夜に還る者( The One Who Returned to the Night )
S.HAYA
プロローグ: 誰かを忘れていた
雪の降る音だけが、夜の世界に残されていた。
俺は、“エリオット”という名前で呼ばれていた。
誰が名づけたのかも、いつからそう呼ばれるようになったのかも思い出せない。ただ、村の人々は俺をそう呼び、俺もそれに応えていた。
山の中の静かな村だった。外界から隔絶された場所。電気も通らず、火と水と風だけで生きていく日々。夜になれば焚き火の周りで子どもたちが昔話を聞きたがり、年寄りが笑いながら語ってやる。
その中に、よく出てくる名前があった。
クロウ。
「夜の王を殺した者さ」
「かつて“夜”を歩いていた、黒い影」
「狼を従え、牙を振るった英雄」
俺は、焚き火の向こうでその名を聞くたびに、どこか胸がざわついた。
まるで忘れていた夢を、遠くで誰かが囁いているような……そんな感覚。
でも、俺はクロウじゃない。ただの男だ。
薪を割り、雪を掃き、子どもに笛を作る──そんな平和な日々が、永遠に続くと思っていた。
それが崩れたのは、雪が赤く染まった夜だった。
犬が吠える声がした。
それは、吠えるというよりも、何かに怯え、狂ったように鳴き続ける悲鳴だった。
俺が外に出ると、空が黒い影で覆われていた。
群れだ。
それは人間の姿をしていたが、人間ではなかった。
爪が異様に伸び、目が赤く、息が白く煙のように流れていた。獣の臭いがする──それも、昔嗅いだことのある、最悪の夜の匂いだった。
気づけば、俺は走っていた。
叫び声が響く中、火の手が上がり、雪が灰に変わっていた。
倒れていた老婆を抱き起こし、男を担ぎ、子どもの手を引いた。だが、すべては遅すぎた。
何人もの命が、目の前で刈り取られていった。
血。
牙。
悲鳴。
そして、赤い月。
そんな中、一人だけ、生き残っていた少女がいた。
白い服に返り血を浴びて、震えていた。俺が近づこうとすると、少女はゆっくりと顔を上げた。
真っ直ぐに、俺を見つめた。
「……あなたは、クロウでしょ」
その瞬間、胸の奥が焼けるように疼いた。
心臓じゃない。もっと深いところ。記憶の奥に封じられた“何か”が、目を覚まそうとしていた。
そして、聞こえた。
──目を背けるな、ジョナサン。
夜は、お前を忘れてなどいない
その声は、俺の声だった。
だけど、俺ではない誰かだった。
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