GIRL

ひよこ

GIRL

 別に毎日人類皆んなカスなんて思ってない。てかカスじゃない人類の方がずっと多いしあたしはあたしの周囲にいる人のことがだいたい大好きだしそもそもどっちかってと性善説寄りだし初めて一人で入った店でもすぐ友達できるし休みの日は家じゃなくて外で人と遊んでたいし、つまりはけっこう、人類が好き。

 でも今日は嫌い。嫌い嫌い嫌い嫌いみんな、だいっきらい。人類愛にあふれて心が広く優しく顔と頭とスタイルが良く人生うまいことやって生きてきてるこのあたしと言えども、人類皆カス全員しねと思ってしまう日はある。

 ひとつひとつはすっごいちっちゃいことだけど、それが重なるともうあ〜むりおしまいってなる。なった。

 Xでいつものように炎上してるクソみたいなあれこれをうっかり見かけちゃったこと。ちょっと憂鬱な朝なのに恋人が早出だったからいってきますのチューをしてもらえなかったこと。まあ仕方ないわな……て早めに出たのに遅延が一生続いて結局朝の会議に遅れたこと。空き時間のなんでもない雑談でひっさびさに彼氏いないの結婚願望ないの良かったら知り合いにおすすめな人がいてねとかいうあの〜今ってもう令和なんですよその話題百年前にオワコンなってますけどだいじょぶそ?っていう話になってげんなりしちゃったこと。そんでとどめに、昼休みに外に出てキッチンカーに並んでたらすぐ後ろで LGBTのLとGを知ってるだけっぽい男がめちゃくちゃ鼻につく声で「ああ〜分かる分かる!そうだよね、好きになるのに性別は関係ないよね」とか言ってるのが聞こえちゃったこと。イヤこれ思い出してもクッソ腹立つよなそんときも思いっきり振り返っちゃったもん。 そしたら男の隣に立ってる女の子がめちゃくちゃこらえた顔してたから、あたしもめちゃくちゃ、傷ついた。イヤーーーほんっとにクソ。 何が「好きになるのに性別は関係ない」だよふざけんじゃねえよ「だから」女が女を好きでもいいよ気にしないよ許してあげるよとでも言いてえのかよ関係ないわけねえだろこっちは関係おおありだわ最初から女が好きだっつってんの。ほんとに「好きになるのに性別は関係ない」奴が言うんならいいけどてめえはそうじゃねえだろ上から目線の分かったような言い草マジで最悪。というのはみじんも顔に出さずそのときのあたしはにっこり笑ったから偉すぎた。あたしがにっこり笑った顔というのはめちゃくちゃかわいい (という自覚があるし実際恋人もそう言う。まああたしが何してても脳死でかわいいって言うんだけど)ので男もはわ……しゅき……♡ みたいな顔になったけどあたしは「あ、すみませ〜ん男一生興味ないんでこっち見ないでください。それよりあなた超かわいいですね。よかったらお友達からはじめてくれません?」っつって、男は完全に無視して男のせいで傷ついていた女の子と連絡先を交換した。もちろんあたしは恋人一筋なので浮気じゃない。きっといい友達になれると思う。

 最後はちょっとだけいい終わり方をしたけど、でもこれ以外にもなんか今日はほんとに「大したことないけど地味に痛むやつ」案件が続いてて、いつもならはいはいは〜いっつって流せるようなことが流せなくて、気にしないはずのことが気になって、そういうのが積もり積もってあーーーもうむりってなった瞬間に、だめもういやあっち行ってみんな嫌い大っ嫌い、ていう感じになった。なっちゃった。もう今日はどこにも行かない定時で帰る。帰ってめちゃくちゃ甘やかしてもらう。いやいつも甘やかしてもらってるけど更に。

 こうなるともうだめ。どんなに仲いい同期でも尊敬してる先輩でもあたしの機嫌はなおせない。なおせるのは、真希だけ。

 だからあたしは帰宅するなりまっすぐに真希のもとへ行って、まだリモートワーク中だった彼女の眼鏡を取ってぽいっと放り投げて、パソコン勝手に閉じて、回転チェアをぐるっとこっちに向かせて、膝の上に乗っかって、ぎゅう、と抱き着いて、肩にぐりぐりをおしつけた。

「真希今すぐあたしの好きなとこじゅっこ言ってもう今すぐほんとにすぐ言って一分以内に言って」

「…………」

 真希は膝にまたがったあたしの背中をぽんぽんと叩いていたけれど至極冷静な声音で「六秒で一個言うのは無理。もう十秒過ぎたし」などと言った。あたしはウガーーーッ!と獰猛な唸り声をあげた。

「はいはい、どうどう」

「どうどうじゃない!はやく言ってよ!はやくはやくはやくはやく!」

「時間制限えぐいしそもそも十回っていうのが無理だし」

 小さく笑って、真希はねえ、とやさしい声を出した。

「顔見せて?まだおかえりのチューしてない」

 今の一言で人類皆んなカスしね、が、人類全然愛せるってか一生愛するわ、に変わったし今日あったいやなこと全部わすれた。変わり身早すぎてやば。でもやばいのはあたしじゃなくて真希だ。十秒もつかわずに一瞬であたしを世界一しあわせな女に変えてしまう。

 恥ずいし照れるしでなんとなくいつも待つ派だったけど、今日は待ってられなくて、あたしは真希の肩に手をおいて、ちゅう、とふれるだけのキスをした。

「……た、ただいまだいすきの、キス」

「…………」

「も〜〜〜やだなんか言ってよ!もうやだ恥ずい照れる今のなしなし!」

「いや……」

 かわいすぎてシンプルにびっくりした……。真希が感動したように言うので逆に羞恥のあまりあたしは震えだしてしまった。

「アーーーもういい!甘やかしてもらおうと思ったけどもーーーいいわもう全然大丈夫になったはいありがとう!お風呂入る!」

「待って」

 膝からおりようとしたらぎゅうっと抱きしめられてしまった。やだやだ離して、と口は言うけれど、からだとこころは全然そんなこと思ってない。だって真希にぎゅうってしてもらうだけでめろめろになるもん。

「んん………………」

「今日なんか嫌なことあったんでしょ。私には言えないこと?」

「そうじゃ、なくて……もう、ぜんぶ、わすれた…………」

 もごもご言ったら笑い声が耳にさしこまれて、くすぐったくて、心地よくて、あたしもわらってしまった。

 きっとこれから先もこうやって落ちこむ日があったりして、その度に引き上げてもらって、時々はあたしが引き上げる側をやったりして、日々を続けていくのだ。そのちいさな時間が積み重なった先で、 きっと何かがよくなるって、みんなで祈り続けるのだ。

 世界は急には変わらなくて、だから人間なんてもっとずっと変わらなくて、あたしもあなたもどこかの誰かも、毎日いろんな傷や悲鳴や、そこまでいかなくてもかさぶたみたいなものとか、そういうものを抱えて生きていかなければならない。ままならない。はがゆい。だからたまには全部嫌でみんな嫌いって日があってもいい。今は半年に一回そんな日があっても、きっと来年には一年に一回になる。再来年には二年に一回になる。

 そうしていつか、そんな日と完全にお別れできる世界になればいいなって、人類愛にあふれて心が広く優しく顔と頭とスタイルが良くて好きな人とずっと一緒に生きていくあたしは思うのだ。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーー


 その絵に描かれている女性の名はユディト。美しい未亡人だ。

 ユディトは自らの住む町へやってきた略奪者を殺すため、着飾って彼のもとへ向かう。そして数日間を耐え忍んだある夜、眠った男の首をみごと切り落としてみせた。結果として、町は侵攻されることなく平穏が続いた――というインパクト抜群の血なまぐさい逸話は、後世の芸術家たちの心にいたく染み入ったらしい。さまざまな画家がこの主題に挑んでいる。

 私はユディトが描かれた絵が好きではない。見る度に、言いようのない屈折した感情で胸が満たされる。そのくせ作品が美術館に展示される機会がくるとこうやって見に来てしまうのだから、たいがい屈折している。

 目を見開いている男。あふれ出す血。のけぞる肢体。男の首をしっかりと掴み短剣で切り落としているユディトの、厳しく冷たく空恐ろしい瞳。

 見たくない。でも、目が離せない。ずいぶんと長いこと突っ立って見つめてから、私はようやく、のろのろとその場から立ち去った。

 ―――あなたはユディトになれる?

 絵を見る度、誰かにそう問われているような気がしてならなかった。あるいは、ユディトになることを強いられているような気がしてならなかった。

 身体ひとつで男のもとへ飛び込んで、凌辱に耐えて、一瞬の隙を逃さずにその首を切り落として――そこで初めて「女」は「勝利」できるのだと。逆に言えば、それくらいできなければ、「女」は、私たちは、一生勝つことはできないのだと。

 もちろんこれは凝り固まった劣等感と自己嫌悪に因るくだらない思い込みにすぎないけれど、自覚があるからといって軌道修正可能なわけでもない。だって少なくとも私は負け続けているし負け続けることに疲れているから。

 満員車両の方からとげとげしい視線を感じながら空いている女性専用車両に乗り込むとき。私ひとりで訪問したときには顔も見ずろくに話も聞かなかった取引先が、上司同伴で行ったときには掌を返したように愛想よく対応してきたとき。メールでやりとりしているときはビジネスライクだった相手が、一度電話してからあからさまに性的なジヨークを盛り込んでくるようになったとき。夜道で後ろからの足音に気づいてさりげなく立ち止まって先に行かせるようにしたら、追い抜きざまに苛立たしげな舌打ちを放たれたとき。

 私は勝負したいなんて思ったことはない。ただ静かに穏やかに生きていきたいだけだ。でも私ではない他者が、「彼ら」が、それをあまりにも許さない。そして私たちは実際のところ、かんたんに、実にあっけなく、しんでしまう。

 不用意にころされないためには強く在らねばならない。強くなりたいなんて勝ちたいなんて微塵も思っていなくても、そう在らねばならない。いざというときには身体ひとつで飛び込んで、凌辱に耐えて、 一瞬の隙を逃さずに首を切り落とす そんなことができるほどの強さが、暗黙の内に必要とされている。

 誰もがユディトになれるわけじゃない。私には無理だ。損なわれるのも軽んじられるのも嫌だけど、誰かの首を切り落とすのはもっと嫌だから。

 ユディトになれないことに、ずっと罪悪感とうしろめたさを感じている。ずっと。


 一斉の拍手と共におめでとう、と言われて、困ったように微笑んでみせた。

 にっこり笑ってはいけないのだ。これは先輩や上司をさしおいて獲ってしまった賞賛だから。

 私が主張せず物静かで波風立てないタイプだからこそ、指導係の先輩にあ〜俺もそのアイディア持ってたんだけどな〜とかヘラヘラ嫌味ったらしく言われたり父親と同年代の部長にどうせ結婚したらすぐ産休入っちゃうんだしバリバリできるのも今の内だねえとか言われたりするぐらいで済んでいる。こんなの大したことじゃない。

 でも、今まで百回以上、こんな気持ちを抱えてきた。そしてきっとこれからも百回以上、同じ気持ちになるんだろう。私はユディトじゃないから。「彼ら」の首を切ることなんてできないから。ただこの小さくいたむ傷を、たぶん誰にも傷だなんて認めてはもらえないだろうこれを、うまく処理して、のみこんで、生きていかなきゃいけない。

 そう思うと、ほんのすこし、つらい。

 笑うことに疲れてしまったので、すみませんスマホを忘れたみたいで、と雑談の輪から抜け出た。廊下を足早に歩く。人のいない場所へ。誰の声もしないところまで。

 窓の外、ずっと遠くで落雷がはじけた。うすぐらい廊下に重低音が響く。怒った獣の唸り声のように。私の身体の奥でくすぶる痛みのように。

 力なくドアを開けると、電気のついていない室内に人影があったのでギョッとする。

「や――山本さん」

「おーお疲れさん」

 席によりかかった彼女はひらひらと手を振った。関西出身の山本さんは社内ではビジネス敬語と標準語が常だが、今はそうではないらしい。ゆるく笑ってじっとこちらを見ている。

「どないしたん」

「いえ」

 ありもしない忘れ物を取りにきたとは言えない。上手い誤魔化し方が見つからず黙った私の代わりに、遠くでまた雷鳴がとどろいた。

 薄暗い室内に、淡い影がすらっと伸びている。美人は影まで美しいんだな、と、馬鹿みたいな感想が生まれた。

「さっきのプレゼン、よかったで。がんばったなあ」

「ありがとうございます」

 その言葉はそのかたちのまま、すんなりと私のからだに染みた。裏も含みもないさらりとした賞賛が、うれしかった。

 山本さんとこうして話すのはほぼ初めてのことだった。東京支社に赴任してきた女性ながら営業部の出世株で、誰にでも気さくで、仕事のできる、誰がどう見てもつよい人。

 きっと山本さんは、ユディトになる必要がない。勝負をする必要がない。勝たなくても負けなくても、ただそこに在れる人だから。

 ああ。今、気づいた。

 私が他のみんなのようにこれまで山本さんに夢中にならなかったのは、このうつくしい人に、私とは違うまぶしい人に、ほんのすこしのねたましさを抱いているからに他ならない。

 浅ましい自分を知覚したら、情けなくて、恥ずかしくて、目の奥があつくなった。

「…………なんか、泣きそうな顔」

「すみませ……大丈夫です、ちょっと、花粉で」

 山本さんは音もなくゆっくり歩いてきて、ごく自然な仕草で私の目元をぬぐった。急にこんなに距離を詰められてびっくりする。

「あの」

「ん?」

「いえ、その、…………驚きました。山本さん、社交的ですけれど、あまり他人に不用意にふれる印象の方ではなかったので」

「嫌やった?」

「そういうわけでは」

 山本さんは片手をポケットに突っ込み、敵意がないことを示すように笑ってみせた。

「まあ確かに普段は勘違いさせんように他人と距離保ってんけど」

「……けど?」

「好きな子は別」

 室内に閃光が走り抜けて、山本さんと私の間をつらぬいた。一呼吸おいて、どこかで低い雷鳴が響き渡った。

 沈黙を保つ私を見て、山本さんはからりと笑った。

「あはっ、あ〜おもろ。ええよ、言わんでも。勝手に答えたるから。まずなあ、こういう、非常事態に直面したときに黙ってじっと周囲をよく見てるかしこいとこが好きやねん」

「…………」

「あと、絶対感情やなくて論理を重視するとこ、〆切キッチリ守るとこ、チームの調整上手いとこ」

 それは全て上司が部下を評価するときの観点にすぎないのではないかと思いながら問いていたが、次の瞬間、私はぎょっとする羽目になった。

「いつも泣きそうな顔してるとこ」

「は」

 絶句する。

 薄暗い室内で、山本さんの瞳が浮かび上がって見える。きらきら、まっすぐに、こちらを射抜くうつくしいひかり。

「そ、………………んな顔は、して、いないです」

「してる。いつもいっこも自分に非がないことでチクチクチクチク刺されて疲れて傷ついてんのにそのぶん周りに当たり散らすとかそういうことはできへんくてかしこいから狂ったり壊れたりすることもできへんくて、生きづらそうで、苦しそうで、泣きそうな顔してる」

 足が揺らいだ。地面が急にずぶずぶのたよりない質感の何かに変わってしまったような気がした。

 めまいがする。山本さんの言葉が刺さって、声が、出てこない。苦しい。苦しいのは――図星だからだ。そんなのとっくの昔に分かっていることを、勝手に妬ましく思っていたうつくしい人に完膚なきまでに見透かされてしまったのだ。これが衝撃でなくてなんだというんだろう。

 くらがりの中でも確かな強度でそこにあった山本さんの像が、じわりとにじんだ。視界がぼやける。

「ところで提案なんやけど」

 両手で顔を覆ってしまった私のもとへ、凪いだ声が近づいてくる。

 さっきと同じように、でもさっきよりも丁重な仕草で、山本さんの少し節くれ立った指先がそっと手にふれる。

「うちなぁ、仕事がよお出来るけど甘え下手な年下の子甘やかすの得意やねんなあ。まずはよしよしから始めるのはどお?」

「……………ふつう、『友達から』でしょう……よしよしから、って、なんなんですか……」

「こういうこと」

 ふわっとしたやさしさで抱きしめられて、ますます涙が止まらなくなった。恥ずかしさと、悔しさと、安堵で。

「……あの」

「ん?」

「山本さんみたいな人でも、生きづらい、とか、苦しい、って思うこと、あるんですか」

 大げさに考え込むような気配のあと、あるよ、と大真面目な声が言った。

「実はけっこう長めに片想いしててん。なかなかチャンスなくて生きづらかったし今はメッッッチャ苦しい」

「どうしてですか」

「え〜それ聞く?だって好きな子やもん。こんだけくっついたらそれ以外もしたくなる」

「やめてください。………………いえ、その、嫌というわけじゃなくて、今は、まだ、はやい、ので」

「…………明日は?」

「だ――だめです」

 混乱した頭のまま必死に鼻をすする。山本さんの肩口に鼻水がついてしまって焦るけれど腕の力がゆるまることはなく、そして私も別に離れたいわけではなく、初めてこの腕の中にいるのに今までいたどの場所よりも安全で守られているような気がして、そうっと全身から力を抜いた。

 ――ユディトのことを思い出す。いざというときには身体ひとつで飛び込んで、陵辱に耐えて、一瞬の隙を逃さずに首を切り落としてみせたユディトのことを。

 ずっと、ユディトになれないことがつらかった。ささやかな苦しみに蓋をしたまま、これが最善じゃないと思いながら生きていくのがつらかった。

 でも、今は、それでもいいかも、と思える。あたたかいから。安心するから。ひとりじゃないから。そんなあまりにも単純な理由で。

 今なら私に言ってあげられる。他の誰が言ってくれなくても、私自身が。

 私は、ユディトになれないままでいい。このささやかな力は、たぶん首を切り落とすためじゃなくて、ほかの人を抱きしめるために使えばいい。

 たとえばユディトとして生きる誰かを。ユディトにならずに生きる誰かを。ユディトになれずに泣く私のような誰かを。

 あなたを。

 そうっと山本さんの背中に腕を回したら、真剣な声がした。

「……やっぱ今してもええってこと?」

「違います」

 くしゃみをして笑う。

 窓の外、もう雷鳴はない。天の切れ目から眩しい陽光が差し込んでいるのが見えた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーー


 胸が大きくていいことなんてひとつもない。

 とにかく会う人間全員わたしの顔より胸を見てくるし。どんなにかわいいデザインのブラでもいざ身に着けるとなんかいかつすぎて装甲みたいになるし。というかそもそもサイズが展開されてないこと多いし。悪気なんて全然なかったけどAより下があるなんて知らなくて「AAAって何?」って聞いたせいで八つ裂きにされそうになったし(これは百パーセントわたしが悪い。無知は罪です。そして恥)。

 身体の特徴的な要素には往々にして属性が付与されがちだ。キツネ顔はクールでたぬき顔は大らかだとか、巨乳はアホで貧乳は賢いとか、低身長はドジで高身長はしっかり者だとか、それはもう、根拠がなさすぎて笑えない「ステレオタイプのイメージ」が未だに世界にはびこっているのを日々感じる。

 絵に描いたようなたぬき顔で巨乳で低身長のわたしは大らかでアホでドジな女だと最初から決めつけられることが多くて、幸か不幸かマジでその通りだったので、まあ事実だから〜と気にせず生きてきた。

 でも周囲から勝手に付与される属性が本人とそぐわない場合だってきっと世の中にたくさんあるはずで、それは最悪だ。ていうかそもそも外見の要素で人を推しはかるのが無礼千万最悪ここに極まれりだ。

 外見とか性別とか、ほんとうに、どうでもいい。と、「ザ・女」な外見のわたしが口にしたら、なんとなく穏やかじゃなくなる気がするので、言わない。たぶん、わたしがそれを発言することで傷つく人がいる、とも思う。

 外見と中身に不和を抱えておらず、自分の性で多少嫌な思いはしたものの決定的な傷や暴力を受けることなく平穏に生きてこられたわたしはきっと、ただそこにいるだけで、誰かを傷つけるおそれがあるから。

 傷つけるよりは優しくしたい。わたしは大らかでアホでドジで、そして人間が好きな女だから。

 王様の耳はロバの耳。人は秘密を抱えることに耐えられず、吐き出す場所をいつだって求めていて、それは「自分に絶対に害を及ぼさない下位存在」だったりする。

 つまりわたしだ。牽制と蔑みを同時に孕んだ「かわいいね」という言葉で行動を制限され、常に無遠慮な性的視線で一方的に消費され、それでも声を荒げたり逆らったりせず、ただニコニコ笑っている、若い女性。なんにも考えてなさそうな、アホで明るくておっとりした大らかな女。母性あるもんねと言ってくる人たちがわたしの身体のどの部位を見て判断しているかなんて推理するまでもない。

 そんなわけで、わたしは昔からよく人の相談や愚痴を聞くことが多かった。あるいはそういう、誰かに頼りたがっている人や限界になっている人が最後にぼきっと折れる瞬間に立ち会うこともあった。

「んん………………」

 どうやったらそんなこじれる?という凄まじいしっちゃかめっちやか泥沼愛憎劇を傾聴するのは、残業後の身体には堪えた。玄関の手前でずっと立って話してたから足もぱんぱん。でも吐き出してくれた後は楽になったみたいでちょっと元気になって帰っていったから、まあ、よかった。

 自分も帰ろうとしたところでお弁当箱をデスクに忘れたことに気づいて、踵を返したら、人通りのない廊下の向こうからカツカツと誰かが歩いてきた。社内で先輩上司部下問わず鬼のように仕事を割り振りマジレスをかますことで有名な白石先輩だ。そしてめっちゃシュッとしたクールなお顔立ちで隠れファンも多い。そこにいるだけでオーラがある。おおすごい、なんか廊下が明るく見える。

「あれ、白石さん。あっそれは…………?!」

「忘れものだと思ったので」

 すたすた近寄ってくる白石さんの手にはわたしのランチバッグがあった。喜んで受け取る。

「やった〜!ありがとうございます〜!よかったぁ……明日の朝異臭騒ぎ起こした罪で屋上から吊るされるとこでした」

「……そんな真似誰もしないでしょう。部署の愛されキャラには」

 白石さんは呆れたように言って眉間の皺を揉んだ。そんななんでもない仕草ですら絵になる。立てば彫像座れば美形、歩く姿は超イケメン。誰かが言っていたアホなキャッチコピーを思い出し、わたしは感動した。だってほんとにその通りなのだ。

 役職としては白石さんの方がずっと上なのに、「自分の方が年齢が下だから」という古風な理由で、白石さんはアホでドジなわたしに対してもきちんと敬語を使う。けっこう、いやかなり、呆れ混じりのちょっと冷たい敬語ではあるけれど。

 なんとなく白石さんとそのまま一緒に帰る流れになった。うーん、ガチ勢に申し訳ない気がする。

 白石さんは言葉少なで、気だるげに肩をこきこき鳴らしていた。

「お疲れなんですか?」

「あーまあ」

 悪ノリ心がうずいて、わたしはいたずらっぽく笑って自分の胸をつんつんと指さした。

「じゃあおっぱいでも揉みます?効くらしいですよ」

「ハァ?!」

 白石さんがぎょっとしたように高速でこちらを向いたので、わたしはあらあらと口元を手で覆った。

「ごめんなさい〜。えへ。セクハラでしたね。すみません、友達がよく疲れた〜って言ってわたしの胸揉むから」

「いや、別にセクハラとは……もっと自分を大事にした方がいいと思いますよ」

 白石さんはふいっとそっぽをむいた。その耳が夜目でも分かるぐらいちょっと赤かったので、わたしはますますあらまあという気持ちになった。あらあら、まあまあ。白石さんたら、案外?

 黙り込んでしまった白石さんを下からのぞきこんで、にこにこ笑う。

「他の人には言わないですってば。白石さんのことは信頼してるんです」

「……なんでです」

「だって仕事でわたしと話すとき、胸じゃなくてちゃんと目を見てくれるから。そういう人ほとんどいないんですよ」

「それは」

 白石さんは立ち止まった。おや、とわたしも歩みを止める。

 自分よりもずいぶんと背格好のある彼を見上げていると、白石さんはご自分の頬を両手でバシッと叩いた。

「……胸も、正直視線がいきそうになる時はありますけど、顔も、好きなので……」

 ほんとに「あらあらまあまあ」だった。

 わたしはさすがに目を丸くしていたが、小刻みに震え始めた白石さんがおもしろくて、かわいくて、うふふ、と笑った。

「ねえ白石さん」

「……なんですか」

「やっぱり揉みます?」

「話聞いてました?」

「聞いてましたよお。だから言ってるんです」

 わたしは背伸びして、白石さんの耳元に囁いた。

「……いいですよ、白石さんなら」

 年下の普段はクールな彼の横顔がぶわっと赤く染まったのを見て、わたしは今度こそ、声をあげてわらった。

 あなた、そんな顔するんだ。いつもすんっとしてて、あんまり笑わなくて、みんなの憧れの的で、誰にも執着してなさそうなあなたが、そんな、思春期の子みたいな、焦ったお顔を。

 それはみんなが焦がれる『白石さん』じゃないのかもしれない。つくられたイメージと今目の前のあなたとの間に生じるものは、誰かが「不和」と呼ぶものかもしれない。

 ―――不和がなんだ!

 かわいいあなたを見せてくれてありがとう、の気持ちで、わたしは白石さんに笑いかける。

「胸が大きくていいこと、ひとつもないと思ってたんですけど、ありました」

「…………言わないでください、これ以上情けないところを見せたくない」

「白石さんが好きなら胸が大きい甲斐があります」

「……あの、胸だけじゃ、ないんで……」

 ―――あのね、白石さん。

 あなたならいいよ。

 ううん、あなたがいいな。

 どんなからだでもどんなこころでも、あなたがすきなわたしなら、 このままで、きっと大丈夫。

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GIRL ひよこ @hiyoko03

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