第57話胸の奥のざわめきの正体



翌日の朝、教室の窓から差し込む光は、昨日よりも少し強くなっていた。

窓の外では、柔らかな緑に変わり始めた桜の葉が風に揺れている。

春は確実に進んでいるのに、私の心はどこか重たかった。


湊の後ろ姿が、どうしても頭から離れない。

昨日、校門の前で見た、あのスマホを耳に当てていた横顔。

誰と話していたんだろう。私に隠していることがあるんだろうか――

考えれば考えるほど、胸の奥のざわめきは広がっていった。


「詩、元気ないね」

真央が教科書を机に置きながら、覗き込んでくる。

彼女の声が、朝の光にやわらかく溶けていく。


「……そんなことないよ」


「また考えごとしてる顔だよ。何かあったらちゃんと言うんだよ?」


「……うん」


優しい言葉が、逆に胸を刺した。

昨日、声をかけたかったのにできなかった自分が悔しくて、

でも、いざ目を合わせると、何も言えない自分がいる。


――言えない理由は、わかってる。

この気持ちが「友達」で済まないことを、自分が一番よく知っているから。



昼休み。

湊はクラスメイトの男子たちと机を囲んで、時々笑い声をあげている。

彼の肩が小さく揺れて、楽しそうに見えた。

でもその姿を見ていると、昨日のあの真剣な横顔が嘘みたいに思えて、

私の胸はまた、ざわりと波打った。


――私、どうしたらいいんだろう。


ノートを広げてペンを握ってみても、文字が頭に入ってこない。

胸の奥のざわめきが、授業の声や昼休みの喧騒をすべてかき消していく。



放課後。

帰りのホームルームが終わり、クラスの空気がふっとゆるんだころ、

私は机をゆっくりと片づけた。

ふと見上げると、湊はいつもより少し急ぎ足で鞄を持ち、教室を出て行った。


その背中を見送りながら、気づけば立ち上がっていた。


「詩? 先帰るよー?」

真央が声をかけてくれたけれど、私は「うん、後で」とだけ答えて廊下へ出た。


階段を駆け下りると、昇降口の向こうに湊の姿が見えた。

彼は校門を抜けるところで、肩越しに夕陽を受けている。


「……湊!」


思わず声をかけていた。

彼は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。

夕方の光が差し込み、湊の瞳が少しだけ驚いたように見開かれた。


「詩……どうした?」


胸がドクンと鳴る。

どうしよう、言ってしまう? でも――いや、聞かなきゃ。

息を吸い込むと、私の声は小さく震えていた。


「……昨日、誰と話してたの?」


湊はわずかに眉を動かし、視線を横に逸らした。

耳元の髪が風に揺れ、その仕草が、胸をまたざわめかせる。


「……ちょっと、相談されててさ。クラスの子に。

でも、あんま気にしなくていい」


「……ほんとに?」


私の問いかけに、湊は深く息を吐いてから私をまっすぐ見た。

瞳の奥に、迷いも嘘もない、真剣な光が宿っている。


「ほんと。オレ、隠しごとしたくないから」


その言葉に、胸がまたぎゅっとなる。


「……昨日、声かけようとしてたろ。

オレ、わかってた。でも、詩が迷ってる顔してたから」


「……気づいてたんだ」


「気づくよ。オレ、詩のことならすぐわかる」


その言葉で、胸の奥が熱くなり、視界がかすかに滲んだ。

嬉しいのに、込み上げてくる涙をこらえられない。


「……ありがとう。私、昨日……勝手に不安になってた」


「……ごめんな。オレ、言葉足りなかったな」


湊は軽く後頭部をかき、少し照れくさそうに笑った。

その笑顔を見ていると、不安の棘が少しずつ溶けていくのがわかった。


「詩」


「なに?」


湊は少し間を置いてから、優しく言った。


「……進路のことも、いろいろあるだろうけどさ。

無理しなくていいから。……オレ、ちゃんと隣にいるから」


その一言で、胸の奥がじんわりと温かく満たされていく。

――こんなにも、簡単な言葉で救われてしまう。

そのことが、ますます湊の存在を大きくしていく。


「……うん。ありがとう、湊」


気づけば、夕陽がふたりを包み込み、長く伸びた影が校庭に並んでいた。

昨日までのざわめきが、少しずつ静かに落ち着いていく。

でも、胸の奥で芽生えたこの気持ちが、もう「ただの友達」とは呼べないことを、私自身が一番わかっていた。

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