2-10. 君は、誰だ
「……音楽は、聴こえますか」
その問いは、静寂の中に、一つの波紋のように広がった。
最初にその静寂を破ったのは、高林の侮蔑に満ちた乾いた笑い声だった。
「音楽だと? やはり、父親と同じ道を辿っているらしいな。完全に狂ってしまったか」
彼は、作業員の男たちに再び顎でしゃくってみせた。
「聞いたかね。彼はもう正常な判断ができない。さあ構わん。壁の作品から運び出せ」
男たちが、ためらいがちに、一歩、踏み出す。
だがそれを、今度はカイト自身の静かな声が制した。
「待ってください」
彼は、陽菜の肩を借りながらも、しっかりと自分の足で立った。その瞳には、もう以前のような怯えや焦りはなかった。そこにあるのは、深い湖のような静けさだけだった。
「この絵は、音を失った男の最後の交響曲です。そしてその音を取り戻そうとした、僕の戦いの記録でもある。あなた方には聴こえないのも無理はない」
カイトはゆっくりと絵に近づいた。そして、完成したキャンバスのある一点、彼が最後にあの「沈黙の黒」を置いた場所に、そっと、指先で触れた。
その瞬間だった。
カイトの脳裏に、全く違う場面の、鮮やかな記憶の断片が、閃光のようにフラッシュバックした。
――白い、天井。ツン、と鼻をつく、消毒液の匂い。
――自分の腕に、固い石膏のようなものが巻かれている、不快な感触。
――そして、すぐ耳元で、知らない女の人の穏やかな声が、語りかけてくる。
――『月城さん、聞こえますか? もし、聞こえたら、私のこの手を、握り返して……』
「……っ!」
カイトは、思わず、よろめいた。
一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ、あの忌まわしい電子音が、頭の中で鳴った。だがその音は、今、はっきりと意味を持っていた。それは、彼が病院のベッドで生命維持装置に繋がれていることを示す、現実の音――。
「どうしたの、カイト!」
陽菜が、彼の身体を支える。
カイトのそのただならぬ様子と、一瞬完全に焦点が合わなくなった瞳の変化を、ジャーナリストの迫だけが見逃さなかった。
彼は確信を得たように、一歩前に出た。
「高林さん、村越先生。これは、もはや単なる遺産相続の問題ではない。そして、芸術論争でもない」
迫は、集まった他の記者たちに、聞こえるようにはっきりとした声で言った。
「これは、月城宗一郎という偉大な芸術家が遺したかったものと、彼の息子であるこの青年、月城カイトの人権に関わる重大な事件だ。もし今日、あなた方がこの作品を彼の意思に反して力ずくで運び出すというのなら。私はその一部始終を、一語一句、私の読者へ伝えることになる」
彼は、にやりと、意地の悪い笑みを浮かべた。
「見出しはこうだ。『権威は、新たな才能をいかにして精神的に追い詰め、その魂の叫びである作品を踏み潰したか』。……なかなか、面白い記事になりそうだと思いませんか?」
その言葉は脅迫だった。だがそれは、法的な力よりも、時に強い力を持つ世論という名の暴力の示唆だった。
高林と村越の顔が、怒りで赤く染まった。彼らにとって、世間的な体面と権威こそが命綱なのだ。ゴシップ記者として悪名高い迫に、そんな記事を書かれることだけは避けたかった。
「……よかろう」
長い、長い、沈黙の後、高林が、歯ぎしりしながら言った。
「一日だけ、だ。一日だけ、待ってやる。だが、それ以上はない。明日、同じ時間に、また来る」
彼はそう言い残すと、作業員たちを伴って、嵐のようにアトリエから出ていった。
ジャーナリストたちも、それぞれが興奮した面持ちでメモを取りながら、あるいはカイトに名刺を渡そうとしながら、三々五々引き上げていく。
やがてアトリエには、カイトと陽菜、そして迫の三人だけが残された。
カイトは、まだ、さっきの記憶の断片の衝撃から、立ち直れずにいた。
彼は、自分の右手を、じっと見つめた。
まるで、そこにまだ固い石膏が巻かれているかのような、幻の感触を確かめるように。
そして、陽菜の顔を見た。その瞳には、これまで考えたこともなかった、恐ろしい問いが浮かんでいた。
――陽菜。お前は、本当に、俺の知っている、陽菜なのか?
(第二部 了)
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