第55話夕暮れの図書室で

 翌日の午後、昨日から降っていた雨はすっかり止んでいた。

校舎の窓から差し込む光は、春らしい柔らかさを帯びている。

昼休みのざわめきが終わり、放課後の静けさがゆっくりと教室を満たしていた。


机の中の教科書をまとめながら、私はふと手を止めた。

――昨日の帰り道のことを、まだ考えている。

湊が隣を歩いてくれたあの雨の音、少し照れたような横顔、傘越しに触れそうだった距離感。

思い出すと胸の奥がきゅっと締めつけられる。

その感情をどう扱ったらいいかわからないまま、私は教室を出た。


気持ちを落ち着けたくて、自然と足は図書室へ向かっていた。



本棚を抜けると、紙とインクの匂いが鼻をくすぐる。

カウンターの奥にはまだ何人かの生徒が勉強しているが、全体的に静かで、

椅子を引く小さな音さえ、ひどく目立つくらいだった。


窓際の席に目を向けた瞬間、見慣れた後ろ姿が視界に入る。

黒髪が夕陽に照らされて少し茶色く光っていて、肩を少し丸めて本に向かう姿。

胸が、思わず跳ねた。


「……湊?」


名前を出した瞬間、彼はペンを置き、顔を上げた。

ゆっくりと私を見て、口元にあの穏やかな笑みを浮かべる。


「おお、詩か。……ここで会うとはな」


「勉強? 珍しいね」


「図書室、静かだから集中できるんだよな。……詩は?」


「……なんとなく。考え事、したくて」


言いながら、自分でも頬が熱くなるのを感じた。

湊はほんの少し笑って、隣の席をポンと軽く叩く。


「座れよ。もうすぐ帰りのチャイムだけど、少しくらい大丈夫だろ」


「……うん」


ためらいながらも、私は腰を下ろした。

椅子の脚が床をこすって、控えめな音を立てる。

窓から入る春の風が、髪をそっと揺らした。



沈黙の時間が、意外と心地よかった。

湊がペンを指でくるくる回す音だけが、静かに響いている。


「なあ……この前言った事」


彼が声を落としたとき、私は思わず横顔を見つめた。

長いまつげが伏せられ、指先はペンを弄び続けている。


「オレ、ちょっと言いすぎたかなって思っててさ。

詩、困らせてたら悪いなって」


彼の声は低くて、けれどどこか不安げで。

胸の奥がきゅっと締めつけられた。


「……ううん。全然、困ってなんかないよ。むしろ、嬉しかった」


その言葉を口にした瞬間、自分でも頬が熱くなっていくのを感じた。

湊は目を瞬かせて、ふっと柔らかい笑顔を見せる。


「……ほんと?」


「ほんと」


その視線を真正面から受け止めると、心臓が早鐘を打った。

言葉にしきれない想いが、喉の奥までこみ上げてくるけれど、今はまだこぼせない。


湊は視線を外して、窓の外へと向けた。

ペンを回す手を止め、今度は指で机の縁をゆっくりとなぞる。

「……オレ、自分が何を大事にしたいのか、もっと考えなきゃな」


「……うん」


その横顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。

でも同時に、胸の奥に言葉にできないもどかしさが残った。



図書室の時計がカチリと音を立て、館内にやわらかいアナウンスが流れた。

「下校時刻になりました。生徒のみなさんは帰宅の準備をしてください。」


窓の外はすっかり夕暮れ色に変わり、屋上のあたりが茜色に染まっている。


湊はペンをしまい、立ち上がりながら私の方を向いた。


「……帰ろっか」


「うん」


ふたりで並んで図書室をあとにする。

静かな廊下に出ると、窓の向こうには、昨日の雨とはまったく違う、澄んだ空気が広がっていた。


歩幅を合わせながら、私はそっと横目で湊を見た。

彼はポケットに手を入れ、夕日を浴びて少しだけ照れたように笑っていた。


――きっとこの気持ちは、まだ言葉にできない。

けれど、こうして隣を歩くだけで、少しずつ確かになっていく。


そんな思いを胸に抱えながら、私は小さく息を吐いた。

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