第2話 追う者たち②

#第2話 追う者たち②



雑踏の中、靴音がやけにうるさく響く。


堀井はただ、走った。

ひたすらに、足を前へ。


酸素が喉を焼く。

心臓が暴れ、肺が悲鳴をあげる。

それでも、背後を振り返る余裕なんて、もうない。


(……撒け。撒かないと……俺は──どうなるか、)


視界が滲んでいた。

照り返しの強いアスファルトが、蜃気楼のように揺らぐ。


もつれそうになる足を、歯を食いしばって持ち上げるたび、

頭の奥で、誰かの怒鳴り声が反響する。


「余計なの、連れてきたな」──


──その一文が、ずっと脳裏に張り付いている。

通知越しの“あの人”の声が、耳にこびりついて離れない。


そして、その直後に届いた、もう一通。


──“お前とは、ここまでだ。”


たった十文字。

なのに、喉の奥が締めつけられるような痛みが走った。


(違う。違う、俺はまだやれる。

こんなとこで終わってたまるか……!)


願いにも似た焦りが、足を動かす。

でも、限界はすぐそこにいた。


息は上がりきって、

目の端には、じわりと涙すら滲みはじめていた。


(……俺は、捨てられたのか?

それとも──最初から、捨て駒だったのか……?)


街の喧騒が、遠のいていく。

冷たい孤独だけが、身体の中で、膨らんでいた。



---


堀井は曲がり角を、肩をぶつけるようにして駆け抜けた。


──その瞬間。


「……ここまでだ。」


静かな声が、足元の影から滑り出す。

風が止まったように、世界が静まった。


陽の差さない裏路地。

外とは別世界のように、空気が淀んでいる。

狭く、暗く、息が詰まるほどの閉塞感。


すれ違う人もいない。 そのただなかに、ナオがいた。

無言で、そこに“いた”。


沈んだ瞳が、ただじっとこちらを見ている。

動かない。語らない。

けれど、すでにすべてを“制している”気配。


堀井の足が、止まらない。

止まりたいのに、止まれない。

そのまま、数歩──惰性で突っ込む。


だが、踏み込めなかった。

目が合った瞬間、

冷たい刃を突きつけられたように、全身が凍りついた。


ナオの視線が、無言のまま堀井を射抜く。


「……っ!」


声にならない悲鳴が喉に詰まる。

肺の奥で、冷たい空気が膨らんでいく。


堀井が振り返る。

その背後──


「はー……引き分けかよ、ダーリン。」


通りの向こうから、ひらひらと手を振る影が近づいてくる。


ルカだった。

足取りは軽い。

息は乱れているのに、声には妙な余裕があった。


「逃げるのは悪くないけどさぁ……残念、ゲームセット。」


軽口とは裏腹に、足音はまっすぐ堀井に向かってくる。

その“逃げ場のなさ”に、堀井が本能的に察する。


「っ、やだ……やだやだ、俺……何も知らねぇ、何も──!」


絞り出すような声。

もう、威勢もなければ体裁もない。


呼吸が乱れ、喉が鳴る。

酸素を奪うように息を吸いながら、堀井は壁に背を預けて後退る。


「俺らは、殺しはしねぇよ。今んとこ、な。」


ルカが肩をすくめて言った。

冗談のように笑いながらも、目だけは笑っていない。


ナオとルカ。

挟み込むようにして、二人が堀井を囲む。

無言の圧が、じわじわと濃くなっていく。


「ダーリン、馬鹿でも分かるように説明してやって。」


ルカが肩越しに言うと、ナオは一度だけ小さく息を吐き、堀井をまっすぐ見据えた。


「さっきの通知──“お前とはここまでだ”。」


その言葉に、堀井の呼吸が一瞬止まる。


「……じゃあ、なんで、まだ生きてる?」


淡々と。

だが、確かに響くように。

堀井の喉が、ひくりと動いた。


「本気で“切る”つもりなら、とっくに物理的に消してる。でも、お前はまだ、歩いてる。」


ナオは一歩だけ前に出た。


「それって何でだと思う?」


堀井が口を開く前に、言葉が落ちた。


「──お前が“その程度”だからだ。」


言い捨てるように。

だが、それは感情ではなく、冷めた事実。


「使い捨てにもならねぇ、ただの末端。 声を上げる価値もない、クズだ。」


「ち、違っ……! 違う、俺は……!」

「違うかどうかなんて、俺らにはどうでもいい。」


堀井の背後から、ルカの声が落ちる。


「だって──もう、そう“判断された”んだろ?」


ルカの声が、堀井の背に、ひたりと落ちた。


「──なぁ、お前、“何を歌える”?」

「……は?」


振り返った堀井の目に映ったのは、

地面にしゃがみ、木片を拾い上げるルカの姿。


「歌ってみろよ、聞いてやる。

組織の図、金の流れ、運びのルート。

お前の喉、まだ音が出るなら、さ。」


言葉とは裏腹に、木片の先端が、ぐいと喉に食い込む。


ただ当てるだけじゃない。

ゆっくり、じわじわと──

声が出なくなる寸前まで、押し当てるように。


堀井の肩が、ビクリと震えた。


「な? 出ないだろ?

……じゃあもう、“この喉”、要らねぇんじゃねぇか?」


笑っていた。

本当に、楽しそうに。


そのとき。


──カツ、と小さな足音。


すぐ隣、ナオが半歩だけ足を出しかけていた。

止めようとしたわけじゃない。

けれど、目が──

ルカの手元を、鋭く捉えていた。


その“静かな警告”に、ルカがちらと目をやる。


「……あー、大丈夫、大丈夫。

やりすぎないって。ね、ダーリン?」


軽く肩をすくめて、ルカは木片を引いた。

堀井の膝が抜けた。

滑稽なくらい、あっさりと。


「……“何も歌えねぇ”。

これが、お前の答えなんだろ、堀井。」


その声に怒りはなかった。

ただ、冷たい評価と、わずかな愉悦が、にじんでいた。


「なんで……なんで俺だけ……!」

「別に、お前だけじゃねぇよ。」


ルカが、乾いた音で肩をすくめる。


「見つけ次第締め上げてる。今回は……お前だったってだけの話だ。」


「……っ、だって……!俺、ただ……

生活、どうにかしたくて……!」


喉の奥がひゅう、と鳴り、吸った息が逃げ場を失った。

堀井の声は、かすれながらも必死だった。


「なにが悪かった?誰か殺したかよ?

……俺みたいな雑魚ひとり責めたって、変わんねぇだろ……!」


ふたりは、何も言わなかった。

その沈黙は、否定でも肯定でもなかった。

ただ、堀井の問いだけが、虚空に置き去りにされる。


じわ、と目が潤む。

堀井は、しばらく口を開けたまま言葉を探し――

それでも、たった一言しか出てこなかった。


「だったら……なんで。

……なんで誰も、助けてくれなかったんだよ……」


ナオのまなざしが、わずかに揺れた。

その胸の奥に何かが触れた気配を、

ルカは――あえて、拾わなかった。


その中で――

ナオが、低く、はっきりと告げた。


「今すぐ手を引くなら、まだ間に合う。

……賢い選択をしろ。次はない。」


その声には、容赦も情けもなかった。

それが“判断”であり、“最後通告”だった。


堀井はしばらく、言葉も動きもなく、

俯いたまま自分の拳を握りしめていた。


やがて。

かすかに、頭を下げた。


ルカがふっと目を細める。


「──せっちゃん、記録は?」

『ばっちり。動きはログに全部残ってる。

今後の連絡と接触先も、モニタリング続ける。』

「頼りにしてるぜ、せっちゃん。……姐さんの勘、ああいう時は馬鹿にできない。」


路地の隅に木片を投げ捨てると、わざとらしく手をはたいた。

そして堀井を一瞥する。


「次は会いたくねぇな、堀井。」


その言葉に、堀井はただ唇を噛んだまま、何も返せなかった。

ナオは一度だけ、堀井に視線を落とし──何も言わず、ルカのあとを追った。


二人の背が、路地の先にゆっくりと遠ざかっていく。



---


「……あんなの潰したって、またすぐ別の誰かが湧いてくるだけだ。」


ルカの呟きは、どこか自分に言い聞かせるようだった。

歯を食いしばりそうな感情を、かろうじて吐き出すように。


「……本当は、全部潰してぇけどな。あんなもん、バラまくヤツら。」


唇を歪めて笑うその横で、ナオは一歩遅れて立ち止まる。

そして、空を仰いで言った。


「……世は、こともなし、か。」


その声には、静かな皮肉と、揺るがぬ覚悟が滲んでいた。

ふと、ルカがその横顔を盗み見て、ぽつりと呟く。


「……よく、止めなかったな。」

「ちゃんと止まれただろ、ハニー。」


そのまま一歩だけ、前へ歩き出す。


小さく息をつきながら、ルカもその背を追う。

肩を並べる頃には、いつもの調子を取り戻していた。


通りのざわめきの合間を縫って、風が通り過ぎる。

ふたりは再び、何もなかったような足取りで歩き出した。

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