第5話 綻びる理想と産まれ落ちた穢れ

 ムカゴの魂の叫びは、反撃の狼煙だった。


 最初に動いたのは、一体の岩鬼いわおにだった。咆哮と共に全身の筋肉を膨張させ、神鎮石の枷を砕き割る。その衝撃が合図となった。風を操る鎌鼬が自らの起こしたつむじ風で鎖を断ち切り、沼の主であった大鯰は、その巨体で檻をなぎ倒す。解放された妖怪たちが、次々と己を縛り付けたレンゲ団の団員たちに牙を剥いた。


「な、何が起きている!? なぜ神鎮石が効かぬ!」


 祭壇の上で、首領が驚愕に目を見開く。彼が絶対の自信を持っていた支配の道具が、妖怪たちの「生きようとする意志」の力の前にもろくも崩れ去っていく。


「今だ!」


 ミズブキが好機を逃さず、団員たちの陣形に斬り込む。彼の太刀筋は荒々しいが、一撃一撃が重い。一方、セッコウの動きは流麗だった。彼は敵を斬り伏せるのではなく、刀の峰や鞘を巧みに使い、急所を打って的確に無力化していく。その太刀筋には、無益な殺生を避ける彼の信条が表れていた。


 混乱の中、ムカゴは祭壇へと向かっていた。彼女の周りには、最初に解放された数体の妖怪たちが、まるで守護者のように寄り添っている。肩の上の糸繰は、常に周囲を警戒し、危険を察知すると銀色の糸を弾いてムカゴに知らせた。


 ついに、ムカゴは祭壇の階段を上り、狂信的な理想を掲げる男と対峙した。


「貴様か……。貴様がこの者たちを扇動したのか、小娘!」


 首領の顔が、怒りと憎悪で醜く歪む。


「何故だ! 何故我々の邪魔をする! 我らは、この世から悲しみを無くそうとしているのだ!化獣に家族を奪われる絶望も、妖怪に怯えて暮らす恐怖も、全てを終わらせるための、聖なる儀式だというのに!」


 その叫びは、悲痛な響きを帯びていた。この男もまた、かつて穢れによって何かを失った人間なのだと、ムカゴは直感した。だが、


「……違う」


 ムカゴは、静かに首を横に振った。長く隠れていた貌を、今はっきりと上げて、首領の目を見据える。


「悲しいからって、全部なくしていい理由にはならない。怖いからって、全部支配していいことにはならない」


 それは、旅に出て、様々な妖怪や人と出会い、世界の広さを知った彼女がたどり着いた答えだった。


「あなたは、ただ自分の悲しみを、世界に押し付けているだけ。自分の弱さを、妖怪のせいにしているだけだ」


「黙れ!」


 首領が逆上し、懐から取り出した短刀をムカゴに突きつける。だが、彼が動くよりも早く、ムカゴを守るように寄り添っていた岩鬼がその腕を掴み、軽々と捻り上げた。


「オオオオオオオオォォォ……」


 祭壇の中心、神鎮石の巨大な器から、不気味な呻き声が響き渡った。儀式は中断されたはずだった。しかし、注がれかけた妖怪たちの生命力、首領の歪んだ執念、そして旧都の強大すぎる霊脈が、制御を失ったまま混ざり合い、おぞましい何かを形作り始めていた。


 神鎮石の器に亀裂が走り、中から黒い泥のような「穢れの塊」が溢れ出す。それは、もはや特定の形を持たない。ただ、周囲のありとあらゆるものを喰らい、取り込もうとする純粋な破壊衝動の集合体。首領が創り出そうとした『新らしきシキ神』の、見るも無残な成れの果て。究極の化獣だった。


「あ……あ……」


 自らが産み落としたモノを前に、首領は腰を抜かして立ち尽くす。化獣は、産みの親である彼に真っ先にその触手を伸ばした。


「危ない!」


 ミズブキが叫び、ムカゴを突き飛ばす。セッコウもまた、咄嗟に印を結び、防御の障壁を展開するが、溢れ出す穢れの奔流の前には、気休めにしかならない。

 

 旧都の空が、穢れによって急速に闇に閉ざされていく。妖怪も、レンゲ団の人間も、誰も彼もがその圧倒的な存在を前に動きを止めた。世界の理が、今まさに目の前で喰い尽くされようとしていた。


 ムカゴは突き飛ばされた勢いで地面に倒れ込みながら、その絶望的な光景を見上げていた。彼女の脳裏に、これまでの旅路がよぎる。虫の妖怪とだけ遊んでいた小さな部屋。ミズブキの屈託のない笑顔。蜻蛉沼の静かな水面。朱鷺鉄の町の喧騒。そして、今まさに自分を庇おうとしてくれている仲間たちの姿。


 守りたい。


 その想いが、彼女の中でかつてなく強く燃え上がった。


『糸繰』


 ムカゴは、肩で震える小さな友人に、心で呼びかけた。


『お願い。私の全部を、繋いで』


 それは、一つの賭けだった。だが、もうそれしか残されてはいなかった。糸繰は主の覚悟を悟り、一声高く鳴くと、その小さな体から、今まで見たこともないほど太く、そして白銀に輝く一本の糸を、天にそびえる穢れの化獣へと向かって、まっすぐに放った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る