第28話「記憶」
■2023年8月1日 11:30 長野
長野の施設に到着した後、細川、美喜雄、冬美の三人は、舞と葉月が待つ楽屋に通された。
その後、葉月が舞へのヒアリングを始めた。葉月は事前に京子から「舞は細川のことを覚えている」という旨の情報共有を受けていた。
葉月は、舞が細川について覚えていること、細川について忘れてしまっていること、それぞれについて一つひとつ丁寧に確認していった。
細川は、葉月の質問内容に合わせてマネージャー時代の自分と舞が共通で覚えているようなエピソードを付け加えるように話し、葉月のヒアリングをサポートした。
「マイマイが入ってきたとき、いきなりセラたんと口喧嘩を始めたのにはびっくりしましたよ」
「『ときめきの放課後』のレッスンのとき、メンバーの中で一番早く振り付け覚えて先生から褒められたの覚えてます? あのときのマイマイは何だか嬉しそうでした」
「マイマイが入って最初のツアーで広島に行ったとき、ノリちゃんが牡蠣でお腹を壊したのを覚えてますか? 結局ライブは四人でやりましたけど、あの時は大変でしたよね」
「ミーちゃんが振り付け覚えられなくて居残りしてたとき、ブツブツ文句言いながらも一緒に残って教えてあげてましたよね」
一昨日、アイドル研究部の部室に舞を入れる際には、部室に貼ってあるニシユルのポスターを全部剥がすように指示し、美喜雄たちに「ニシユルやメンバーのこと、他のメンバーが死んだことはマイマイに話さないでください」と忠告した細川だったが、葉月が舞に対してニシユルの話を普通にする様子を目の当たりにしたことで、「今の舞にこの手の話をしても問題ないのかもしれない」「むしろ話をすることで何かを思い出すかもしれない」「四人の死に関してさえ言及しなければ問題ないだろう」と考えを改めていた。
ただ、舞の言っていること自体は一昨日から何も変わっていたなかった。
細川に関する記憶についても「顔と名前を覚えていただけで一緒に何をしたのかまでは思い出せない」という。努めて明るい様子で思い出話をしていた細川は「そうですかー」「覚えてないですかー」とおどけながらも、舞の素っ気ない返答には寂しさを隠しきれない様子だった。
一方の葉月は、そんな舞の発言や態度に一喜一憂することもなく、極めて冷静にPCのキーボードを叩いていた。美喜雄には、細川と葉月が同じアイドルグループのマネージャーを担当していた人間同士とは思えなかった。三人のやりとりを黙って聞いている冬美も同じようなことを感じているのではないか。
葉月がこのようなやりとりを続けているのは、当然のことながら舞の記憶を取り戻すためだろう。葉月や京子が、今日、この場所で、大真面目にライブを決行しようと考えていることは間違いなさそうだ。そうでなければこんな辺鄙な場所で医療従事者のフォローも受けず、自分たちだけで舞の記憶を戻そうと試みる意味がない。
京子がすんなりと舞の居場所を教えてくれたのも、舞がニシユル関係者の中で唯一忘れずに覚えていた細川の存在を利用できると考えたからだ。ただ、今のところその当ては完全に外れてしまっている。
「ちょっと疲れちゃった」
葉月のヒアリングが始まってから1時間が過ぎようとしていた。
舞も最初のうちは真面目に対応していたが、途中から明らかに飽き飽きした態度を見せ始め、次第に受け答えが雑になってきていた。
葉月はタイピングの手を止め、小さくため息を吐いた。
「結局よくわからないままね。」
「終わり終わり! ワタシ、何にも思い出せないと思うよ」
「相変わらず集中力が続かないのね。あなたの欠点よ」
「あら、そうですか…」
「細川さんに関する質問は一旦終わりにします。ここからは質問の方向性を変えて、四人が死んだ時の話を聞いていくわ」
葉月が発した「四人が死んだ…」という言葉は、緩みかけていた場に再び緊張感を生んだ。とくに細川は誰よりも動揺していた。
「葉月さん、6月8日の件…今のマイマイにも話しているんですか?」
葉月は静かに頷いた。
「四人の仲間が死んだことも、どのように死んだのかについても説明済みです」
「そんな…」
「私も舞にそのことを伝えるのを躊躇っていたんです。ただ、警察や医者が構わず彼女に話してしまうから…」
舞の様子は先ほどとあまり変わっていないように見えた。
記憶を失っている舞は、自分以外のメンバーの死をどのような気持ちで受け止めたのだろう。今の美喜雄には想像することすら難しかった。
葉月はノートPCを閉じ、机の周りをゆっくりと歩きながら話し始めた。
「舞、何度も話したと思うけど、もう一度あの日の状況を確認させて。6月7日の夜、あなたたち五人は新宿のスタジオでダンスレッスンをしていた。7月からのドームツアーに向け、新旧合わせて25曲分の歌割りやダンス、フォーメーションのチェックをしていた」
「…またその話ですか」
舞は大人から退屈な小言を聞かされている子供のように、頬杖をつきながらポロシャツの襟を弄っていた。
「本来ならレッスンは23時で終了だった。でも、その日は珍しくメンバーの一人から居残り練習をしたいという申し出があった。リーダーの紀香でもなく、いつも練習熱心でストイックなセイラでもなく…美穂から」
舞の様子は変わらない。退屈そうにしているだけだった。
「あの練習嫌いだった美穂が居残り練習をしたいと言い出した。そんな美穂の態度に感化されたのか、ダンスコーチや演出家が帰ってしまった後も、あなたたち五人だけで朝まで練習をすることになった。せめて、私だけでも残っていれば…」
葉月は、当時のことを思い出して深く悔いているようだった。
「おかしいと思ったのよ。あの美穂が居残ってまで練習したいだなんて。そんなこと言い出す子じゃなかったんだから」
当時のことを思い出したのか、葉月の肩は震えだし、声色も変わった。ポロシャツの襟を弄っていた舞の指の動きも止まった。
「あなたたちのドリンクに毒を入れたのは美穂だった。 あの子さえ、あの子さえいなかったら…あああっ」
葉月はその場に崩れ落ち、ついには声を挙げて泣き出した。
事件から数週間後、ある三流ゴシップ系週刊誌が「西新宿ゆるふわ組が集団自殺のために使ったシアン化カリウムは森高美穂がネット通販で手に入れたものだった」という記事を発表した。記事によると、事件後、森高美穂の私用スマートフォンから薬物の購入履歴が発見され、すでに警察はその事実を掴んでいるらしいとのことだった。しかし、その後も警察や事務所からの公式発表はなく、真偽の程は定かではなかった。
それでもネット上では、その記事をソースとした議論が巻き起こっていた。「他のニシユルメンバーに人気面で劣り、精神的にも不安定だった森高が、メンバーを巻き込んで自殺をしたに違いない」と、森高を凶弾するような書き込みも目立った。その一方で「メンバー全員で死ぬ方法を考えた上で、たまたま森高がスマホから毒物を購入する役目を引き受けたのかもしれない」と推測する人もいた。もちろん「そもそも週刊誌の記事が信用できない。森高が毒物を購入したことが事実なら、さすがに警察や事務所から何らかの発表があるはずだ」と主張する人たちもいるなど、SNSやネットの掲示板では、今でも野放図に意見が飛び交っていた。
美喜雄は棍棒で頭を殴られたような気分だった。結局、メンバーの一人である森高美穂がやったということなのか。ほとんどの人が馬鹿馬鹿しいと考えていた例の週刊誌の記事が真実だったというのか。そもそもIshtarなど何の関係もなかったというのか。
細川は泣き崩れる葉月に手を差し伸べたが、葉月は細川の手を振り払った。自力で立ち上がった葉月は、目の前の壁を固めた拳でガンガンと叩き始めた。
「グズで怠け者で! 歌もダンスもダメ! 人気だっていつも最下位だった! 何であの子のためにニシユルがこんなことになるの!? 美穂が居残り練習したいなんて言い出す筈ないのに! ああ、私があの日、気付いてさえいればこんなことには…」
細川は感情を爆発させた葉月に対して掛ける言葉が見つからないようだった。
舞は黙って天井を見つめている。彼女は何を考えているのだろう。
葉月は再び叫び出した。
「思い出しただけでも腹が立つ! 美穂さえいなければニシユルは本当に伝説になれたのに…あんな子さえいなければ…あの子は本当に役に立たなかった。メンバーの足を引っ張るばっかりで何一つ取り柄なんかなかった!」
森高をこき下ろし続ける葉月に我慢ならなかったのか、さすがの細川も声を荒げた。
「葉月さん。そんな言い方はないです。あなたは彼女たちのマネージャーだった人でしょう。よくもそんなふうに…」
「マネージャーだからわかるの! あの子さえいなければニシユルはもっと完璧なアイドルになれた。今でも彼女がニシユルにいた理由がわからない。そもそも、あんな人の足しか引っ張らない子を辞めさせなかった細川さんにも責任があるわ! 細川さんだって、あの子がダメだってことはわかっていた筈よ」
「いい加減にしてください。ミーちゃんは人の気持ちのわかる繊細で優しい子でした」
「繊細で優しい? ただビクビクしてただけじゃない! あの子にはアイドルをやる覚悟がなかったの。そもそも覚悟以前に才能もルックスもアイドルレベルになかったけどね。私、間違ったこと言ってます?」
葉月は、沈黙を守っている舞に向かって捲し立てた。
「舞、あなたもそう思うわよね? あなただって美穂のこと邪魔だと思ってたんでしょ? あんな何の取り柄もないブサイクデブがアイドルやろうだなんて身の程知らずもいいところだわ。それに…」
舞は椅子から立ち上がり、葉月の左頬に向かって目にも止まらぬ速さで右手を振り下ろした。部屋中にバシーンという乾いた音が響くと同時に、葉月の顔がクシャッとひしゃげ、掛けていた淵の細いメガネが吹き飛んだ。
舞は、葉月に向かって静かに言った。
「葉月さん…どうしちゃった? おかしくなっちゃった? でもね…それ以上言ったら許さない。それ以上美穂のことを悪く言ったら、許さないから」
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