第18話「偶像」

■2023年7月31日 15:00 伊豆高原/松浦邸


「つまり、ニシユル戦略本部とニシユルのメンバーをつないでいた情報共有ツール “Ishtar(イシュタル)” は、単なるタブレット用のアプリケーションではなかったんです。Ishtarのメインシステムは、ニシユルの芸能活動におけるすべての意思決定をアドバイスするAIでした。Ishtarはタブレット用のアプリケーションを介してメンバーの体調やモチベーションに関する日次データを収集する一方で、メインシステムのAIで膨大な計算処理を行い、メンバー毎に最適解とされる髪型・メイク・衣装・体重、さらにはメディアやファン向けて演じるべきキャラクターまで提案していたんです」


 AIの活用があらゆる産業分野で進んでいることは誰もが知るところだ。一見、AIと相性が悪そうな規則性に乏しい芸能の世界で使われ始めていたとしても不思議ではない。ただ、そのようなAIが実際にニシユルの運営に用いられていただけでなく、彼女たちの個性やビジュアルの方針にまで関与していた事実を細川に聞かされ、美喜雄はショックを受けていた。


 細川に促されるようにして、松浦もIshtarについて語り始めた。

「そのIshtarの開発者の一人が葉月里音だ。彼女はアメリカの大学で情報工学とデータサイエンスを学び、Ishtarの原型となるアルゴリズムやアーキテクチャを完成させた上でブレインランドに入社したんだ。ただ、アイドル運営の意思決定を司るAIを完成させるにあたり、葉月たち開発チームには不足しているものがあった。それはデータだ。アイドル運営に特化した人口知能を完成させるためには、数多のアイドルが辿ってきた活動履歴にまつわる膨大なデータを学習させる必要があったらしい。ただし、アイドルの歴史はまだまだ浅い。金を使って研究を進めている大学や企業もほとんどない。アイドル研究家を名乗って仕事をしている物好きはワシくらいなもんだ。だからこそ葉月とブレインランドはワシを頼ることを思いつき、データをよこせと言ってきたんだろう」


 2020年に松浦の元を訪れた葉月は、松浦が長年かけて収集していたアイドルに関するあらゆる研究資料・書籍・グッズなどを持ち去ったらしい。研究資料に関しては松浦自身が少しずつデジタル化を進めていたものの、その大半は雑誌やパンフレット・レコード・CD・LD・VHSといった旧世代メディアのままだったため、葉月たちは何台もの大型トラックを使ってそれらを運び出したという。

 大正から昭和初期、戦後の高度成長期に「スタア」と呼ばれた映画俳優、70年代以降の「テレビの時代」に誕生した日本型アイドル、80年代の黄金期を彩ったアイドル、90年代のアーティスト型アイドルやグラビアアイドル、2000年代以降の地下アイドル、声優アイドル、2010年代の大所帯グループアイドル、ネットアイドル、韓流・アジア系アイドル、欧米のアイドル要素が強い若手アーティストまで、松浦が所蔵していた資料は古今東西の様々なアイドルをカバーしていた。葉月里音はそれらの資料すべてをデータ化し、Ishtarに学ばせたらしい。


「京子社長はIshtarのポテンシャルを確認した上でニシユル戦略本部を立ち上げたのでしょうね。ニシユル戦略本部の設立以降、ニシユルの運営は大幅に刷新されました。メンバーにはタブレット端末が手渡され、すべてが徹底的に管理されるようになりました。そして、その直後に開催されたオーディションでニシユルに加入したのがマイマイです」

 美喜雄は細川に尋ねた。

「宝田舞は、Ishtar によってニシユルのメンバーに選ばれた…ということですか?」

 細川は首を横に振りながら答えた。

「そこまでのところは…僕にもわかりません」

 細川の言葉を受け、松浦が続けた。

「ただ、彼女の加入によってニシユルが完成したことは事実だ。パズルに欠けていた最後のピースが埋まるかのように見事にハマった。その後のニシユルの躍進は皆も知る通りだ。もし、Ishtarが宝田舞を見出したとするなら…Ishtarは信じられないほどの成果を上げたと言えるな」


 美喜雄は細川の気持ちを慮った。細川にとって、自分がデビュー当時から関わってきたニシユルのブレイクは何よりも嬉しかったはずだ。しかし、それがAIの意思決定によって成されたものだと知ったとき、細川は素直に喜ぶことができたのだろうか。


 細川が松浦に尋ねた。

「松浦先生はIshtarがマイマイを殺す…という意思決定をしたと考えられたのですよね? ただ、AIであるIshtarは、彼女たちがアイドルとして売れること、多くの人に愛されることを導き出すための計算や意思決定をしてきたはずです。事実、Ishtarによるプロデュースがスタートして以降、ニシユルは間違いなくブレイクしました。そもそもIshtar自体が新たな五人目のメンバーとしてマイマイを選んだ可能性も高いわけですよね? それを…今になって殺せだなんておかしいじゃないですか? 先生はIshtarが暴走したとでも考えているんですか?」

 松浦は頭上の小洒落たシャンデリアを見つめながら唸った。

「ワシはそこまで詳しいことは知らん。Ishtarがどんなふうに作られているのかも知らん。ワシの持っていた資料やデータをどんなふうに使っているのかもさっぱりわからん」

 美喜雄が松浦に聞いた。

「先生はIshtarの開発や運用には関わっておられないのですか?」

「ワシはこの家の地下室に溜め込んでいたガラクタ同然のコレクションや資料を提供しただけだ。彼女はワシにこう言ったんだ。 “永遠に人々の心に残り続けるアイドルを生み出したい。そのためはあなたが持っている資料や研究データが必要だ。だから協力してほしい” とな」

「先生は、貴重な資料をタダで葉月里音に渡したんですか?」

「ただのガラクタだと言ったろ。歳を取ってからは以前のような収集癖もなくなったし、そろそろ処分しなければと考えていたものばかりだったからな。それを欲しいと言ってくれる物好きがいるのなら、譲らない手はないと思った。それに…彼女の言っていた “永遠に人々の心に残り続けるアイドルを生み出したい” と言う言葉に、ワシ自身も何かを期待していたのかもしれないな」

 細川が言った。

「永遠に人々の心に残り続けるアイドル…言うのは簡単ですが…難しいでしょうね」


 松浦は美喜雄たちの方に身を乗り出し、かつてのアイドル研究家らしい顔付きになって話し始めた。

「アイドルという存在を定義することは難しい。英単語のidol を直訳すれば偶像、あるいは信仰の対象ということになる。つまり、アイドルとは役割や状態のことを指す言葉であって、特定の職業を指す言葉ではなかった。野球選手やプロレスラー、政治家でもピアニストでもアイドルと呼ばれるような人たちは存在する。ただ、日本ではそこから派生して、固有の職業としてのアイドルが生まれた。歌は歌うがシンガーではない。踊りを踊ってもダンサーではない。テレビのバラエティ番組に出ることもあるがタレントやお笑い芸人とも違う。よくよく考えてみれば極めて得意な存在だ」

「以前、先生は “アイドルとは多くの人に愛される才能を持った人” だと、様々なメディアや書籍の中で語られていました」

 細川の言う通り、テレビや雑誌に引っ張りだこだった当時の松浦は、曖昧だったアイドルという存在をそのように定義していたし、そのことは美喜雄もよく覚えていた。

「愛されることはアイドルにとっての絶対条件だ。その見解は今でも変わっていないし、多くの人たちが今でもそう言うだろう。だからこそ、職業としてのアイドルには多くの人の目を惹きつけるための容姿や才能が求められる。さらに言えばそれらのベースとなる若さも重要な要素の一つだ」


 一生アイドルを続けると宣言するアイドルも珍しくないが、周りはそうは思ってくれない。近年、男性アイドルの職業寿命が伸びつつある一方で、多くの女性アイドルは20代中盤、遅くとも30歳までには実質的なアイドルとしてのキャリアを終える。その後は仕事の内容によって、俳優・タレント・歌手・ミュージシャンなどと紹介されるようになり、アイドルと呼ばれる機会は徐々に減っていく。


「多くの日本人は、アイドルという言葉から10代、20代の若者を連想するだろう。個人にとって永遠のアイドルは存在し得るが、職業としてのアイドルは永遠の存在ではない。それこそ人の命や若さが永遠でないようにな。だからこそアイドルは儚くて尊い。ワシは…この若者達の刹那の輝きを見逃すまいという執着だけでここまでやってきたようなもんだ」


 細川は松浦のアイドル論に頷きながらも「早く核心に迫りたい」という思いが抑えきれず、忙しなく貧乏揺すりをしていた。

「先生、確かにその通りかもしれません。ただ、その話とマイマイの件にどのような関係が?」

「ワシは葉月里音が言っていた “永遠に人々の心に残り続けるアイドルを生み出したい” という言葉について、当時は深く考えることもしなかった。単純にそれくらい人気のあるアイドルを育てたい…その程度のレトリックだとしか思っていなかった。しかし、どうやら彼女は本来は刹那的なものであるはずのアイドルを、真に永遠の存在にしようとしていた節がある。その思想がIshtarに反映されていたとすると…」

 美喜雄は松浦に対して持論を投げかけてみた。

「大昔のことはわかりませんが、今は過去のコンテンツにも簡単にアプローチできる時代です。2005年生まれの私もネット動画で80年代のアイドルの映像を観ることがあるように、アイドルに関する映像・音声データが半永久的に残り続ける土壌ができたことを考えると “永遠に人々の心に残り続けるアイドル” を生み出すことも夢物語ではないと思いますが」

 松浦は首を横に振りながら言った。

「データとして残っているだけでは人々の “心” に残り続けているとは言えないだろう。定期的に観られるだけのコンテンツデータだけでは足りないんだ。結局、人の心に深く刻み込まれるのは “体験” だ。アイドルとして、ファンにどれだけ強烈な “体験” を与えられるかが問題になる」

「強烈な体験?」

 美喜雄は思わず前のめりになった。

「長い期間をかけて少しずつ蓄積される “経験” ではなく、瞬間的かつ強烈な “体験” だ。強烈な体験とは何か…ワシはこう考える」

 松浦は、美喜雄と細川の反応を窺いながら続けた。

「アイドルでいえばデビューや引退、グループからの卒業や脱退などがそれにあたる。つまりは始まりと終わり、人間の生と死を連想させるイベントだ。それらの出来事は、アイドルを応援していたファン自身にとっての強烈な体験として心に刻み込まれる」

 細川は苦笑しながら業界の現状を皮肉った。

「卒業公演や引退興行は盛り上がりますからね。大人数のアイドルグループであっても同時に何人も辞めさせることはほとんどなく、メンバーの卒業時期を少しずつずらすことで卒業公演の数を増やしていく。そうしたグループを抱える事務所にとって卒業公演はドル箱興行以外の何物でもありませんから」

「グループとしての器を残しながら加入という “生” と、卒業という “死” の疑似体験をファンに提供できる世代交代型アイドルグループの発明は画期的だったと言える。グループそのものが生まれ、消滅するインパクトに比べれば得られる体験の強烈さは減ってしまうが、グループそのものが存続することによってファンを離さずに利益を生み出し続けることもできる」


 細川は松浦の言わんとすることをぼんやりと理解し始めていたが、今はとにかく結論を急ぎたかった。

「つまり、葉月さんの望む “永遠に人々の心に残り続けるアイドル” を生み出すために作られたIshtarは、先生が言うところの “生と死” に値する強烈な体験をファンに与えるために、マイマイを殺すような計算結果を導き出すはずだと? それが先生の言う “精度の高い勘” の根拠ですか?」

 松浦は細川の問いには直接答えず、眉間にシワを寄せて目を閉じた。

「若さと生は有限だが、死は無限かつ永遠だ。全盛期に急逝したアイドルやアーティストは若いときの姿のままに神格化され、多くの人の心や記憶に残り続ける。生きていればもっと活躍したんじゃないか。もっと素晴らしい体験を与えてくれたんじゃないか。時代を変えてくれたんじゃないか。そんな人々の期待や妄想に支えられながら、死人は伝説となっていく…」

 美喜雄は哀しげな表情で呟いた。

「ニシユルが集団自殺事件を起こした後、アイドル研究部への入部希望者が急に増えました。彼女たちが元気だった頃は部員三名の部活だったのに、二学期からは32名も増えます。これも松浦先生が考える “強烈な体験” の効果…」

「良くも悪くも、その最たる例と言えるだろうな」


 細川はスマホのメールを見返しながら松浦に尋ねた。

「先生、万が一Ishtarがそのような計算結果を導き出していたとして…何故7月30日なのでしょう? どうしてマイマイが殺される日を7月30日であると特定できたのですか?」

「アイドルには物語が必要だ。そのことをよく知っているIshtarは、ニシユルに対して数々のストーリー性のあるイベントを提示していたように思える。事務所の人間もそれに同調して動いてきたのだろう。逆に言えば、ストーリーを偏重するIshtarの考えは読み易いとも言える。Ishtarは人間ではないからこそ、偶然よりも不自然な必然を作りたがる。たとえばニシユルのメンバーが新宿御苑のスタジオで見つかった6月8日だが、ニシユルはその日のちょうど一年前にグループの人気を決定付けた大ヒット曲『青年期の魔物』をリリースしている」

 松浦の言わんとすることを理解し始めた美喜雄は、全身に鳥肌が立つのを感じた。

 細川は続けて松浦に聞いた。

「では、7月30日は一体…」

「7月30日は何でもないただの1日だ。ワシは君らに少なくとも1日前には動いて欲しかったから7月30日と書いたんだ。で、翌日の7月31日は何の日だ? 細川君、君ならわかるだろう」

「7月31日…2019年の7月31日…ニシユルが初めてライブハウスに立った日です。彼女たちの公式デビュー日として知られています」

「ニシユルがデビューから4周年を迎えるその日、最後のメンバーが四人の仲間の後を追って自ら命を経つ…小説や映画であれば陳腐に過ぎる展開だが、AIであるIshtarには羞恥心などない。それはIshtarの提案に対して何の疑いも持たず、AIの意思決定を実現させるためだけに動いてきたブレインランドの大人たちにも言えることだがな」

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