第2話

 ——彼女が消えた日——


 その日も変わらず、職場の朝は静かに始まった。だが、彼の中には少しだけ特別な感情があった。


 ──今日は、打ち合わせの日だ。


 初回の商談の後、次回の訪問予定はすでに設定されていた。もちろん社内の進行に従って対応するだけのはずだったが、それでも彼は、もう一度彼女と向き合う瞬間を、どこかで意識していた。蛍光灯の白い光の下、彼はいつものように席につき、メールの未読を処理しながら、コーヒーの香りに思考を委ねていた。


 けれど、その日の打ち合わせ相手を聞いたとき、思わず顔を上げてしまった。


「今日の午後の来訪、○○商事さんですけど……今回は別の方がいらっしゃるみたいです」


 隣の同僚が、軽くメモを見ながら言った。


「佐原さんじゃないんだ?」


 言葉が口をついて出た瞬間、彼の中で何かが微かに崩れた。前回のやり取りで連絡先を交換したものの、それ以降、彼女からの連絡はなかった。とはいえ、あくまで業務の枠の中。次の訪問で自然に顔を合わせる──それだけのことだと思っていた。


「うん、若い男性の名前だった。異動かな?」


 異動。ありふれた言葉だった。だが、その響きが妙に引っかかった。彼は確認のため、デスクの引き出しから名刺ホルダーを取り出す。名刺は、あの日の雨の午後に交換したまま、まだそこに残っていた。「営業部 主任 佐原奈津美」。黒字の明朝体で整えられたその文字列が、突然、少しだけ遠いものに思えた。


 異動──そうであればいい。


 だが、午後の会議室で目にした○○商事の若手社員は、名刺を差し出しながらあっさりと口にした。


「前任の佐原は、先月で退職しました。ちょっとトラブルがあったみたいで……詳細は私も聞かされてないんですが」


 トラブル。


 その言葉に、背中を冷たいものが走った。彼はただ頷き、応対に集中するふりをした。会議は滞りなく進んだが、彼の意識は上滑りしていた。


 ──あの日の笑顔が、彼の中で微かに揺れていた。


 終業後、帰り支度を整えた彼は、ふとポケットからスマートフォンを取り出す。名刺に記された携帯番号は、すでに使われていなかった。メールもエラーで返ってくる。会社の公式サイトにある社員一覧にも、彼女の名前は消えていた。


 突然、いなくなった。そんな印象だった。


 駅までの帰り道、秋の風がビルの谷間を吹き抜けていく。夏の残り香はすでに消え、乾いた空気がシャツの袖を冷たく撫でた。彼は意識せず、あの日と同じ高架下へ足を向けていた。そこにはもう、誰もいなかった。もちろん、それが当然だとわかってはいた。けれど、そこに立つと、不思議とあの日の湿度や、彼女の気配まで思い出されてくる。雨上がりの匂い。濡れたブラウス。控えめな笑みと、軽やかな足取り。名乗りもせずに別れた、静かな余韻。


 ただの取引先──そう割り切ることはできた。けれど、初めて出会ったあの日から、彼の中には確かに焼き付いてしまったものがあった。


 まるで、心に小さな空洞を残していったような出会いだった。それが最初で最後だったのか──そんな予感すら、どこか現実味を帯びていた。


 その夜、彼はふとした拍子に名刺ホルダーを手に取った。紙の質感は変わらないのに、そこに刻まれていた名前が、どこか儚く感じられた。雨と共に出会い、そして、風のように消えていった彼女。


 翌朝、彼は静かに名刺ホルダーを閉じた。それだけで、ひとつのページが終わったような気がした。

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