転移賢者はWikiを開く
藤乃宮遊
第1章 生存戦略
第1話 異世界にスマホ1つで転移した件
意識が浮かび上がってくると同時に、まず耳に入ってきたのは風の音だった。柔らかい木の葉のざわめきに混じって、鳥の声が遠くから響いてくる。地面に背中を預けたまま、男はまぶたをゆっくりと開いた。
視界は鈍く白んでいたが、やがて焦点が合ってくる。木々の間から洩れる陽光が彼の顔に当たっていた。だが、その光は知っている太陽とは違っていた。どこか黄ばんでおり、空の色も、雲の質感も、地球のものとは思えなかった。
男──広瀬悠(ひろせ・ゆう)は、軽く身じろぎをした。背中が湿った草で冷たく、服が少し泥で汚れていた。だが体に異常はない。出勤前に着ていたアウトドア用のジャケットとジーンズ。足元はスニーカー。ポケットには──
スマートフォンがあった。
彼は急いでそれを取り出す。画面は正常に表示された。が、そこにあるのはたった一つのアイコン、「Wikipedia」。他のアプリはすべて消えている。通信マークもない。機内モードでも圏外でもなく、まるで通信そのものが存在しない世界にいるかのようだった。
悠は混乱していた。夢なのか、妄想なのか、事故にでもあったのか。だが現実の手触りが強すぎた。草の匂い、土の湿り気、風の感触、太陽の暖かさ。それらすべてが、「現実」であることを否応なく彼に認識させていた。
「……どこだ、ここは……」
呟いた声は妙に澄んで、森の中に吸い込まれていった。
考えろ、と彼は自分に言い聞かせた。まずは状況の把握。名前は思い出せる、自分が誰であるかも分かる。今日は木曜日の朝、出勤前に少し時間が空いてスマホでニュースを見ていた。そこから──記憶がない。
唐突な断絶。だが、目の前にあるのは「現実」だ。
彼は立ち上がり、まず森の中を歩き始めた。何か目印になるものを探す。少し歩くと、獣道のような細い道が見えた。これは人の通った痕跡だ。
歩きながら、彼はスマホをいじった。動作はする。Wikipediaだけは、問題なく起動する。オフラインデータとして格納されているのか、検索も閲覧も可能だった。
彼はスマホを握りしめ、まず「異世界転移」というワードをWikipediaで検索した。出てきたのは、予想通りというべきか、ありとあらゆるフィクションの中での「転移」や「召喚」に関する説明だった。なかには「時空の裂け目」や「魔法陣」など、眉唾な用語も並ぶ。だが、それらはすべて「現象」としての記録に過ぎない。原因も、帰還方法も不明とされていた。
半信半疑で、「中世ヨーロッパ」「農業技術」「疫病」「火の起こし方」「自然環境」といったキーワードを検索してみる。すべてヒットする。文章は正確で、参考図もある。
だが──
それが何だというのか? 自分は農民でも技術者でもない。理系の大学を出てはいるが、実地で井戸を掘ったことも、火打石で火を起こしたこともない。ただ知識を「読める」だけの存在だ。
自嘲が胸を過ぎる。だが、それでも何もないよりはいい。このスマホの情報は、少なくとも「知識」を知るための手がかりにはなる。
彼は一歩一歩、慎重に道を進んだ。数分、いや数十分歩いただろうか。木々が途切れ、開けた場所に出た。そこには草屋根の小屋が数軒建ち、畑らしきものと、汚れた井戸のようなものが見える。
そして──一人の少女がいた。
痩せた身体に麻袋のような服。肩までのぼさぼさの髪。彼を見つけると、少女は一瞬驚いたが、すぐに目を細め、警戒を崩さなかった。
「……旅の人か?」
その言葉は、奇妙な訛りが混じっていたが、不思議と意味は理解できた。彼の耳が自然に変換しているような感覚があった。
「ああ……そうかもしれない」
彼が答えると、少女はしばらく睨むように見ていたが、やがてため息をついた。
「……まあいいや。村に来いよ。あんた、医者か? この前の戦でケガ人が多くてな」
医者ではない。だが、Wikipediaには医学知識もある。最低限の衛生や応急処置の知識なら、参照できる。何もしないよりは、何かができる。
・・・はずだ。
彼は少女についていくことを決めた。道中、少女が語る話から、ここが何らかの戦乱に巻き込まれた辺境の地であることが分かった。
荒廃した村。汚れた水。伝染病の危機。薬も医師もいない。
──この状況に対して、悠はまだ「確信」してはいなかった。ただ、胸の奥に芽生えたものがあった。仄かな、だが確かな「可能性」だ。
自分が、ここで生きていく術。持っているのはWikipediaだけ。
だが、それは万能ではない。問題は、そこに書かれたことを「どう実現するか」。必要なのは知識の再現能力。そして、他者との協力だ。
彼の眼差しは、次第に冷静さと意志を帯びていく。
何もかもが足りないこの村で、彼が成すべきこと。
「ここを、生き延びられる場所にする」──その思いだけが、彼を前に進ませた。
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