第60話遠ざかる背中を見つめて
五月の風は、すでに初夏の匂いを含んでいた。
昼間は汗ばむほどなのに、夕方になると少し冷たい風が吹く。
校舎の窓から差し込む光が斜めになり、教室の隅に長い影を落としていた。
ホームルームが終わり、みんながわいわいと帰り支度をする中、私は席に座ったまま窓の外を見ていた。
校庭ではまだ運動部が練習をしていて、遠くから掛け声が聞こえる。
その日常の音が、どうしてだろう、やけに遠くに感じた。
――湊と一緒に帰った昨日の帰り道。
あんなふうに弱さを見せてくれたのは初めてだった。
彼の言葉は、私の胸の奥にじんわりと広がり続けている。
でも、その余韻があるからこそ、今日は彼の姿が見えないことが妙に心をざわつかせた。
「詩、帰んないの?」
真央が振り返る。
「……あ、うん。今行く」
鞄を手に立ち上がったそのとき、廊下の向こうを通り過ぎる湊の姿が見えた。
誰か――見覚えのあるクラスの女子と並んで歩いている。
湊は真剣な顔でその子の話を聞いていて、時々うなずいていた。
胸が一瞬で重くなる。
昨日、あんなふうに言ってくれたのに。
「隣にいるから」って言ってくれたのに。
その隣を、今は別の誰かが歩いている。
気づけば私は、その場で立ち尽くしていた。
⸻
帰り道。
空はオレンジから群青へと変わりかけ、街灯がひとつ、またひとつと灯っていく。
私の足は自然とゆっくりになり、夕方の風が頬を撫でていく。
――これくらいのこと、気にしなくていいのかもしれない。
そう思おうとするのに、心は言うことを聞かない。
胸の奥に、昨日もらった温かさと、今感じている冷たい影が、絡まり合ってほどけない。
「詩?」
ふいに後ろから声がして振り向くと、真央が立っていた。
どうやら追いかけてきてくれたらしい。
彼女の髪が、風で小さく揺れている。
「どうしたの? さっきから元気ないよ」
「……別に。なんでもないよ」
「ほんと? ……湊くんと、何かあった?」
「……何もないよ。昨日は、優しかったのにね」
ぽつりとこぼれたその言葉に、自分でも驚いた。
胸の奥のざわめきが、少しだけ言葉になってしまった。
真央はじっと私を見つめていた。
そのまなざしには余計な詮索もなく、ただ心配してくれる優しさだけがあった。
そして、静かな声で言った。
「詩、焦らなくていいと思うよ。……でも、ちゃんと自分の気持ち、大事にしなよ?」
その瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が、どっとあふれそうになった。
こみ上げてくるものを必死で堪える。
視界がじわっとにじみ、思わずうつむく。
「……うん」
声に出すと、かすかに震えていた。
真央の足音が私の隣に並ぶ。
彼女は何も言わず、ただ横を歩いてくれる。
その優しさが、胸の奥に沁みて、涙が今にも零れそうになった。
視界の端で、ふと夕焼けが街路樹を照らすのが見えた。
濡れた葉の上で光が揺れて、まるで言葉にできない気持ちをそのまま映しているみたいだった。
⸻
交差点で、信号が赤に変わる。
立ち止まって空を見上げると、夕陽が遠ざかり、群青の中に小さな星がひとつ光り始めていた。
――いつか、湊にちゃんと伝えられるだろうか。
そんな想いが胸に浮かんでは消え、また形を変えていく。
私の目の前で信号が青に変わり、人々が歩き出す。
私も歩き出そうとしたとき、さっき見た湊の背中がふと頭をよぎった。
遠ざかっていくその背中を、私はまだ、ただ見つめることしかできなかった。
それでも、心の奥でひそかに決めた。
――この気持ちは、いつか必ず言葉にしよう、と。
『君に、まだ「好き」と言えない。』 KAORUwithAI @kaoruAI
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