第4話 中指
【注意】あとの話で書きますが、この世界のイギリスはインフレとデノミを経験しているため、貨幣価値があなた方の暮らしている世界のイギリスと異なります。
エマに会ったのか。ああ、鼻につくやつだろ。まず喋り方からしてな。お前の国の人間は、英語なんて全部同じに聞こえるんだろうから、あいつの喋り方がどれだけ気持ち悪いか分からねえんだろうけどさ。お前の喋り方からして分かるぜ。どうせ合衆国の人間のマネでもしてんだろ。田舎者の癖にイキってやがるみてえな、レロレロしたやつだ。俺みたいなべらんめえ口調でもねえ。いい機会だから本物の英語、下町言葉勉強して帰れよ。
そっか、アスターの話になったのか。あいつを貴族と思ってもらっちゃあ困る。あれは本物のクズ……、のはずなんだが、仕事だけは並外れてできるらしくてな。ハッタリも人心掌握もそれなり上手になったから、交渉もバチクソ得意らしい。
結局謝りに来たかだって? 来てねえよ。来るつもりはあったらしいけど。そんなことよりも今日は俺が奢る番だぞ。ホレこっちだ。
よお、こいつと俺にそれぞれ、エールを一パイントずつ。
「まいど! 五十四ポンドっす」
はいはい。
「お釣りね。お連れさんは観光に来てんのかい?」
日本から来た記者なんだ。俺たちのこと記事にするつもりなんだってよ。
「へえ、それじゃあうちの店のことも書いてくださいよ」
きっと書いてくれるだろうさ。口数は少ねえけど、いいやつなんだ。
「それって、英語が苦手なだけなんじゃねえのか?」
いなめねえ。
「だろうさ。あまりまくし立てて喋るんじゃねえぞ。はい、どうぞ。ごゆっくり」
それじゃさ、チマチマやろうぜ。そうそう。お前の国の言葉も少し覚えたんだ。ノゥミースゥギィナィデイクダサィ。ワラワナィデイクダサィ。アーナタノゥオゥハナシカタヨリィマシィ。ああ、やめたやめた。頭の中こんがらがる。
それじゃ、アスターに絡まれた後のことを話すぞ。
俺んちに来て親父に詫びろってのは、そのときの俺も相当な無茶ぶりだって分かってた。アスターみたいな、そこそこの爵位の家の子がそんなことしたらやっぱり、タブロイドのネタになる。恥を全国に晒せって言ったようなもんだ。
宣戦布告に近いよな? 勢いってのはおっかないもんだ。半分後悔してたよ。吹っ掛けすぎたって。これじゃ、誰かと組まない限り、いや、仲間を見つけられたとしても、仕返しをしてはその仕返しを……、ということの繰り返しになる。エマが言ったみたいにな。それじゃ、着地点はどこにするかとか。
やめたやめた。情報がないからな、考えるだけ無駄だ。レポートの準備をする方が先だ。みんな、アスターもエマも、互いの寝言まで聞いて過ごしているわけだ。ズルだよな。俺は違う。
それで、家に帰るとしても、本を借りてからじゃないとな。あの後すぐ、学校の図書館に寄って、いくつか本を見繕うことにした。自治体の図書館とは全然違う。もちろん、学校の図書館の方が、クソだ。同じニス塗でも、こっちの机はずっしりと、それはそれは高そうな感じ。部屋全体埃っぽくて、カーペットなんて高級なボロきれだ。安くて綺麗なやつに張りかえた方がいいように見える。い~や、こんな重苦しい石造りの宮殿じゃ本もすぐカビちまうから、さっさとコンクリート造りの明るい図書館を建てた方がいい。
長居しない方がいい。俺は他人が勉強しているところを見ているとイラつく質でな。とりあえず、図書目録でチェックした使えそうな本を中心に、書架によさそうな本があれば、それも使うことにはしたが。
「先ほどは申し訳ありませんでした。アスターには改めて、きつく言っておきましたので」
エマだな。そう囁いてから、俺の抱えている本に目をやった。
「課題ですか。自主学習ですか」
「課題だよ。近現代史」
「パウエル先生のですか。今回の課題は千九百十四年の世界大戦からワルシャワ体制の確立までの間に起こったことを自由に書くのでしたね」
お互いに声は抑えめだったが、エマは話題を見つけられてうれしいと思っているんだって、声色から分かった。俺はさっきアスターと揉めてから考え方を変えた。敵じゃないなら、そこそこに付き合ってやろうって。
「そっちは準備してるのか」
「今構成を考えているところでして」
「そうか。さすが。本は今から借りるのか」
「ええ」
「早くした方がいい。本持っていかれちまうぞ」
「ヘンデルさんが使えそうな本を借りていたら、私も一緒に読ませてもらいます」
「ほい、この三冊だよ」
三冊の本の表紙に目をやって、そのうちの一冊を開いて「ヘンデルさんは何について書かはるんですか」と聞いてきたから、俺は「ドイツの、ヴァイマル共和政の崩壊と、内戦、連邦と共和国への分裂について。特に経済と合衆国の政策がどう関わっていたのか」と答えた。
「難しいと思うのですが」
「原因なんて一つに絞れないからな」
「高中生でそこまで書けるなら、あなたは相当優秀ですよ」
また、エマの目が輝きはじめる。ああ、俺はこういうの苦手なんだ。俺は単純に、どうしてみんなが争わずにはいられないのか、それが知りてえだけだった。大学に入る前でも、できる範囲で問いを立て、答えを考えようと思う。本音はこうだが、今やるべきことは謙遜だ。
「自分の力量はわきまえている。あまり込み入ったことは書かねえよ。俺たちの歳なら、調べ物をして、無理筋通さなければAだろ。でもまあ、難しそうならテーマ変えるかな」
「どう論理を展開していくつもりですか」
「世界恐慌が起こったとき、とりあえず合衆国が援助を打ち切ったところも重いと。それで恐慌に対応できずに大統領は失脚して、混乱が起きて」
「いささか乱暴ではありませんか。背景をお聞きしても」
前は、こういう、いかにも勉強できますアピールは嫌いだった。俺は街の学校の出だから余計にな。ただな、俺、こういう好きな話題だったらいくらでも話しちまうんだよな。それが衒学的に見えたら嫌だなとは思う。ただ、これからはそういうノリにも慣れていかなきゃいけない。とりあえずは喋ることにした。
「ああ、もちろん。彼の国、ドイツは先の大戦以来右派と左派の対立が深刻で。終戦の大体五年後くらいになんか極右がミュンヘンで暴動を起こして、首謀者のアドルフ・ヒトラーだったっけか、そいつが警官隊に射殺されるなんてこともあった。旧貴族層の不満も無視できなかっただろうし、庶民が飢えへのトラウマを持っていたりして」
「急に纏まらなくなりましたね。あまり長いレポートを出しても先生が困りますよ」
そうは言われたが仕方がねえだろ。俺が好きなんだから。素直にそう言うわけにはいかなかったから、とりあえず、俺も不機嫌な顔になっちまったかもしれないが「そこは、なぜ大統領の退陣だけでは済まなかったのか……、ってことを言いたいからどうしても書かなきゃいけない」と答えてな。そしたら、エマもマジの顔になって「では、なぜ合衆国の政策を原因の一つに」と囁いてきた。
「ダメ押しでって感じかな。彼の国はあの恐慌を独りでどうにかできる国じゃなかった。経済の対応が上手くいかなくなったから、右派と左派の分断が深刻になって、左派が国会で急伸、そこに保守派と旧軍部のクーデターが起こり、逆に左派に対する大規模弾圧が」
急にエマが「そこまで書かない方がいいです」と口を挟んできた。慌てた感じで周りを見渡すと、本当に小さな声で、俺の耳元で「アカだと思われると困ります」と囁いてきた。俺は驚くというより、ちょっとムッとしたかな。
「俺はこう書きてえんだよな」
「もしかして、他の課題ではそのような、過激なことを書いていたりとかはしませんよね?」
「過激か?」
本当に、俺としては当たり前のことしか書いていないと思っていたんだが、エマは呆れ果てたように、「やはりあなたには友人が何よりも必要なようです」と諭すように言ってくるものだから、余計にムカついた。図書館だったから、大声は出さねえけど。
「どういう意味だよ」
「こうした課題が出たときは、寮の自習時間に皆で集まって互いのレポートの草稿を見直すのです。過激思想と先生に受け取られないか、気になったところは指摘しあって修正するのです」
そんな気持ち悪いことを、互いに検閲しあうようなことをこいつらはしているのかと、単純に嫌悪感というか、そうした気持ちが出てきて、「分からないところを教え合うとかそういうことをしてるんじゃねえのか? みな自由に議論を戦わせているんじゃないのか」と問いただすと、「もちろん、理解できないこと、疑問なことは一緒に問題を解いたりしますが、私たちは自由の意味をはき違えるようなことはしません」と頓珍漢な返答しか返ってこねえ。
「お前の言う自由って何だ?」
「他の人にはそんなことは聞かないでください。約束ですよ」
「なぜ」
「あなたみたいに優秀な人間がここで潰されてしまうのが、私には耐えられないのです」
「は? 潰される?」
「ヘンデルさん。お願いですから! 今は平和に過ごして点を取ることの方が大切です」
はいそうですかとは答えたくなかったが、エマがあまりにも必死なものだから、「いや、分からねえけどさ」と小さく呟いた。正直、さっきアスターが俺の靴を踏んできたことを、あそこまで怒ってくれたのに、どうしてこんなにと、おっかなくなった。
それで俺が喋らなくなったのが気まずかったのか「それでも、どうしても書きたいことがそこまであるなら、大学で勉強した方がいいと思います。そのためには……」と説得のようなことを続けてきたから、「いや、高中でこんな内容のレポートがダメなら大学もダメだな」とため息交じりに話すと、「なぜですか? この国でも大学では学問の自由は保障されているでしょう。大学に入ってしまえば」と食い下がるものだから、「どうやら寮では新聞を読めないらしいな」と返したら、ニ、三秒エマは目を丸くして黙って何かを考えてから、「読めますとも。教育に悪い内容は消されていますが」とこちらの顔をうかがいながら、馬鹿にしないでほしいとでも言いたそうに、囁いた。
「昨日の朝刊の話だが、国内のいくつかの大学の法学部と文学部の教授が複数人辞めさせられたそうだ。思想関連で。どうすりゃいいんだ? 俺は外国に行きゃいいのか?」
そのときのエマの居心地の悪そうな顔といったら。俺も「悪かったよ」と詫びるほかない。
「エマは悪くない。こんな話題出して申し訳なかったな」
「いえ、私は……。ただですね。留学するにしても、この学校での成績は重要です」
重苦しい空気を変えたくなったから、とりあえず「わーった。どうすっかな」と肩をあげ、おどけて見せた。そうしたらエマも幾分か気分がマシになったようだ。笑ってくれた。
「どうしても書きたいのであれば、先生に質問に行くのも。聞き方次第では怒られそうではありますが」
「そうだな。熱心に勉強しているという印象を持たせると、多少点数に色を付けてくれるかもしれない」
「そうですね」
エマの機嫌が直ったところで、また、静かな喧嘩のような状態になると困るから、「それじゃあ、今持っている分はとりあえず借りて帰る」とだけ言って退散することにした。
「『世界大戦後のドイツ政治』については、大体目を通したら私にも読ませてください」
「うーん。まだしばらくこの本は使うだろうからなあ。それじゃさ、明日図書館に来いよ。又貸しはできないが、図書館で俺が他のことやっている横でだったら問題はないだろ」
こっちとしては妥協のつもりだったが、やつには特別な意味があったらしい。エマもはにかんで、「分かりました。また明日」と頷いてきた。そのときに思った。言っちまったなあってさ。そもそも他人と勉強するのは嫌なんだが、エマの反応がおかしいんだ。頭の隅の方に、もしかして自分はやつに好かれているのかもしれないという考えも浮かんだが、そんな都合のいい話はあるはずないと、ちょっと熱くなった頬を叩いた。
その日はそれで終わりじゃなかった。ヴァイオリンのレッスンもあったことを覚えている。ワックスがかけられて黄金色に輝くオーク材の床に、同じ種類の木のはずなのに、こっちは黒光りする椅子。そこに腰かけて、香港から来た俺より一つ年上の男、先生、そして俺の三人で、三角形になって互いに向き合った。どことなく生温くむず痒い、お互いに見下していつつも変に遠慮した雰囲気の中、先生の表情を見ながら弾き方を変えるって、そんな調子だからいくら楽器を触るのが好きだといっても、その時間だけは嫌で嫌でしょうがなかった。
「王、もったいないな。君は本来ならヴァイオリンで食べていけるんやけどなあ」
「私もそうしたいのは山々ですが、商売があるもので」
いつもニコニコして、何考えてんのか分かんない人間だった。サラッとした短髪。無味無臭。そのときはなんだ、自分からすすんで仲良くなろうという気もしなかったし、お互い顔を合わせたときに挨拶する程度だった。今考えると、あいつも周りに目をつけらんないようにいろいろ気を遣ってたんだろうなと思う。ああいう風に振舞うように仕向けていたんだ、俺を含めた英国人は。申し訳ないと思ってるよ。
「ああ、そうだったね。自分の得意なことをやるといい。アジア人にはアジア人なりの生き方がある」
日本人として聞いていてどう思う。やっぱりいい気はしないよな。
――そこまであからさまに言われるような時代だったんですね。
時代もそうだが、その音楽の先生も悪い。俺もいろいろ言われた。ひょろりとして、ハゲを隠そうと頭剃ってんだがハゲていない部分が青髭みたいになって、辛子みたいな体臭がするおっさんだった。点はつけてくれたが、本音では馬鹿にしてたんだろうと思うよ。
「ユスティティアの弾き方についてだが、どうしても手癖が抜けないようだね。私は好きなのだが。そういう弾き方も面白いからね。音楽への熱意も感じられて悪くない」
「どうも……」
「君が弾くと、ヴァイオリンはフィドル、クラシックは民謡になる」
「どうにか直そうとはしているのですが」
「直さなくてもいい。君は十分、今のままでもAをやっていいくらいだ。悪く思わないでくれ、これは可愛い教え子への、純粋な助言だ。君ら二人は、大人になってからも音楽を続けていくなら、独奏者としてやっていくのがいいだろう。自分たちの持ち味を活かすにはそれがいい」
俺はこらえたつもりだったが、我慢できていなかったんだろうな。
「ユスティティア、そんな顔をするのはよしてくれ。私のレッスンを、こうして少人数で集中して受けられる。皆がうらやましく思うだろう」
笑いながら言うと、むしろ厭味ったらしく聞こえる。あとは、お互い最低限の挨拶はして解散だ。そのハゲの背中に、バレないように中指を立ててやったよ。静かにな。
それで、アスターのことでも、相当むかっ腹立ってたから。家に着いて、自分の部屋に戻ってから、散々「くそっ、くそっ、くそったれどもが!」って、叫び散らかした。そうして、持って帰ってきたヴァイオリンを出して、民族音楽を何曲か、あー、スワローテイルジグとか、クーリーズとかだったっけ。半ば八つ当たりするように。跳ね回るように弾いた。チューニングだけはしっかりしていたから、そうしたちゃんとした楽器で弾くとまた違って聞こえる。
結局、ヴァイオリンを弾いているだけじゃ、気分なんてよくならない。それで、もっと直接的な手段として、俺も、嫌いな先生の陰口叩きたかったけど、生憎、学校にはそういう話をできるような人間がいなくてな。この時間になると、親父も忙しくて声もかけられねえ。
誰に話そうか考えていたら、下町の学校に通っていたころの友達に会いたくなってな。力いっぱいドラムも叩きたくなったから、ギターをやっていたオリバーに声をかけようと思った。近くに住んでいるのもあったしな。うちのパブのドラムセットで、やつにギターを貸して、二人で何かやろうと思った。それで、外に出た。シャツはそのまま、スラックスとジャケットだけ褐色のやつに着替えて、下水の臭いのする裏通りをトボトボそいつの家に歩いてったよ。ズボンのポケットに拳突っ込んでな。
それで、オリバーの家の呼び鈴を鳴らすと、怪訝そうな顔をしてオリバーが出てきた。それで、俺だと知るや否や、左手を隠すように体をひねって、きまりが悪そうに顔を顰めた。
「おいおい頼むよ、ジャスティン。今日はどんな自慢話をしに来たんだ」
「は?」
こんなこと言われるなんて思ってなかったよ。最初冗談だと思って、「伯爵家の子から、嫌味なおっさんまでレパートリーだけはたくさんあるぞ」とおちゃらけてみると。舌打ちをされた。
「お前が会いに来るのは、街の学校を卒業して六回目だ。二回目まではよかった。お嬢様お坊ちゃまの物まねをしてるのが、喜劇見てるみたいで皆笑えてたんだ。三回目から飽きてきた。それで、四回目で皆白けてくると、お前は黙り込んだ。それで懲りたかと思えば五回目でまたお前が今通っている学校の話をした。呆れたね。さあ、今日は何の話をしようか」
ここまで鮮烈な敵意を向けられるとは思ってもいなかった。話題を全部潰されてしまったが、そのまま帰るとこれっきりになるような気がして「いや……、今何が流行ってんのかなって気になって」とオリバーの顔色を窺うと、馬鹿にしたように「おっさんかよ。前は自分から聴いてたじゃねえかよ、色んな曲。あの気だるげな退廃しきって、震えに震えたギターは? 優しげだったり、はっちゃけたりして表情もコロコロ変わるあのビートは? 全部聞かなくなっただろ」と笑われた。図星だった。ここから俺は守勢に回るだけで、一方的に詰られた。
「忙しくってさ……、家と学校を往復するだけで一日終わるんだ。こんなガリ勉になるなんて、俺も思わなかった」
「俺も働きながら資格の勉強して、大体お前以上に忙しいはずなんだがな」
「課題も多くてさ」
「それじゃ、宿題サボらずにやってるのは?」
「あいつらの鼻を明かしてやろうと」
「いや、お前は成り上りたい。それを一番に考えてるから、音楽なんて聴かなくなったんだ」
「そんなことは考えていないんだが」
「へえ。今はお前の店でも、上品なヴァイオリン聴けるらしいじゃねえか。皆、聴き耳立ててるってさ。その度、親父さんラジオの音量デカくすんだ。そんな奴に会っても……、な。今はいいだろ。だが半年、一年経ってみろ。話なんて通じなくなるぜ。今だってつまんねえもん。お前は、今まで持ってたもん全部捨てちまったから、空っぽなんだよ」
ここまで言われてつい我慢できなくなった。「てめえ」とオリバーのヘーゼル色の瞳を睨んでも、やつはビビりもしねえ。表情を変えず、言葉で俺を殴り続けてくる。
「ああ、どう言い返していいか分かんないだろ。それはこの何か月かで俺がどう変わったか知らないからだ。変わらない友情なんてない。人は一週間で別人になるんだ」
そうだ。もう、オリバーは知らない人間になっていたんだ。そのせいで「何が空っぽだって。お前だってギター弾いてたけど、今はどうなんだよ」としか返せなかった。ただ、これが最悪のカードだった。オリバーは少し黙ってから、「殺すぞ」とだけ言葉を漏らした。
「さっきからお前が勝手にキレてるだけじゃねえか」
俺がそう怒鳴ると、オリバーは早口で、右腕で精いっぱいのジェスチャーをしたり、俺を指さしたりして「こんな家でギターが弾けるとでも? いいさ、それで? お前は自分の家で好き勝手やってるからいいだろうが。場所を借りるにしても、金を取られる。そもそも俺、自前のギター持ってねえからそれも借りてたけどよ、どうすんだ? パンも高い、チーズも高い、野菜もハムも高い。それで家賃まで上がってさ。弾けるわけねえだろ」と熱くなっていった。俺はそれを、自分の言葉が効いていると誤解していたんだ。それ見ろ、お前も言い訳しかしねえじゃねえかと思って、「家賃? 大家にちゃんと文句は言ったのか?」と努めて落ち着いて話してみた。それでも、やつはヒートアップしていくばかりだ。
「俺が働きだすタイミングで足元見てきやがった。嫌なら引っ越すか弁護士を雇えだってよ」
「家賃が浮けば浮いた分だけ、自分で楽器買えるかもしれねえだろ」
「お前みてーに頭のいい人間ってそういうところが嫌なんだ。現実は法律じゃなくて力関係なんだよ。こっちがそんな、半端な知識でおかしいだろと相手を詰めても、すぐ俺たちの知らないほかの例外やら持ち出しきやがる。それで? 弁護士雇って戦うのと、黙って上がった分も家賃払うのと、どっちが安い?」
ここまでくると、オリバーをこういう人間にした大家も、やつの勤め先の人間も憎くなってきて「納得いかねえじゃねえか」と啖呵を切った。
「ああ。そうだよ。本当に。でさ、最近になって分かったことがある。正義ってねえよ」
オリバーが左腕を突き出してくる。小指と薬指はなくなっていて、第二関節から上が飛んで短くなった中指がピンと立てられていた。「あっ」と声を上げることしかできなかった。俺はどんな顔をしていたんだろうな。オリバーはしまったとでも言いたそうな顔をして、「悪かったよ」と謝ってきた。謝るべきか、慰めるべきか分からなくて、俺がちょっと黙っていたら、やつはまた憎まれ口を叩くんだ。右手で左手を隠すようにさすり、小さな声でな。
「お前さ、もうそろそろ胸も膨らんでくる年頃だろ。知り合いが多いからって油断してんのかもしれねえが、こんな時間に出歩かない方がいいぜ」
泣きそうになった。オリバーはそうしたことに踏み込まないと思っていたのに。
「俺がそんなに女々しいか?」
「善意で言ってる。さっさと寮に入れよ」
「前も言ったけど、入れてもらえなかったんだよ……。それで、もうここに来るなってんなら俺、どこ行きゃいいんだよ」
「少なくともここじゃねえよ。じゃあな」
ドアを閉める音は鈍くて、耳がビリビリするくらい乱暴だった。それから、家に帰るまで、よく見知った街が、ひどくよそよそしかった。引っ越した後、前住んでいた家の近くを通りかかったみたいな、そんな感じだ。道路は墨をぶちまけられたみたいに雨で湿気って、街灯も、窓の明かりも幽霊みたいだった。それで、ジロジロ見られている感じもして、逃げ帰った。
自分の部屋に戻っても落ち着かなかった。この街の友達が全員オリバーのようになっていたとしたら? 俺は自分をずっとこの街の人間だと思っていた。それが、気づけば、追い出されていた。いや、俺が出ていったんだ。そのことに気づかず、ずっと、友情は続いていると思っていた。そんなことを考えていると落ち着かなくて、その夜は何も手につかなかった。
それも寝たら多少はマシになったけどな。夜勉強サボったから、朝早く起きて、やることをやっていたよ。それでも、昨日借りてきた本には手を付けられていなくて、『世界大戦後のドイツ政治』なんか、読みおわったら今度はエマが読む番だと約束していたのに、それが遅れそうで、申し訳がなかった。エマにどう詫びようと考えていたよ。
「ジャスティン、ひどい顔だ」
朝になって、家を出るときに、起きたばかりの親父に言われた。
「鏡で見たよ」
「昨晩お前が出かけたことと関係はあるか」
「オリバーがもう来るなって」
親父は察しがいい。普段は気にするなとか、喧嘩なら前もしただろで済ますところを、「そうか……、話したくなったらいつでも聞く」と神妙な顔をして、それだけで終わらせてくれる。
「ありがと。帰ったら詳しく話す」
「いってらっしゃい」
地下鉄の中で、いよいよ、学校で友達を作らねばならない時期が来ているらしいと、そんなことを考えていた。アスターは論外として、まずは自分からこっちにやってきたエマを足掛かりに、周りに味方を作ろうとか、それなら、もうやつを邪険にはできないとか、それでも、いくら頑張っても俺は外様のままなのではないかとか、先生たちに対してはどう対応しよう、彼らにも媚を売った方がいいのかとか、そう思った。きっとヴァイオリンの癖が抜けないように、考え方もしゃべり方も、彼らと同じようにはいかないんだろう。
他の学生が寮から通ってくる中、俺は一度事務室に行って、まあ、そのときはいじめられないかピリピリしていて物は置いていなかったが、ロッカーの中身を一応確認して、事務員から連絡事項について説明を貰ってから、最初の授業の教室に一人で向かう。一人だけ、出勤に近い形で出てきて、気が付いたらそこにいる。考えてみたら、これで周りから浮かないわけがないと思う。
教室に入るとエマが目配せしてきた。それで近づいてきて、「ヘンデルさん! どうでしたか。昨日の本を読んでみた感想はありますか」と見るからに嬉しそうに訊いてきた。周りの人間が意外そうな視線を注いでくる。
「いや……、昨日はドタバタしていて手を付けられていないんだ」
「そうでしたか。顔色も優れませんし」
「あまり眠れてなくてだな。申し訳ない」
「それなら、やはり、図書館で一緒に勉強するという約束も」
「それは一緒にやろうと思ってる。それとな」
「どうしました」
「これからは俺のことをジャスティンと呼んでくれ」
それを聞いてエマは優しい笑みを浮かべたものだから、俺もドキリとしたが、さらに意外なことに、クロエが声をかけてきた。
「ああ、やっと付き合いはじめたんや」
「いえ! そんな関係では」
慌てて否定するエマを、クロエは「そんなこというても、エマ、ずっと彼のこと見てたやんか。誰が見てもバレバレやで」と笑いながら肘で小突く、そして、俺にも「なんや、彼くんも、ツンツンしていけ好かん奴やなあっておもっていたけど、ちゃんと女の子にも優しうできるんや。それで名前は?」と馴れ馴れしく話してくる。
ユスティティアと答えるとまた女の子かと聞かれそうだったし、「さっきエマに言っていたの、聞こえていなかったか」と言うと、「あかんあかん。彼女さんの前でそんな親し気に、ジャスティンって呼ぶとか、できひんわ。名字は?」とこれはこれで面倒くさそうな女だなあと思ったが、「それならヘンデル」と答えると、「ヘンデルさん、エマはちょ~っと真面目すぎるところがあるからそこだけ気をつけたってな」と手を合わせてきたので、エマは「クロエ! いい加減にしないと怒りますよ」と明らかに取り乱していた。周りも「なんやなんや、エマに彼氏できたらしいで」とざわつき始め、レオまで「こんなひょろい男の何がええんや。課外は何やってんねん」と冷やかし始めた。避けられていたと思っていたのが、実際には皆の注目の的だったってことを思い知らされた。これまで彼らに素っ気ない態度をとり続けてきたのが失策だったとも思い、急に怖くなってきた。距離を保っていたことを、敵意の表れと読まれていたのでは大変な誤解を与えたことになる。
それでレオに、敵意がないと見せるため、ちょっとだけ彼にお世辞を言うことにした。
「俺がひょろく見えるのはだな、レオみたいながっしりした体つきの人間がそばにいるから余計にそう見えるだけだ。レオがすごいだけのお話だよ」
俺の言葉にレオは、ニッと口角を上げ、「悪い気はしいひんな。ただな、言葉遣い直しや。アクセントもな」と俺の訛を笑ってくる。
「あまり、この学校で他人と話してこなかったから中々直らなくてだな」
「それなら、これから俺とも話すようにしたらええねん。気軽に声をかけてな」
正直、前はレオのことを見下していた面がなかったわけではないが、話してみると、意外と気さくなのだと分かって、ぜひ、なれるのであれば友達になっておきたいと思った。
その他の人たちからも「寮はどこか」とか、「ジャスティンが例の七番だったのか」とか、矢継ぎ早に質問された。そんなところを、教室に入ってきたパウエル先生に見られた。
「何か問題でもあったのか!」
えらく慌てていたな。クロエが「沈黙の赤毛がやっと口を開いたんです」ニコッと笑うと、さらに困惑して、「ヘンデルくん、ちょっと来るように」と俺を教室の外に連れ出した。
「昨日、ネルソンが君の靴を踏んだと聞いたが、事実か?」
「はい、事実です」
ため息をついて「参ったぞ」とパウエル先生はそのくしゃくしゃの頭を深刻そうに抱えた。
「ただ、エマ・コートが助けてくれました」
「彼女が?」
そうだな。パウエル先生は人が良かったんだ。エマの名前を聞いて「彼女の言うことならネルソンも聞くだろう」と少し安心したようだったが、まだ心配は尽きないようで「今の騒ぎも、もしかしてレオに目をつけられたとかそういうことでは」と訊かれた。やはり、何か誤解をしているようだった。
「いえ、コートさんと話していたら、え~と名字は分からないんですけど、クロエさんが冷やかしてきたんです」
「どういう風に!」
「何か、安心しているようでした。私が同じ人間であることに」
「どういう意味だ」
「私はこれまで誰とも話さなかったではないですか。それを嫌味だと思っていたようです。それが、今日、私がエマと話しているところを見て安心しているように見えました。レオもそうです。それで、名前を知らない人からも、とにかく、色んなことを質問されました」
先生は「それはよかった」とは言ったが、「ただ、いじめられたと思ったらいつでも相談を受けるからな。他にも、私は君の事情を知っているから忠告しておくのだが、出す情報と、秘密にする情報はきちんと分けておくんだぞ。皆寮生活で、とにかくニュースに飢えているんだ。言ったことはすぐに広まると思った方がいい」とまだ心配が尽きない様子だった。
ラテン語のジジイは俺をいない者として扱う。俺も息を殺しているつもりだった。パウエル先生は違う。みんなも違う。俺は最初からそこにいたんだ。見えていたんだ。
「いい先生を持てて幸せです」
「世の中敵だらけと思うなよ。もちろん味方だらけではないことも忘れてはならないが」
「今日よく身にしみてわかりました」
「それで問題がなければ、授業に戻るぞ」
教室に戻ったパウエル先生は手をパンパンと叩いて、「落ち着いて、落ち着いて。はい、今から私語をしたら減点するから」と教室の浮ついた雰囲気を鎮めて、俺は席に戻った。
それで、授業が終わって、教室の外に出ると、レオが俺の肩を叩いて、「ちょっといいか」と声をかけてきた。エマがその少し後ろで心配そうにしているのも見えた。
「俺たち、クソな教師にはとことん反抗することが信条でな」
「はい」
声のトーンはかなり友好的で「お前ときどき、凄い怖い顔してシモンズのこと見てるよな」と笑いかけてくる。皆大分よく俺のことを見ている。
「そりゃあ、生徒に当たり散らしたような授業をするやつを尊敬できないよな」
そう答えると、レオは俺にラテン語のノートを見せてきた。あの授業のときのガリア戦記のノートで「されど、その人らに己の、それぞれ持てる畑はいささかもなし」の訳もしっかりできていて、他の文の訳も正確だった。
「レオ、わざと分からないふりをして、本当はラテン語得意なんだな」
純粋に意外だった。そんな俺の顔を見て、レオは「何だよその顔は」と噴き出しながら、「試験と課題で点が取れないと落ちるレベルで反抗しているからな」とノートをしまった。そこにエマが割って入ってきた。
「彼の邪魔をするのはやめてください」
「おっ、妬かせて申し訳ないな」
「彼に声をかけてどういうつもりですか」
「一緒にシモンズ追放せんかってな」
「あのですね。彼の事情を少しでも知っているのですか」
「知らんなあ。だって、これまで何も話さんかったし」
エマは察していたようだが、レオは、おそらく何も知らないのだ。説明が要ると思って、「俺は一定の成績が取れないと奨学金を打ち切られるんだ」と白状した。
「そうなんや!」
ここで、レオと俺は本当に立場すらも違うのだと思い知らされた。俺のような状況に置かれている人間がいることも意識せずに、家がいいから、先生に反抗できるんだ。香港の王とレオの違いもそこだろう。やはり立場の違いだ。そう考えていたら、レオが声をかけてきた。
「何難しい顔してんねん」
「ああ、ちょっと悩んでてな」
もやもやするが、ラテン語のクソジジイが嫌いなところは一緒だ。
「俺は表立って喧嘩はできねえが」
窓の外に目をやると中庭にシモンズがいるのが見えた。丁度こちらに背を向けている。レオとどっちがムカつくか秤にかけた。結果、シモンズの方がよりムカつくということで「見られないようにこうして、お前らを応援してやるしか」と言いながらやつの背中に中指を立てた。
「お前ほんまに傑作やな!」
レオがドカッと笑った。その声はあちらまで響いていたのだろう。シモンズが不機嫌そうに振り返ってきた。俺はさっと中指をしまったから、すんでのところで見られずに済んだが、そのことでエマが「どうしてそういう危ないことをさせるのですか!」とレオに詰め寄った。それを聞いていたレオは「ええやん。見られんかったんやし」と開き直るばかりだった。
実際俺も、シモンズに中指を立ててスッキリしたのもあって「エマ、そうだぞ。いいだろ。別に」とレオをかばってやった。そんな俺にエマは「もう二度とやらないでください」と苦々しい顔をする。なんだろうな。そのときばかりは普段の重苦しい空気とやらを感じずに済んだ。
さて、もうすぐあのクズ、アスターが来る頃なんだが。お前、全然ビール飲み進んでねえじゃねえか、さっきからメモばっかり取ってさ。約束の時間まであと五分か。まあ、しばらく待っていてくれよ。来るとは思うからさ。
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