第5話:だしの向こう側


おでん鍋の中、深夜の静寂が湯気とともに漂っていた。

熱く香ばしいだしの香りが、鍋いっぱいに満ちている。


がんもどきは、ゆったりとした動きでだしの中を漂いながら、遠い過去を思い出していた。


「ここが……俺の新しい居場所か……」

彼の声は、だしの熱で少し震えていた。


かつて異世界を支配していた魔王は、今ではただのがんもどき。

しかし、その中に秘められた意思はまだ消えてはいない。


隣にはちくわが静かに浮かんでいた。

かつての勇者は、今やおでんの一具として日々を過ごしている。


「魔王殿、まだ希望はあるはずだ。俺たちはこの鍋の中でしか生きられないわけじゃない。」


ちくわの声は力強く、彼自身もまた何かを信じているようだった。


鍋の中には、他にもさまざまな具たちがいた。

こんにゃく、しらたき、黒はんぺん、そして串――彼ら全員がこの不思議な世界での日々を生きている。


だが、彼らの心の奥には常に問いがあった。


「この鍋の外には何があるのか?」


「我々の運命はどうなるのか?」


その問いは、鍋の熱とともに熱く燃え上がっていた。


 


がんもどきは、目を閉じて静かに息を吸った。

「だしは、この世界のすべて。だしに溶け、だしに生き、やがてだしに還る……」


その言葉は彼自身の運命でもあり、同時にこの鍋の全ての具に課せられた宿命でもあった。


だが、彼の心はまだ揺れていた。


「だが……冷蔵庫と呼ばれる伝説の世界がある。そこは永遠に冷たく、新鮮でいられる場所だと聞く。」


しらたきが隣で話し出した。


「冷蔵庫……それはまるで天国のようだな。」


「だが、それは遠く、危険な場所。俺たちはここで煮込まれ、味わい深くなる運命を背負っている。」


ちくわがそう答えた。


鍋の中でそれぞれの思いが交錯し、具たちの間に静かな緊張感が生まれていた。


 


その時、鍋の縁から一本の串がゆっくりと差し込まれた。


鋭く光る先端はまるで命を持っているかのように、鍋の中の具たちを見据えた。


「運命はまだ動いている。」


がんもどきはそう呟き、仲間たちの決意を促すように目を光らせた。


 


具たちは互いに視線を交わし、新たな旅立ちへの覚悟を固めていた。


「我々は……まだ終わっていない。」


ちくわの声が響く。


「鍋の中で過ごす日々も悪くはないが、まだ見ぬ世界があるなら、俺たちはそれを目指すべきだ。」


しらたきも静かに頷いた。


「この鍋の外に、俺たちの未来があるなら……」


 


湯気の間から、屋台の親父の声がかすかに聞こえた。


「寒い夜だな……おでんで体を温めていけよ。」


その言葉が、鍋の具たちに温もりと共に背中を押すようだった。


 


鍋の中の世界は小さいが、彼らの心は広く大きく、未知の世界へと広がり始めていた。


それは、だしの向こう側への挑戦だった。


 


そして、新たな物語が今、始まろうとしていた。

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