QRS波が基線を中心にねじれるように変化しているうえに、QT間隔の延長も明らかです。

 これは、明らかにトルサードですね」


 ※ QT間隔...心臓が「ドン!」と動いて、元に戻るまでの時間


「トルサード・ド・ポアントは多形性心室頻拍の一種で、QT延長がある患者に起こりやすい。

 この波形は、まさにその典型例です」


 ※多形成心室頻拍...すぐに対応しないといけない"危険な波形たち"


 氷室さんが、ガクンと膝をつく。


「ま、負けたぁーーーッ!!」


 僕は、モニターの前で仁王立ちになった。

 髪が風になびく。サラァッ――!


「“マウント返し”完了です、氷室先輩」


(ドォォンッ!)


 ***


 ――現実に戻る。


(まぁ……そんな日が来るとは、思えないけどね)


 ***


 ナースコール対応を終えて戻ろうとしたそのとき、またあの声が、廊下の奥から響いてきた。


「ちょっと、新人く〜ん? まだ話は終わってないわよ〜?」


(やっべ、探してきた……!)


 僕は走った。

 向かった先は――誰も来ない“あの倉庫”。


 ***


 倉庫の中は、薄暗く静かだった。


 古い医療機器と、埃をかぶった段ボールの山。


(ここ、最強の隠れ家……!)


 段ボールの隙間に腰を下ろして、息を整える。


(先輩たちの中には、“このあたりで幽霊を見た”なんて人もいるけど……

 僕はそういうの信じてない。

 だからこの倉庫、けっこうお気に入りなんだ)


(――氷室さんの目から逃れる、静かな避難場所)


 小さくため息をついて、ポケットのメモ帳を放り投げる。


(はあ、ほんと疲れる……)


 ぼんやりと倉庫内を見渡すと――ふと目に留まったものがあった。


「あれ……?」


 倉庫の奥。

 少し埃をかぶった“12誘導心電図モニター”。


 ※12誘導心電図(じゅうにゆうどうしんでんず)

 …心臓をいろんな方向からくわしく見ることができる特別な心電図。

 読みとるのはかなり難しいけれど、すごく役立つ検査。



「病棟にはもっと新しいのがあるのに……なんでこんなの、まだ置いてるんだ?」


 ジッと見つめて、ため息。


「……いやいや、心電図とか、もう考えたくないってば」


 そのときだった。


【ピッ……】


「……は?」


 誰も触っていないのに、心電図モニターが起動した。

 赤いランプがふわりと灯る。


「押してない!押してないぞ、俺!!」


 画面に、じわじわと波形が映りはじめる。


「うわっ……!波形!?な、なんで!?

 誰もつないでないのに……なんで映ってんの!?」


 そのとき――声が聞こえた。


「それ――あなたの心臓の動きよ」


 どこか優しくて、嬉しそうな、少女の声。


「Ⅰ、Ⅱ、aVFと、V4〜V6誘導でP波が陽性。

 aVRでは陰性……ふふっ。典型的な“洞調律”ね」


 ※Ⅰ、Ⅱ、aVF、V4〜V6、aVR...心電図で見る、いろんな角度の線。


「脈拍は……だいたい150回/分。これは、“洞性頻脈”よ」


 ※洞性頻脈...心臓が速く動いているサイン


「……え?」


 ゆっくりと、僕は後ろを振り返った。


 ***


 心電図モニターから漏れる淡い光のなかに――

 ふわりと浮かぶ、白衣の少女。


「私のことが見える人、久しぶり。

 ……ちょっと嬉しいかも」


 少女はにっこりと微笑んだ。


 僕は、驚きと混乱のまま、立ち尽くしていた。


(この瞬間、確かに思った)


 これは夢だ。幻覚か、悪い冗談か――


 でも。


(これが、僕と“少女”の出会いだった)


(そしてここから――)


(僕の“非日常”が始まった)


(まさか、心電図で人生が変わるなんて……

 このときの僕は、まだ想像もしていなかった)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る